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Black Night 2

「ちょっと孤児院に寄って行こうか」

 ウェセスター伯爵家からの帰りにロイがそう提案し、マリーは喜んで同意した。ロイが言い出さなければ、自分からお願いするつもりだったのだ。マリーはかつての自分と似た境遇にある子どもたちのことを気に掛けていた。彼らがウェセスター伯爵のような善良な貴族に救われたことに感謝していた。

 訪れたロイとマリーを、孤児院の新院長は歓迎してくれた。ウェセスター伯爵の依頼を受けて、度々二人は子どもたちの健診に来ていたため、院長とは既に顔見知りだった。

「丁度良いところに来てくださいました。わたしが口を滑らしたばかりに、子どもたちが心配してしまって」

 苦笑して院長は事情を説明した。足しげく孤児院に通っていたウェセスター伯爵が突然ぱったりと来なくなって、子どもたちは捨てられてしまうのではないかと不安に泣いた。それを見かねた院長は、ウェセスター伯爵は病気で、来たくても来られないのだと子どもたちに話した。すると今度は、子どもたちは伯爵を心配して泣きそうになるのだった。

「ねえ、ロイ先生、はくしゃくさまは、だいじょうぶ?」

「ご病気、良くないの?」

「治るよね?」

 子どもたちは、ロイがウィンフィールド家の主治医だと知っているわけではなかったが、医師だということは知っているので、病気のことは医師に訊けばいいと思っているようだった。

「大丈夫だよ。軽い風邪だから、少し休めば治るよ」

 ロイの言葉に、子どもたちはほっと胸をなでおろした。

「じゃあ、栄養のあるものを食べて、ちゃんと寝たら、大丈夫だね?」

 それは、自分たちが風邪を引いた時によく言われることだった。そうだね、とロイが頷くと、子どもたちは安心したのか顔を明るくし、元気を取り戻した。

「ロイ先生、こっち来て」

「マリーも。一緒に植えたイチゴがなったんだよ!」

 子どもたちはロイとマリーの手を取って庭に引っ張っていく。子どもたちと一緒に植えたラズベリーやブラックベリーは、ずっと大きくなって、青々とした葉を茂らせていた。赤や黒に近い紫の実が宝石のようになっている。そこここに白い花が咲いて、まだまだ実りが続くことを教えていた。

「甘くておいしいんだよ」

「はい、マリー、あーん」

 小さな女の子にラズベリーを差し出されて、マリーは口を開けた。いつも妹扱いされる女の子は、お姉さんになった気分のようで、マリーに何度もイチゴを差し出す。「みんなの分がなくなっちゃうわ」とマリーは言うが、子どもたちはマリーが食べるのを嬉しそうに見ていた。

「とても可愛らしい方ですね」

「ええ」

 院長の言葉に頷いたロイは、マリーを優しい笑顔で見守っていた。

 ロイは全知でも全能でもなかったから、その時、自分以外にマリーを見つめている人が他にもいたなんて知らなかった。その瞳が、愉悦の色に揺らめいて微笑んでいることも。

「やっと見つけた、僕のキティ・ドール。逃がさないよ」

 その呟きは、誰の耳にも入ることはなかった。



 夜遅くになって、ロイのもとをアークライトが訪れた。ロイの家にマリーがいることにアークライトは驚いたようだが、それについては何も言わずにロイをドアの外へ呼び出した。自分が持ってきた話を、マリーには聞かせたくなかったのだろう。

「ブラックキャットの時と同じような事件が起きた」

 結局、ブラックキャットと呼ばれていた人物は見つかっておらず、黒猫も直接は事件には関係ないとわかっているが、あの連続婦女殺人事件は“ブラックキャット”と呼ばれていた。三件目の事件だけが別の犯人で、その犯人は捕まっているので、それは含まれない。

