Black Bird 1
医院が休みの日に、ロイはたまっていた用事を片付けることにした。午前中は医院のこまごまとした事務仕事を済ませ、大学の恩師から借りた最新医学の論文集を読み終えた。午後は、面倒だからと放置していた手紙を読むのに忙しい。一応、着いた手紙はその日のうちに差し出し人だけは確認をして、急ぎのものはすぐに目を通しているが、それ以外はしばらく放っておいた。
何通目かの手紙を取ったロイは、一瞬手を止めたが、何事もなかったかのように手紙を開き、流麗な文字で記されたそれに目を落とした。
カチャリと小さな音がして、テーブルに紅茶が置かれる。
「ありがとう」
お礼を言って再び手紙に目を戻したロイに、メイドが小さくお辞儀をする。ロイは自分一人のことくらいなら自分でできたが、ある程度の地位と収入のある者は、他人のために働き口と報酬を用意する必要があるという父の教えに従って、通いのメイドを雇っている。
今日マリーは、ウェセスター伯爵令嬢リリーローズと一緒に、ウェセスター伯爵邸でマナーの講義を受けている。退屈な授業を一緒に受けてくれる犠牲者をリリーローズが求め、それにルーファスがマリーを差し出したという格好だが、ロイとしては有り難いことだと思っている。マナーを身に付けて困ることはない。
着て行く服に迷うマリーに、ロイは上等な外出着を買い与えた。服の選定はリリーローズに任せたが。マリーは恐縮して月賦で返すと言ったが、ロイは「僕の贈り物を受け取ってくれないの?」と言って彼女を困惑させた。さらに、「この服を着たマリーを僕が見たいだけなんだから、気にしないで」と、純朴な少女をたぶらかす金持ちのようなことを言ってマリーを黙らせてしまった。
玄関のドアが来客のあることを告げると、メイドが応対に出た。戻って来たメイドは、ロイに取り次ぎの是非を問う。訪ねてきた者の名を聞いて、ロイは頷いた。
「お通しして。それから、今日はもう帰っていいよ」
お客様にお茶をと言うメイドに、それだけ用意してもらい、ロイはメイドを帰した。
ロイが手紙を広げているリビングへ通された客人は、老齢の紳士であった。モーニングをきっちりと着こみ、白が多い髪は後ろに撫でつけられている。彼はマナーのお手本のようなお辞儀をし、ロイの前に立った。
「ご無沙汰してございます、坊ちゃま」
「久しぶりだね、エルバート。もう“坊ちゃま”と呼ぶのはやめてくれないかな」
ソファに座りながら、ロイは老紳士にも座るよう促した。
「坊ちゃまは、わたくしにとっては、いつまでも坊ちゃまでございます」
軽く礼をすることで、老紳士は席を勧めたロイに謝意を示し、同時に固辞した。そして、その態度と言葉で、彼が客人ではなく、ハートネット家の使用人として来たことを伝えていた。
「それで、執事の君が直接僕のところに来るってことは、母様はどんな無理難題を言ったのかな?」
ハートネット家で長年執事を務めている老紳士は、ロイの言葉に苦笑して見せた。それは、ロイの推測が正しいことを表している。
父が執事を遣わしたとはロイは思っていない。父は放任主義なのだ。一度認めた以上、ロイのやることに口は出さないと決めているらしい。たまに家に帰ると、仕事はどうだとチェスや酒の相手をする時についでのように訊いてくるが、「それなりにやってるよ」と答えれば「そうか」と言ったきりだ。
口うるさいのは母のほうで、家に帰る度に、もっと頻繁に顔を見せに来るようにとか、結婚はまだかと訊いてくるので、ロイはいい加減うんざりして家にあまり帰らないようにしていた。ただ、ロイの仕事については、さして興味がないのか、聞いてくることはほとんどない。
「坊ちゃまをお邸へお迎えせよと仰せつかっております」
ロイは無言で、広げたままにしてあった手紙へと視線を送った。随分前に母から届いた手紙は、先程読んだばかりだが、たまには家に帰って来るように、迎えを寄越すと書かれていた。その迎えが、エルバートというわけだ。幼い頃から世話になっているエルバートをロイは困らせたくない。彼を困らせないようにするには、母に従うしかないのだ。
卑怯だが、巧いやり口だ。
「それから、フィリシアお嬢様の体調がすぐれないため、様子を見て欲しいともことづかっております」
