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Black Widow 2

 ジャック・ブラウンという名の──本人が名乗らなかったのでヘンダーソン家の使用人から聞いた──主治医をヘンダーソン伯爵の寝室から追い出すことに成功したロイとルーファスは、深刻な表情をしてベッドに眠るヘンダーソン伯爵を見た。

 マリーから、先程ヘンダーソンが一瞬目を覚ましたと報告を受けて頷くと、ロイは眠るヘンダーソンの様子を窺う。先程と特には変わらないようなので、そのまま彼のもとを離れて窓際まで歩く。ルーファスもそれに続き、マリーを手招きする。男二人の様子に、ヘンダーソン伯爵の容体はそれほど深刻なのかとマリーは心配する。

 ところが、彼らの口から聞かされたことは、マリーの想像とは少し異なっていた。

「ヘンダーソン伯爵の腕にあった刺咬痕、あれは、毒グモに咬まれたものだ」

「毒グモ?」

 マリーの問いにロイは頷く。

 ヘンダーソン伯爵の動植物のコレクションの中には毒を持つものもいくつかあった。彼はヨーロッパだけではなく、アメリカ、オーストラリア、清、日本などから植物や虫たちを集めている。彼のコレクションルームには生きたクモも何種類かおり、その中で毒を持つものは二種類だった。一つはタランチュラ、ヨーロッパに生息する大型の毒グモだが、毒性はそれほど強くない。そしてもう一つは、1.5インチほどの小さな艶のある黒いクモで、腹部に砂時計のような形をした赤い模様がある。

「クロゴケグモという名の、主に北米に生息する毒グモだ」

 こちらは、ヨーロッパに生息するジュウサンボシゴケグモ同様、強い毒性を持つ。ただし、小さなクモなので、咬まれたからといって死に至るほどの毒が体に回ることは稀だ。軍医をしていた頃、ロイはアメリカに行ったことがあり、現地の医者からクロゴケグモの話を聞いたことがあった。

 咬まれて死ぬほどの毒ではないが、痛みはあり、筋肉の痙攣、発汗、心拍数の増大、呼吸困難などを生じ、場合によっては不安、幻覚症状をきたすこともあるという。これはジュウサンボシゴケグモに咬まれた時の症状に近い。

 ヘンダーソン伯爵の体にも、心臓の辺りをかきむしったような痕があったが、痛みと呼吸困難によるものだろう。

 そして、彼の心臓発作も、このクモの毒によるものだと考えられた。

 健康な人間には命に関わるほどではないというこのクモの毒だが、幼児や老人、病弱な人間には影響するという。筋肉の痙攣や麻痺、それに、急激な心拍数の増加、血圧の上昇が心臓に負担を掛ける。もともと心臓を患っていたヘンダーソンなら、それが原因で心臓発作が起きてもおかしくはない。

「ヘンダーソン伯爵が倒れていたコレクションルームにあった虫かごから、数匹のクロゴケグモがいなくなっていた。一匹はヘンダーソン伯爵が倒れた時に下敷きになったんだろう、つぶれて死んでいた」

 残りについては、ヘンダーソン家の使用人に探させている。くれぐれも素手で触らないように、と注意をして。

 ロイの説明を聞いて、マリーは首を傾げた。

「じゃあ、ヘンダーソン伯爵の心臓発作は、クモに咬まれたことによる事故ということ?」

「そうとも考えられるけど」

 ロイは言葉を濁し、続きをルーファスが引き継いだ。

「───事故とは限らない」

 その答えを、マリーの思考回路は考えることを拒否していて、いくつも寄り道を重ねたが、結局行きつく先はそこしかなくて、仕方なくマリーはそれを口にした。

「誰かが故意に咬ませたということ?」

「可能性は皆無じゃない」

 ルーファスは頷いた。

「ヘンダーソン伯は、クモに毒があると知らなかったようだ」

 コレクションを自慢する時にも毒だとは言っていなかった。タランチュラの毒の話はしたのに。だから、ロイに毒グモだと説明されるまで、ルーファスもあの黒いクモが毒を持つとは知らなかったのだ。

 ヘンダーソンがあのクモが毒グモであることを知らずに素手で触ってしまい、咬まれてしまったという可能性はある。それなら事故だ。しかし、ルーファスの警鐘を鳴らす鐘つき番は、乱暴に鐘つき棒を振り回していた。

「彼が死ねば得をする人間が、この世にはいるんだ」

 さすがに、眠っているとはいえ本人を目の前にしてそれを言うのは憚られて、ルーファスは口には出さなかった。

「毒グモに咬まれたというのはね、状況証拠でしかないんだよ」

 ロイが言うのは、それが故意かどうかということではなく、引き起こされた症状の原因が何であるかということである。人の血液や体液から特定の毒を取り出し、それをもって何の毒であるから、何というクモに咬まれたのだと断定することはできない。毒グモに咬まれた時の症状、クモ咬刺症が現れ、患者にクモらしきものに咬まれた痕があり、近くにクモがいたからそれが原因だろうと推測することしかできないのだ。