「被害者は、また若い女だ」

 アークライトの顔色は悪い。声には、哀しみと憤りと、疲れが滲み出ていた。

「わかりました。伺います」

 こんな時間にわざわざ来たのだから、アークライトは自分を呼びに来たのだろう。ロイは一度家の中に戻り、仕事道具が入った鞄を持ってくる。

「ロイ」

 心配そうに見つめるマリーに微笑んで、先に寝ているように言いつける。上着を羽織って出て行くロイをマリーは不安そうに見送った。

「悪いな」

 再び出てきたロイにアークライトは詫びた。「いえ」と微笑むロイに不機嫌な様子はない。

「……あのを置いてきて良かったのか?」

 自分で呼び出しておきながら、妙なことを訊くものだとアークライトは思う。

「マリーは夜が苦手なんで、あまり遅くなると良くありませんが、今行ったほうがいいんでしょう?」

 確かにそうだ。だから呼びに来たのだ。だが、アークライトが口にしたのは別のことだった。

「マリーを家に置いているのか?」

 ロイの口ぶりでは、マリーが訪ねてきたというわけではなく、ロイの家にいるようだ。

「あれ、言ってませんでした?」

 ロイは少々困ったように微笑んで、マリーの家が火事に遭ったため、しばらく部屋を貸しているのだと言った。

「本当は、年頃のレディが男の家にいるなんて、良くないんですけど」

 いや、マリーはそれさえ覚悟のうえで──あるいは、それを望んだうえで、お前の所にいるんだと思うがな、とアークライトは思いつつ、その想いがこの男に伝わるのはいつのことやら、と苦笑を忍ばせた。


 一人家に残されたマリーは、ロイに置いて行かれたことについて文句を言うつもりはなかったが、言いつけは守らないことにした。先に寝ていていい、なんて、ロイは簡単に言うけれど、ロイのいない家でベッドに入るのは、マリーにとっては簡単なことではない。

 そっと窓にかかるカーテンを開けて空を見上げる。月も出ていないこんな暗い夜は、だめだ。あの夜を思い出して、怖くて、恐ろしくて、ベッドを見るのさえ厭わしい。マリーは窓辺を離れ、いつもロイと並んで座るソファに駆け寄った。そして、自分の定位置に座り、そこからコロンとロイの定位置に頭を降ろす。

「早く帰ってきて」

 それは切実な願いだ。言いつけを破ったことをロイは咎めるかもしれないが、その時はおまじないの話を持ち出せばいい。なんだかんだと、結局ロイはマリーに甘いのだ。



「さあ、こっちへおいで、アマーリア」

 猫なで声のようでいて、逆らうことを許さない響きを持つ男の声に、体がすくむ。優しいと思っていた笑顔も、今は鳥肌が立つほどに気味が悪い。

「…おとうさま? なに、するの?」

 本能的に、牽制の意味を込めて相手を呼ぶ。だが、抗議のつもりの問いも、丸ごと無視される。

「いいから、来なさい」

 強く腕を引っ張られ、男の寝室へと連れて行かれる。足を踏ん張っても力でかなうわけもなく、ベッドの上に寝かされる。

「いい子だね、アマーリア」

「…いや! おとうさま、やめて! いやあっ!」



 目の前に広がる光景に、言葉も出なかった。ただ、呆然と男を見上げて、そこに転がる“おとうさま”と呼ぶべき存在だったものを視界の端に留めて、───助かった、と、思った。

 微笑むその男に、救われた、と思った。本気で男に感謝した。

 だが、それは、新たな闇に自分を引き摺り込む恐るべき出会いだったのだと、のちに知ることになる。

「ねえ、キティ。君は僕から逃げないよね?」



 短い悲鳴を上げたマリーは、自分が眠っていたのだと気付くまでにたっぷり十秒は掛かった。それは恐ろしく長い時間のように感じられて、まともに息が吸えるようになるまで、息苦しさに耐えねばならなかった。

「…夢」

 今見た光景は悪夢だったのだと自分に言い聞かせるように、声に出して言ってみる。

 なーん、と鳴き声がして、黒猫のルゥが足元でマリーを見上げていた。心配してくれているのだろうか。ルゥはマリーが横たわっているソファに飛び乗り、マリーの瞳と同じサファイアの眼でマリーを覗き込んだ。

