Black Widow 1
むせかえるほどの甘い香りに、ルーファス・アズラエル・ヴァンシタート伯爵は眩暈を起こしそうな感覚に陥った。濃い霧の立ち込める湿度の高い空気のなか、まとわりつくような芳醇な香りが鼻孔を刺激した──のは、いつのことだったか。
香りは、記憶と結びつくものだと誰かが言っていた。
断片的に脳裏に蘇る光景──郊外の緑に囲まれた邸、庭に咲き揺れる淡い紅色の百合の花、棺を運ぶ男たち、遠くで聞こえる幼子の泣き声、隣に立つ父──は、ロンドンの街のように霧に包まれる“あの頃”の記憶であることを教える。
あの時、父は、幼いルーファスに何と言ったのだったのか。普段は威厳が服を着て歩いているような父の言葉が、懇願するような響きを持って、ひどく厭だったことは覚えている。だが、肝心のその言葉を思い出すことができない。
あの頃、ルーファスの身には衝撃的な出来事がいくつか重なって起こり、そのせいか記憶に抜け落ちている部分があった。霧の中を漂うように、頼りない記憶の断片が残されているだけだ。そう、確か、あの後だ。通いでルーファスの家庭教師をしていたロイがヴァンシタート家の邸で寝起きするようになったのは。ルーファスがロイの姿が見えないと不安がるので、ヴァンシタート邸から大学に通って側にいてくれたのだった。ロイはルーファスがパブリックスクールに入学して寄宿舎生活になるまでの間、ずっとそうしてルーファスに寄り添ってくれた。
「…く、ヴァンシタート伯爵」
呼ばれたことに気が付いて、ルーファスはやっと記憶をさまよう淵から浮上した。
「……ああ、ヘンダーソン伯爵」
そうして、目の前にいる人物を認識して、自分がいるのが、あの百合の咲き乱れる邸の庭ではなく、知人であるヘンダーソン伯爵のサンルームであることを思い出した。
そこには、ヘンダーソン伯爵が集めた幾種類もの花々があり、甘い芳香を放つ百合も数種類あった。
「これは…」
それらの中からルーファスが目を留めた花に、ヘンダーソン伯爵は自慢げに説明した。
「桃色の百合は珍しいでしょう。日本から取り寄せた百合で、『乙女百合』というのです」
白や黄、オレンジ系が多い百合の種類において、淡い桃色の花を付けるものは珍しい。愛好家の間では珍重されるのだろう。
「前のヴァンシタート伯もこの花をお気に召して、彼に請われていくつかお譲りしたものです」
ヘンダーソン伯爵が父とも知り合いであったことは知っていたので、ルーファスは彼らにそのようなやり取りがあったことには別段驚かなかった。だが、ロンドンの邸にも、領地の領館にも、そのような花は見当たらなかった。とすれば、あの記憶の霧の中に紛れるあの邸で見た淡い紅色の百合がこの花なのだろう。
「乙女百合…」
ちらりと垣間見た、女性の姿が蘇る。年若いその女性は、子がいたというが、実年齢よりも若く見え、乙女のようであった。
「別名で『姫早百合』などとも呼ばれているのだとか」
なるほど、まさに彼女のための花だったのだとルーファスは悟った。父が彼女のためにあの邸に植えた花。甘い香りは、ルーファスの記憶を刺激し、同時に頭痛のような拒否反応も引き起こした。
───恨んでなどいない。
かつてロイに言ったのは偽りではなかった。それほどの感情を、ルーファスは彼女に対して持ち合わせていない。もっと早くに出会っていれば、あるいは、恨みごとの一つも言えたのかもしれないが。
「美しいですね」
ルーファスは素直に感想を述べ、ヘンダーソン伯爵を満足させた。
「こちらの部屋には、もっと珍しいものがあるんですよ」
ヘンダーソン伯爵は嬉々として客人をサンルームの奥の部屋に誘った。珍しい動植物を集めることが趣味であるヘンダーソン伯爵は、時折こうして知人たちを招いて自分のコレクションを自慢するのだった。ルーファスは夜会などで顔を合わせる度にコレクション自慢を聞かされる程度だったのだが、先日、彼にコレクション発表会に招かれ、初めて彼のコレクションルームを訪れたのだった。
「こちらです。どうぞ、ヴァンシタート伯爵」
他の客人たちをサンルームに残し、ルーファスだけを連れてヘンダーソン伯爵は緑に囲まれた小さな部屋に入った。ルーファスは顔色一つ変えずに、彼のコレクションを眺めた。
「凄いですね」
