Black Widow 3
一刻も早くロイに報告しなければ、と逸るマリーの前に人影が現れて、マリーは足を止めた。アッシュブロンドの男が微笑んでいる。だが、その眼は笑っていない、とマリーは直感した。
「どこへ行くのかな、仔猫ちゃん」
「伯爵様に薬を持っていくところです。何かご用ですか」
仔猫ちゃんと呼ばれることに反発はあったが、いちいち相手にしてもいられないとマリーは事務的に受け答えをした。
「その蜂蜜は?」
「薬が苦いので、伯爵様が飲みにくいようなら薬を甘くしようと思っただけです」
半分は嘘ではない。当初はそのつもりでこの蜂蜜を使ったのだ。
「そう」
ヘンダーソン家の主治医は、微笑んだままでマリーを見ていた。なぜだか居心地が悪くてマリーは早くこの場を去ろうとする。
「ご用がそれだけでしたら、これで」
通り過ぎようとするマリーの腕を、男が掴んだ。
「久しぶりに会ったのに、そんな他人行儀にしないでよ、キティ」
振り返ったマリーの目の前に、眼鏡を取った男の瞳が晒されて、マリーは思わず声を上げそうになった。暗い、ダークブラウンの眼は、どこまでも深い夜に続くようで、色で言えばもっと黒い母の瞳よりも、ずっと闇に近かった。
既視感。この男に会った時の違和感は、これであったのか。
「……どなたかと、勘違いなさってるんじゃありませんか。私たちは今日が初対面ですよ」
自分の持てる演技力の全てを注ぎ込んでマリーはしらを切った。気付かれるはずがない。あの時とは、名前も、髪の色も違う。そう思い込もうとする。だが、この男だってあの時と髪の色は異なるが、その瞳を見て自分はわかった。慌ててマリーは男に向けていた自分の青い瞳を伏せる。気付かれてはいけない。そんなことになれば、ロイの側にいられなくなる。
「そんなはずはないよ。僕がキティを見間違えるわけないもの」
男が一歩進み出て、マリーは一歩下がった。腕は男に取られたままだ。男の侵略から逃げようとすれば後退するしかなく、いつしかマリーの背後には壁が迫っていた。
「何をしているんですか」
硬い声が廊下に響いた。その声にマリーは安堵し、泣きそうな目を声の主に向ける。
「嫌がっているじゃないですか、離してください」
ロイは男の手を掴んでマリーから引き剥がすと、男とマリーの間に体を滑り込ませた。
「お引き取りを」
男はロイをしばらく観察していたが、やがて肩をすくめてマリーから離れた。「またね、キティ」と言い置いて去っていく男を、マリーは見ることができなかった。
「大丈夫かい、マリー?」
優しい声音に変わったロイが問いかける。マリーは頷き、「知り合いかい?」との問いには首を左右に振った。
「誰かと勘違いされたみたい」
あの男に対して嘘を吐くことには何の抵抗もなかったが、ロイに対する嘘は、罪悪感を覚えさせた。それでも、ロイに知られるわけにはいかない。
「なかなか戻って来ないから、心配したんだよ」
それで探しに来てくれたのだと悟ると、マリーはぎゅっと抱きつきたい衝動にかられる。手には薬湯と蜂蜜を持っているので、そういうわけにはいかなかったが。
「ごめんなさい。あのね、ロイ、大事な話があるの」
心配を掛けたことを謝ってから、マリーは切り出した。廊下ではさすがにしづらく、かといってヘンダーソン伯爵の寝室でもしにくい話だ。ロイとともにヘンダーソンの寝室に戻ったマリーは、薬湯をヘンダーソンに飲ませると、ルーファスに近くの部屋を借りてもらった。隣の部屋を執事から借りた三人は、ヘンダーソンにはメイドを張り付けさせて部屋を移動した。
そこでマリーは、二人に重要な話を聞かせた。
「ヘンダーソン伯爵は、命を狙われているのではないかしら」
マリーを見遣る二人の目は、微妙に表す感情が異なる。ルーファスはやはり、と思い、ロイはそれよりも、なぜマリーがそう思うに至ったかを聞きたそうだった。
「これ、毒の蜂蜜なの」
キッチンから持ち出した蜂蜜の瓶を、マリーは二人の前に差し出した。
「伯爵様専用なんですって」
さらにそう言えば、ロイもルーファスも驚いた顔をした。
「何者かが、毒が入った蜂蜜をヘンダーソン伯に食べさせていたということか?」
ルーファスの言葉にマリーは頷き、補足を加えた。
「正確に言うと、蜂蜜に毒を入れたのではなくて、毒の花の蜜で作った蜂蜜なんです」
「毒の花?」