「フィルが?」
フィリシアは長兄の娘で、10歳になるロイの姪だ。家を継ぐ兄一家もロイの実家で一緒に暮らしている。ハートネット家にもお抱えの医師はいるはずだが、彼女は医者嫌いで、懐いているロイにしか診察させようとしない。
そのような状況では、実家に行くしかないではないか。
エルバートにわからないように小さく溜息をついたロイの耳に、マリーの帰宅を告げる声が聞こえた。リビングルームに入って来たマリーを、ロイはエルバートに医院の看護婦だと紹介し、マリーにも実家の執事を紹介した。
驚いたのはエルバートのほうで、表情にも声にも一切出さなかったが、美しく着飾り良家の令嬢にしか見えない看護婦が、敬愛する坊ちゃまにとってどんな存在であるのかと想像を巡らせた。
「姪の体調が悪いらしくてね、様子を診に少し実家に行ってこようと思うんだ」
ロイは手短にマリーに事情を話す。
「一緒に来てくれるかい?」
「いいの?」
貴族の邸には仕事で行ったことがあるが、ロイの実家となると、自分などが行っていいのだろうかとマリーは不安になる。
「…マリーがいてくれたほうが、僕は助かる」
ロイは、実家に行くのは、あくまで姪の体調を診るのが目的で、口うるさい母に顔を見せるのはそのついでだと決めた。そして自分が医師として行くなら、看護婦であるマリーを連れて行くのは当然だと自分に言い訳をした。実のところ、マリーを一人で家に置いて行くのが心配なのである。母に捕まれば、この家に帰れるのは夜遅くになってしまうかもしれない。自分の目の届く範囲に置いておきたいなんて、これではまるで、心配症の父親ではないかとロイは心の中で苦笑する。
だが、ロイの心の内などを知らないマリーは、安堵と同行を許された喜びを乗せて微笑み、その辺の男ならみんなうっとりと見とれてしまいそうな笑顔をロイに向けた。
エルバートが乗って来た馬車に乗り込んだロイは、普段の格好から、貴族らしい装いに替えている。隣に座るマリーは、ウェセスター伯爵邸からの帰りだったこともあって、そのままの外出着だ。
ハートネット男爵家の邸は、貴族の邸宅が立ち並ぶ地域にあるが、ルーファスの邸やリリーローズの家とは少し地域が異なる。それでもマリーは豪邸ばかりの車窓に場違いな気がしてしまう。邸に着くと、使用人がずらりと並んでロイを出迎えた。
「お帰りなさいませ、ロイ様」
声を揃えて言われたロイは、困ったように微笑んだ。その光景にマリーは、やはりロイは貴族なのだと今更ながらに再認識する。
「おじさま!」
玄関ホールの先にある階段の上から可愛らしい声がして、ロイは視線をそちらに向ける。そして、すぐ後ろにいたエルバートをじろりと見遣った。エルバートはすました様子で目を合わせない。そうしている間にも、声の主──愛らしい顔立ちを金色のふわふわとした髪に彩られ、似合いの愛らしいドレスを身にまとった少女は、階段を駆け下りてくる。
「おじさま! 会いたかったわ!」
一気にロイに駆け寄ると、迷うことなくその胸に飛び込んだ。ロイもそうされることに慣れているのか、自然と彼女を抱きとめる。
「フィル! なんだ、元気じゃないか!」
兄の娘である少女を抱き上げて、ロイはエルバートにどういうことかと視線で問いかけた。
「先程まで寝込んでいたのは本当ですよ」
「ロイ様が帰って来ると聞いて、待ち切れずに起き出してしまったのです」
少女が現れたのと同じ方向から、二人の女性の声が聞こえた。優雅に階段を降りてくるのは、年配だが美しい気品あふれる女性と、上品で優しげな若い女性だった。
「母様、義姉様」
少女を床に下ろすと、ロイは頭を下げて「ご無沙汰しています」と挨拶をした。年配の女性─ロイの母は「ええ、本当に」と答え、若いほうの女性─長兄の妻は「お元気そうでなによりですわ」と優しく微笑んだ。
「それで、そちらの可愛らしいお嬢様はどなた?」
はっきりとロイの母が尋ねたことで、ホールに集まっていた使用人たちの好奇の目がマリーに向けられた。たまにしか顔を見せないハートネット家の三男が女性を連れてきたのは初めてのことなのである。しかもそれが、こんなに若くて美しいなんて!