そこには、おびただしい数の虫たちがいた。蝶や蜘蛛が特に彼のお気に入りで、生きているもの、標本になったものなどが所狭しと並べられていた。
こういったコレクションは、特に女性からは怖がられ、男性にしてもあまりの数に気味悪がる者が多く、理解が得られないことが多かった。ルーファス自身は虫愛好家でも、造形が深いわけでもなかったが、特段恐ろしいとも気味が悪いとも思わなかったので、平然とヘンダーソン伯爵のコレクション自慢に付き合ってやり、ヘンダーソン伯爵からは良き客人との評価を得た。
コレクションルームからサンルームに戻ったヘンダーソン伯爵は、他の客人たちも連れて母屋に戻り、客人たちのためにサロンにお茶を用意させた。
「さ、どうぞ、夕食までおくつろぎくださいませ」
客人を迎えたのは、この邸の女主人であるヘンダーソン伯爵夫人カミラだ。ヘンダーソン伯爵は三十代後半だが、夫人は二十代半ばである。数年前にヘンダーソン伯爵がカミラを見初め結婚した。子どもはまだいない。ヘンダーソン伯爵は心臓の病を患っており、跡取りのこともあるので、早くに子どもが欲しいと友人たちに話していた。
カミラは、ヘンダーソン伯爵が一目ぼれしたというだけのことはあり、美しい女性だ。斜陽気味の下級貴族の生まれだが、その美貌で伯爵夫人の座を手に入れた。むろんそれは容貌だけが優れていたのではないだろうことは、話題も豊かに客人たちの相手をし、客人たちのもてなしを如才なく采配していることから窺える。
ヘンダーソン伯爵は、というと、ディナーまでの客人たちの応対をカミラに任せ、自分はどこかへ姿を消してしまった。花の手入れにでも行ったのだろうとカミラは笑った。土いじりなどをすることのない上流階級の人々のなかにあって、植物を愛でるだけでは飽き足らず、自ら手入れをするヘンダーソン伯爵のこだわりは、趣味と呼ぶには少々強すぎるものだったが、そんな夫をカミラは笑って許していた。
「…遅いですね」
いくらなんでも遅すぎるとルーファスは口を開いた。ヘンダーソン伯爵が客人の前から姿を消してだいぶ経っている。自分が招いた客人たちをそれほど長い時間放り出して趣味に没頭するほど、ヘンダーソンは常識のない人物ではない。
「そういえば、そうですわね」
様子を見て来させましょうと、席を立ちかけたヘンダーソン夫人を制して、ルーファスは立ち上がった。
「いえ、私が行きます」
夫人も一緒に行こうとしたが、他の客人の相手があるだろうと留めた。先程はコレクション自慢に終始してしまったが、ルーファスはヘンダーソン伯爵に訊いてみたいことがあった。父を知っている彼ならば、答えられるかもしれない。
ルーファスはカミラが声を掛けた使用人に案内されて、再びヘンダーソン伯爵のサンルームを訪ねた。ヘンダーソンの姿は見当たらず、一とおり使用人と声を掛けながら見回ったが、返事はなかった。ルーファスはサンルーム内に設けられたコレクションルームのドアを開ける。目に飛び込んでくる虫たちのうごめきに、使用人は思わず目を逸らした。
だが、ルーファスはそんなことはせず、彼を見つけて叫んだ。
「ヘンダーソン伯!」
床に倒れたヘンダーソン伯爵の顔は真っ青だ。傍らにしゃがみ、苦しむヘンダーソンの様子を窺ったルーファスは顔を上げる。ルーファスの視線を受けて、彼の従僕は頷き、素早く駆けて行った。
程なくして戻ったルーファスのヴァレットは、二人の人物を連れていた。一人は、医師のロイ・ハートネット。もう一人は、彼の医院で働く看護婦メアリー・ブラックである。
「お医者様なら、先程わたくしが当家の主治医を呼びましたわ」
ヘンダーソン伯爵夫人のカミラはそう言うが、ルーファスは笑顔で返す。
「伯爵様は心臓を患っているとお聞きしました。それならば、早く着いた者が処置するのが良いでしょう。大丈夫です、当家の主治医であるドクター・ハートネットの腕は私が保証いたします」
ルーファスは年若いが、名門貴族ヴァンシタート伯爵家の当主である。彼が自分の家の主治医をわざわざ呼び寄せたのだから、ヘンダーソン家としては断る理由がない。「では伯爵様のご厚意に甘えまして」とカミラは言い、ロイとマリーをヘンダーソン伯爵の寝室へと案内させた。
ヘンダーソン伯爵は、寝室のベッドに寝かされていた。倒れていた時の状況をルーファスが説明する。それを聞きながら、ロイはヘンダーソンの診察を進めていく。