今度はロイが問う。
「レンゲツツジという花は、花全体に毒があって、その花粉や蜜も毒を持っているの。蜂がその花の蜜を集めて作った蜂蜜は、味は他の蜂蜜と同じだけど、毒は消えない」
以前マリーにはロマの友人がいた。各地を旅してきたその友人から聞いた話では、その毒に即効性はなく、血行を促進する効果もあるので、その蜂蜜を薬として用いる地域もあるそうだ。むろん、毒としても用いるそうだが。
心臓を患っているヘンダーソンに、この蜂蜜を与え続けたらどうなるか。──結果は、毒グモに咬まれた時と同じになるだろう。
「ヘンダーソン伯爵様は、この毒を摂り続ければ、いつか心臓発作を起こすはずです」
誰かが、じわじわと時間を掛けて、それとわからぬように周到に、ヘンダーソン伯爵の命が尽きる時を待っていたに違いない。
二重三重の罠を掛けて、クモが巣に獲物が掛かるのを待つように、じっと息を潜めて。
「誰が…?」
ロイの呟きに、ルーファスが沈黙で応える。その動機が怨恨によるものならば、人の心など覗けはしないから、誰にでも容疑は降りかかる。だが、その死によって利益を得ようとする者がいるのなら、おのずと範囲は狭まる。
「伯爵様専用の蜂蜜を持ってきたのは、主治医だそうです」
マリーがメイドから聞いたことを伝える。彼なら、狡猾に、そしてじわじわと追い詰めて、しかもそれを本人には悟らせずに、死に至らしめることを、愉悦をもってやってのけるだろう。そういう男だ。
だが、この場合、この男の目的は人を殺すことであって、自分が利を得ることではない。
「そしてその主治医は、伯爵夫人と懇意のようでした」
先程見た伯爵夫人と主治医のやり取りを報告する。マリーの情報を持って考え合わせれば、ヘンダーソンの死を望むのは、一人に絞られる。
「夫人、か…」
ヘンダーソンが死ねば、夫人には遺産が入る。子どもはいないから、ヘンダーソン家に囚われる理由はない。そして情夫である主治医と、夫の遺産で優雅に暮らせるというわけだ。
「伯爵夫人はアカシア蜂蜜しか召し上がらないそうですから、蜂蜜の毒を知っている可能性が高いです」
そうなれば、主治医が勝手にやったことではなく、夫人の指示で主治医が行った、あるいは主治医が主導しそれを夫人が認めたか、もしくは共謀したか、ということになる。いずれにしても、夫人の殺意は否定できないだろう。
「……またあの男を呼ぶはめになるのか」
忌々しそうにルーファスが呟いた。
「向こうもまた呼び出されるのかと思うだろうね」
殺人未遂事件となれば、警察を呼ばないわけにはいかない。嫌そうな顔をしながら、ルーファスと嫌味の応酬をするであろう友人の顔を思い浮かべて、ロイは苦笑した。
最初、ヘンダーソン伯爵夫人カミラは否定した。自分は何も知らない、毒グモのことも、毒の蜂蜜のことも。夫は患っていた心の臓の病を悪化させたに違いない。なにゆえありもしない殺意をでっち上げ、自分を悪者にする必要があるのか、とルーファスに喰ってかかった。
「あなたはご実家の借金をヘンダーソン伯爵に肩代わりしてもらったそうですが、主治医とのことがばれて、これ以上関係を続けるなら全額を返すようにと、伯爵に迫られていたようですね」
ロイの言葉に、カミラは顔色を変えた。なぜ知っているのかと問いたげだが、なぜばれないと思うのかがむしろ不思議だった。貴族の周りには、常に他人がいる。よほど忠誠心の強い者でもない限り、使用人の口に戸を立てるのは困難だ。だから本当に知られたくないことがある時は、誠意を尽くすか、見返りを与えるかしなければならないのだ。それを怠ったのは、夫人の失策であろう。
「ヘンダーソン伯爵が死ねば、口うるさい者はいなくなり、あなたには遺産が入る。あなたにとって都合の好いことばかりです」
「私は主人を愛しているのよ。そんなことあるわけないじゃない」
しらじらしい嘘だった。演技力も何もあったものではない。
「近頃夫婦仲は芳しくなかったと、ヘンダーソン伯は言っているが、彼の勘違いだろうか」
ルーファスの言葉に、夫人は眉を顰めた。
「先程ヘンダーソン伯爵が目を覚まされました」
まだ起き上がれないが、意識ははっきりとしている。ロイの言葉は、夫人の敗北が八割がた決定したことを告げていた。