「彼女はミス・メアリー・ブラック。うちの看護婦だよ」
ロイに母親たちを紹介されて、マリーは頭を下げる。リリーローズのところで教わったことを間違えないように、淑女の礼に則って挨拶をする。
その様子に、目をみはったのはロイの母だけではなかった。看護婦という職業から、彼女の身分はそれほど高くないと判断したのだが、その彼女が完璧な淑女の礼をしてみせたのだ。彼女が身にまとうものも、上等なものだ。それらは、ロイが彼女を側に置くために与えたものだと受け取ることもできる。
ロイは、そんな驚きと問い掛けを含んだ視線に気付かないのか、あるいは無視することに決めているのか、頓着する様子もない。
「フィルが病気だというから一緒に来てもらったんだけど」
無駄足だったかな、と言わんばかりのロイに、フィリシアは「ほんとうに、昨日から体調が悪いのよ、今だって熱っぽいし」と訴えた。フィリシアの額に手を当てたロイは、彼女の訴えを認めたようで、すぐに寝室に戻るように言いつけた。フィリシアの母親に頼んで彼女を寝室へ連れて行ってもらう。
ロイは自室へと行き、動きやすい服に着替える。マリーはすぐさま客室の一つをあてがわれ、やはりそこでいつもの看護婦の服に着替えた。外出着のままでは仕事ができないからだ。
寝間着に着替えさせられベッドに寝かされたフィリシアを、ロイは叔父ではなく医師の顔になって診察する。軽い夏風邪だと診断したロイは、フィリシアにおとなしくベッドに寝ているように言いつける。食欲はあるかと問うと、喉が痛いからあまり食べたくないとフィリシアは答えた。確かに彼女の喉は腫れていた。ロイはフィリシアが食べやすいようにサマープディングを作ってくれるようマリーに頼む。
「メルル、キッチンへ案内して。それから、ベリーの調達を頼む。庭にあっただろう?」
フィリシアの部屋に控えていたメイドにロイは声を掛ける。メルルと呼ばれた、ダークブラウンの髪に鳶色の瞳をした美しい女性は、ロイよりは少し年下だろうか。礼をすることで了承の意を伝えたメルルは、マリーを案内して部屋を出た。
部屋に残ったロイに、フィリシアはベッドから視線を向ける。
「おじさま、あの人と結婚するの?」
「……どうしてみんな、そういう聞き方をするのかな」
マリーを妻にするつもりなのか、とロイに訊いたのは、一人ではない。
「だって、あの人がおじさまを好きなのは一目瞭然だし、おじさまだって、あの人のことを特別にあつかってるでしょ。“マリー”なんて呼んじゃって」
ませた姪の発言に、ロイは苦笑した。確かに『マリー』はメアリーの一般的な愛称ではない。ロイが彼女をそう呼ぶのは過去の経緯があるのだが、それを知らなければ、彼が独自のニックネームを彼女に付けていると思われるかもしれない。
「確かにマリーのことは大事だし、好きだけど、そういうんじゃないよ」
「じゃあ、どういうのなの?」
「……そうだな、フィルを好きな気持ちと似てるかな」
年々おませになって大人びてくるフィリシアは、そう簡単には納得してくれなさそうだった。「さあ、少し寝なさい。起きた時には、美味しいサマープディングができてるよ」と言ってロイは話を終わらせ、フィリシアの髪を撫でて寝かしつけた。
フィリシアが目を覚ました時、ロイの姿はなかった。部屋に戻ってきていたメルルに手伝ってもらい、フィリシアはベッドに上半身を起こす。背中にクッションを入れてくれたメルルにロイの所在を問えば、「奥様に呼ばれて行かれました」と返って来た。おばあさまには逆らえないものね、と納得したフィリシアの前に、切り分けられた美味しそうなサマープディングが差し出された。それを受け取って、フィリシアはそれを渡した主である看護婦を見遣る。
艶のある黒い髪は、珍しいと言って差し支えない色合いだ。瞳はサファイアのような青。どこかエキゾチックな印象を与える美貌は、身分の低さを差し引いても、十分に美しい。
彼女が作ったサマープディングをフォークで切り分けて口に運べば、心地好い冷たさと甘酸っぱさが口に広がる。
「…美味しい…!」
驚くほど美味しいそれに、フィリシアは感激した。
「ねえ、マリー、そう呼んでいいわよね? 美味しいわよ、これ!」
「ありがとうございます。ぜひ、マリーとお呼びください」
フィリシアに応えてマリーは微笑んだ。安堵と喜びを乗せたその笑顔は、美しいものを愛でる小さな少女を魅了するには十分だった。