「……心臓発作…のようだね」
幸い発見が早かったこと、また、ロイの到着が早く、すぐに処置できたことで一命は取り留めた。もう少し発見が遅れていたら、手遅れだったかもしれない。
マリーはロイの処置の補助をして、ヘンダーソンの腕を取った。そして、奇妙なものに気付く。
「あら、何かしら?」
ロイもマリーが見つめるそれを覗き込んだ。ヘンダーソンの左腕には、いくつかの赤い発疹のようなものがあった。何かの病の兆候だろうかとロイはヘンダーソンの腕を取り、赤いプツプツをつぶさに観察した。よく見ると、発疹のようなものは、赤い個所に小さな傷口があり、傷口は二つが隣り合って一つの発疹のように見える。
「……これは、……刺咬痕…?」
ルーファスは、ヘンダーソン伯爵が倒れているのを、どこで発見したと言ったか。それを思い出すと、ロイはルーファスにもっと詳しく状況を教えて欲しいと頼んだ。ルーファスは了承し、ロイの希望に沿って、ロイをヘンダーソンのコレクションルームへ連れて行くことにした。
一通りの処置は終わっており、現在ヘンダーソンに命の危険はないので、ロイはマリーにいくつか指示を出して、自分のいない間のヘンダーソンの世話を任せた。
マリーは、倒れた時に苦しんで冷や汗をかいたのであろう、ヘンダーソンの汗に濡れた肌を清めた。布巾で額のあたりを押さえるようにして拭いていると、ふと、ヘンダーソンの瞼が持ち上がった。
「お気付きですか?」
マリーが声を掛けると、ヘンダーソンの目がマリーへと向いた。そして、彼の表情は驚きへと変わる。
「……生きて、おられたのですか?」
「え?」
意味がわからずにマリーは問い返すが、驚きの表情とは不似合に、ヘンダーソンの眼は焦点を結ばぬものだった。
「ヘンダーソン伯爵様?」
茫洋とした視線は、マリーを通り越して彷徨い、やがてヘンダーソンは再び瞼を降ろした。不安になって確認すると、安定した呼吸が続いて、ヘンダーソンが眠ったのだとわかった。彼の言葉は、どう聞いても、自分の命があることを確認しているのではなさそうだ。目の前の誰かに、その生死を問うている。それは誰に対して向けられたものなのか。マリーか、ここにはいない誰かか、あるいは彼の夢の中の登場人物にか。
そこへ、ノックがあり、マリーは返事をした。ロイ達が帰ってきたと思ってドアを開けようと近付くと、マリーが手を伸ばす前にドアが開いた。
反射的に、マリーは一歩下がって、見知らぬ闖入者から距離を取った。アッシュブロンドの髪の、若い男だった。眼鏡を掛けているので瞳の色はよく見えない。顔の造作は美しいと言ってよいが、ルーファスのように他者を圧倒するほどの美貌ではない。
微笑を浮かべる顔に、マリーは何か違和感を覚え、言い知れぬ不安を感じる。柔和な表情なのに、ロイのような穏やかさとは無縁に感じられた。
「仔猫ちゃん」
小さく男が呟いたが、マリーの耳には届かなかった。
どうしたものかと困惑してマリーが立ちつくしていると、ロイとルーファスが戻って来た。
「ヴァンシタート伯爵様、こちらが、ヘンダーソン家の主治医でございます」
アッシュブロンドの男と一緒にいた邸の使用人がそう紹介した。
「初めまして、ヴァンシタート伯。噂の『死神伯爵』にお会いできるなんて光栄です」
ルーファスは表情を変えなかった。ロイも、一見なんの反応も示していない。だが、ロイのはしばみ色の瞳は、その瞬間エメラルドに燃え上がった。おそらくその変化に気付いたのは、ルーファスとマリーだけだろう。
ロイは、ルーファスがその異名で呼ばれることを、本人以上に嫌がっている。『死を運ぶ伯爵』、『死神伯爵』などというあだ名は、決して好意から来るものではないことは明白だ。ロイが示した怒りの感情のお陰で、逆にルーファスは平静でいることができた。形の良い唇に微笑を浮かべて、ルーファスは男をブルーグリーンの瞳で見据えた。
「ヘンダーソン伯の命はまだ終わらせない。“死神”の名に掛けて」
つまりそれは、ヘンダーソンの治療に関して手出しをするなという意味である。そうして、ロイが恭しくドアを閉め、ルーファスと男との間を遮ったことで、ヘンダーソン家の主治医は患者の寝室から締め出されることになった。