ヘンダーソンにより、あの蜂蜜を体にいいからと夫人が勧めていたことが明らかになっている。また、クロゴケグモを伯爵のもとに持ち込んだのは主治医であること、彼は毒があるとは言ってはいなかったこと。そして、ヘンダーソンのコレクションルームに現れた主治医が、クモがヘンダーソンを咬むように仕向けたことも証言されている。
既に邸にいたはずの主治医を、ヘンダーソンが倒れた後、夫人がさも今から呼んでくるようなことを言ったのは不自然だ。そして、彼女の失敗はこれだった。すぐに主治医にヘンダーソンを診させれば病死として扱えたものを、ルーファスがロイを呼んでくることを許したために、ヘンダーソンは命を取り留め、事は露見した。
「……あの、男…忌々しい! 死にぞこないのくせに、こんな時に生き延びて!」
追い詰められて自棄になったのか、カミラは唐突に開き直った。美しかったはずの顔は、怒りと絶望に彩られ、醜く歪んでいる。黒い本性を顕わにした、未亡人になり損ねた女は、自分勝手な正義を声高に主張した。
「あの男は、私の実家の借金を勝手に肩代わりして、そのかたとして私を手に入れたのよ。あの男は金で私を買ったのだから、あの男の金は全て私のものよ。当然の権利でしょ!?」
「あなたが遺産を受け取るのは勝手ですが、ヘンダーソン伯爵の命の期限をあなたが決めることは、まかりなりません」
ロイの声は冷然としていた。彼女に遺産を受け取る権利があるのだとしても、それは夫人としての務めをまっとうした後のことであり、人を殺めて手に入れていいものではない。
「それ、は…私じゃないわ。主治医がやったのよ。クモも蜂蜜もよ。絶対にばれないからって。嘘ばっかり。何が大丈夫よ、何が心配することはない、よ。全部嘘じゃない」
「それで、その主治医はどこへ行ったんですか?」
「知らないわ」
これは本当だった。気付いた時には邸内に姿はなく、カミラがどんなに探しても見つけられなかった。彼のもとに使いの者を出したが、戻って来た使いは、彼の住居は既にもぬけの殻だったと報告した。
おそらく、マリーがあの蜂蜜を持っていたことで、彼は自分の企みが彼女に知られたことに気付いたのだろう。
マリーは、カミラに同情の余地はないと断じたが、彼女の言ったことで頷けることはあった。「全部嘘」である。そう、あの男は全て嘘だ。存在そのものが嘘であるかのような男だ。彼女もあの男の餌食になったに過ぎない。もっとも、人の死を望み、あの男が手を下そうとすることに許可を出したのだから、被害者であることはないけれど。
「詳しい話は、署でじっくり伺うとしましょうか」
ヒステリックにわめきたてる夫人のもとへ、悠然と近付いた男が言った。
「やっと来たか、アークライト」
「またあなたですか、ヴァンシタート伯爵」
ルーファスの声に振り向いたロンドン警視庁のアークライト警部は、うんざりしたような表情を作ってみせた。
「今回は誰も死んでいない」
「そこ、胸を張るところじゃありませんから。第一、それはロイの功績でしょうよ」
「ロイを呼んだのは俺だ」
「はいはい」
またしても始まった二人のやり取りに、ロイは肩をすくめて苦笑した。それに笑みを返したマリーに、ふとロイは思い出したように尋ねた。
「そういえば、あの蜂蜜が毒だって、どうしてわかったの?」
興味本位で舐めたら毒でした、とはとても言えない。普通の人なら気付かないだろう。マリーは、以前に毒の知識を教えられ、試してみたことがあるからわかったのだ。それは、組織で一緒だった例のロマの友人から教わったのだった。
「……まさか、自分で試してみたんじゃないだろうね?」
結果的にはそうなのだが、ロイがしかめつらしい表情をするので、マリーは慌てて弁明する。
「あの、えっと、偶然なのよ。ちょっと、舐めちゃってね、それで…」
「だめだよ。二度としてはだめだ」
ロイの厳しい声と真剣な目が、自分を案じてのことだとマリーには理解できたので、マリーは素直に謝った。
「はい。ごめんなさい」
マリーの返事にロイは表情を和らげ、ふわりとマリーの髪を撫でた。それで許されたことを知り、そしてその掌に親愛の情が込められていることを喜びながら、マリーは、そっと心の中で祈った。
どうか、どうかあの男が二度と現れませんように。一秒でも長く、ロイの側にいられる時間が続きますように。
───僕が君を逃がしてあげると思うの、ねえ、仔猫ちゃん?