 もしもこれが故意ならば、巧妙な手口と言わざるを得ない。場合によっては原因不明で、ただの心臓発作とされる可能性もある。しかも、クロゴケグモは北米に生息するものでヨーロッパではまだ知られていない。毒グモであることさえ知らない人が多いのだ。

「でも、原因が毒だとわかれば、対応は変わってくる」

 そう言って、ロイはマリーに治療方法の変更を告げた。心臓発作への対処法として処置をしていたロイだが、毒が相手となればその解毒に重きを置く。とはいえ、解毒薬などは存在しないので、採るべき方策は、水分を多く採らせ排出を促す、これに尽きる。

 ロイはマリーに薬湯の準備を頼んだ。マリーは師匠であった老看護婦からハーブを使った薬効を伝授されており、解毒を促す薬湯を作るよう頼まれたのだ。ロイはハーブの効能などについては自分よりもマリーのほうが詳しいことを知っているので、ハーブを使った薬についてはマリーに任せていた。

 マリーはヘンダーソン伯爵の寝室を辞して、キッチンの使用許可を取るためにヘンダーソン伯爵夫人カミラを探した。邸内には、もう既にルーファス以外の客人の姿はなかった。ホストであるヘンダーソン伯爵がこんな状態では、とてももてなしなどできる状況ではなく、客人たちを帰したのだろう。

 夫人の姿を探して邸内を歩いていると、ふらふらと歩くカミラを見つけた。マリーはカミラへと近付こうとするが、どこか虚ろな表情の彼女は近寄りがたく、何となくマリーは後を追う形になった。夫人は頼りない足取りであるにもかかわらず、行き先は決まっているようで、どんどん奥まった物陰へと進んで行く。

「ジャック」

 カミラが立ち止まり、彼女が呼んだ名前の人物がそこに待っていた。カミラはアッシュブロンドの青年に抱きついて「ああ」と声を漏らした。

「大変なことになったわ。どうしましょう?」

「大丈夫です、何も心配することはありません」

 夫が突然倒れ、混乱し、困惑して精神的に参っている夫人と、それを慰め元気づける主治医──の図には、マリーには見えなかった。どんなに懸命にそう思い込もうとしても、マリーの希望的観測は、小指の先で触れれば倒れてしまうような、いびつな積み木の塔のようなものだった。

 会話だけを聞けばそのように受け取れるのだが、彼らはその会話の間、ぴったりと寄り添うように抱き合っており、なおかつ主治医は答えた後に夫人の頬に口づけをしている。その様子が、とても伯爵家の女主人と主治医とは見えなかった。愛しい男にすがる女と、それに応える男、という題名を付けたほうが、ずっとしっくりくる。

「でも、ヴァンシタート伯爵と、その主治医が…」

 ルーファスとロイのことを言われて、マリーの心臓は跳び上がった。

「いいえ、大丈夫です。長い時間をかけてきたのです。少しくらいの予定変更は、たいしたことではございません」

 不安と焦燥を混ぜて乱暴にかき回したような夫人の声に対して、主治医の声はとても落ち着いていた。その落ち着きは、夫人にいくらか安堵の表情をもたらしたが、マリーには安心の材料をくれはしなかった。その声にマリーの不安がかき立てられるのは、何も夫人の焦りと男の落ち着き払った態度が不似合で不協和音を奏でているからだけではない。その男の声は、どこかマリーを不安にさせるのだ。安堵するほどの落ち着きなのに、それを聞いて安心するはずなのに、それを許さぬ緊張感を孕むその声は、どこかで聞いたような気もする。

「ああ、ジャック、ジャック」

「大丈夫です。ご案じ召されますな」

 男に取りすがる夫人に対して、男は微笑んで見せた。そして喘ぐような彼女の唇を奪い、食むように貪る。

 そのような場面に出くわして、マリーはすぐにでも踵を返したかったが、体はなかなか言うことを聞いてくれなかった。無理に動けば要らぬ物音を立ててしまいそうで、存在がばれてしまう。

 ところが、アッシュブロンドの男は、口づけの最中に目を開け、その視線だけをマリーに注いできた。自分の存在が既に男の知るところであったことを悟り、マリーは焦る。だが、男の眼鏡の奥の、暗い色の眼を見た途端、なぜか体が硬直したように動かなかった。

 あの時のような恐怖が体を駆け廻り、マリーは体が冷えて行くのを感じた。


 ───キティ、君は僕を裏切らないよね?


 男が口の端を歪めて微笑の形を作ったとき、とうとうマリーは我慢できなくなって、体中の力を総動員してやっと背を向けた。そのまま足早にその場を去る。口に両手をあてて、せり上がる叫びと嗚咽を懸命に堪えなければならなかった。

 できることなら、このままヘンダーソン伯爵の部屋に駆け戻って、ロイの胸に飛び込みたい。あの温もりの中で安心というねぐらの中に籠ってしまいたかった。

 だが、マリーは自分が看護婦であるという誇りと、ロイに頼まれた仕事中であるということを忘れるほどには理性を欠いてはおらず、ともすれば自分の意思を無視して動き出しそうな足を叱咤してキッチンへ向かった。

 ヘンダーソン伯爵夫人の許可を取ることを諦めて、それでも一応はメイド長の許しを得てマリーはキッチンへと入った。薬湯を作るのに必要なハーブなどは持参して来ている。キッチンにいたメイドに頼んでお湯を沸かしてもらい、その間にハーブの準備をする。

 ハーブを煮出した薬湯を作り、マリーはそれを薬指の先に付けて味見してみた。マリーの知る味のとおりに苦く、「良薬口に苦し」という古くからのことわざに偽りがないのだと再確認する。だが、慣れたマリーでも苦いのに、ヘンダーソン伯爵が飲んでくれるだろうかという疑問がマリーを襲った。ただでさえ体が弱って食物を受けつけないのに、こんなに苦くて大丈夫だろうか、とマリーは辺りを見回す。

 棚の端に良さそうなものを見つけてマリーはそれを手に取った。

「あ、それは…!」

 まずい、とでも言うように、慌ててメイドが走って来た。

「申し訳ありません、それは伯爵様専用の蜂蜜でして」

 蜂蜜まで専用とかあるのか、と金持ちは何を考えているのかわからない、とマリーは苦笑した。

「伯爵様しか召し上がらないということですか?」

「そうです。この瓶の蜂蜜は、伯爵様専用のものです」

「では、奥様はどうしていらっしゃるの?」

 主人の蜂蜜が使用人と異なることはあるとしても、夫婦で異なるものを使うだろうか。

「奥様はアカシア蜂蜜しか召し上がりません」

 メイドの眼が棚の奥をちらりと見た。何という贅沢なことか。マリーは呆れたが、それを口にはせず、必要な説明だけをした。ヘンダーソン伯爵に飲ます薬湯を、飲みやすくするために甘くするのだと言うと、伯爵様の口に入るのなら、とメイドは納得して席を外した。

 とろりとした蜂蜜をスプーンですくい、マリーは薬湯に落とす。伯爵様専用ねえ、と考えて、蜂蜜の付いたスプーンを見つめる。いかほどのものかと興味を押さえられず、マリーはメイドの目が離れたのをいいことに、スプーンを口に入れてみた。

 母から聞いたとんち話を思い出してしまった。とあるお師匠様が─母の国で言うところの司祭のようなものだと言っていた─弟子たちに隠れて甘い蜜を食べていた。弟子たちには、この壺の中身は毒で、大人は大丈夫だが子どもが食べると死んでしまうと言っていた。しかし、その壺の中身が蜜であることを知っている弟子たちは、何とかその蜜を食べたいと知恵を絞る。お師匠様が留守にした隙に弟子たちはその蜜を食べつくし、そのままでは当然お師匠様に叱られるので、皿を一枚割っておく。帰って来たお師匠様に、弟子たちはこう言うのだ。「お師匠様の大事な皿を割ってしまい、死んでお詫びしようと毒を食べたのですが、いっこうに死ねないのです」と。

 マリーはスプーンを取り落とし、口の中に広がる甘みと、体を駆け廻る衝撃に驚いた。体は高揚したように熱くなり、吐き出す息は甘く熱い。

 先程のメイドを探しにマリーはキッチンを出た。すぐに彼女は見つかり、マリーはメイドを捕まえて問い詰めた。

「あなた、伯爵様の蜂蜜を食べたことがあるでしょ?」

「え?」

 メイドは困惑と怯えをない混ぜた表情を隠さずにマリーを見遣ったが、マリーには確信があった。人間、駄目と言われれば試したくなるものだ。

「私は伯爵様に言いつけたり、あなたを責めたりする気はないわ。正直に教えて。食べたこと、あるでしょう?」

 有無を言わさぬマリーの迫力に、メイドは恐る恐る頷いた。幾人かのメイド仲間と一緒に舐めてみたことがある、と。だが、その時の一人が──最も多く舐めたという──鼻血を出して倒れてしまったので、罰が当たったのだと反省してそれ以来はしていない、と弁明した。マリーは彼女に告げ口は絶対にしないと約束し、さらに詳しく話を聞いた。

 そして、キッチンに戻り、先程作った薬湯を全て捨て、今度は夫人用のアカシア蜂蜜を入れて作り直し、伯爵用の蜂蜜の瓶を掴んでキッチンを出た。

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