 マリーは手を伸ばしてルゥの背中を撫で、そっと抱き込む。普段は気まぐれに近寄って、気分が乗らないと勝手に離れていくルゥだが、今日はおとなしくマリーに抱えられてくれた。ルゥの温かな毛皮に額を寄せて、マリーは落ち着きを取り戻す。

 そこへ、ガチャリと玄関のドアが開く音がした。マリーはがばりと起き上がり駆けて行く。

「お帰りなさいっ!」

 あまりに速いタイミングでマリーが飛び出してきたため、ロイは驚いた。「ただいま」と答えてから、「まだ寝てなかったの?」と言おうとして、やめた。

 胸に飛び込んできたマリーの様子に、尋常ではないものを感じたからだ。

「マリー、何かあった?」

 優しく抱き返しながら尋ねてみる。マリーは小さく首を左右に振るが、ロイから離れる気はないようだった。

 ロイはマリーの黒い髪を撫で、背中をゆっくりとさすってやる。詳しい事情をマリーは話そうとしないからロイも聞かないでいるが、マリーが夜を苦手としていることはロイにはわかっていた。幼い頃、マリーが夜に出歩いていたことを考えれば、夜自体が駄目なわけではないのだろう。暗がりを怖がる風でもなかった。だが、何か、夜にベッドに入るというごく普通の行為に対して恐怖を抱いている節がある。

 それが、ロイのベッドに潜り込むという行動に繋がっているのではないか。とロイは踏んでいる。眠る前のおまじないも、その類だろう。

「……ロイ。お願い、側にいて」

 マリーの手がぎゅっとロイのシャツを握る。

「うん。大丈夫、側にいるよ」

 安心させるように、ロイはマリーの背中を、とん、とん、と母親が子どもにするように優しく叩く。

 普段は一つにまとめているマリーの黒い髪は、今は降ろされて、わずかなウェーブを描いて左肩に寄せられている。その髪をロイは梳いてやり、マリーが落ち着くのを待つ。

「…さすがに、一緒のベッドに寝るわけにはいかないけど、今夜はマリーが眠るまで、ずっと側にいるよ」

 そうして、ロイはマリーをベッドに寝かしつけ、自分はその傍らに座って、マリーが眠りにつくまで手を握っていてくれた。



 明るい日差しに目を覚ましたマリーは、ベッドサイドに座ってベッドにうつ伏せに眠るロイを見つけた。というようなことは、なかった。昨夜マリーの手を握り髪を梳いてくれたロイの姿は既になく、代わりにルゥがベッドに丸くなっていた。ロイが置いていったのか、あるいはルゥ自身がマリーを心配して側に来たのかはわからなかった。

 マリーがベッドに体を起こすと、ルゥは敏感にそれを察知して目を開けた。立ち上がってマリーにすり寄るルゥを、マリーは抱き上げる。

 頭が少しずつ覚醒してくると、マリーは昨夜の失態を深く反省した。いくらあの悪夢の後だったからといって、取り乱しすぎたのではないか。しかも、アークライトに呼ばれていったロイは、簡単ではない仕事をして帰ってきたはずだった。それを、疲れているはずのロイに、あんなことをさせるなんて。ロイに甘えられるのは、甘美な心地好さを与えたが、ロイに迷惑を掛けたいのではない。

 ロイの顔を見たら、朝一番に謝ろうとマリーは心に決めた。

 そこへ、コンコン、と控えめなノックと、「マリー、起きてる?」というロイの声が聞こえた。「はい」と返事をして、慌ててマリーは髪と顔を手で触って簡単な身支度をし、ベッドから出て夜着に乱れがないかを確認する。ロイの前で髪を降ろすことも夜着でいることにも抵抗のないマリーだが、さすがに寝起きのだらしない格好は見せたくない。

 ルゥを抱えてマリーがドアを開けると、ロイが心配そうにマリーを見下ろした。

「おはよう」

 言葉にはしないが、ロイはマリーを案じて様子を見に来たようだった。

「おはよう。…あの、昨日はごめんなさい、迷惑掛けて」

「迷惑だなんて、思ってないよ」

 ロイの手が、ふわりとマリーの髪を撫でる。その笑顔にマリーは泣きそうになって、ルゥを抱えたままで良かったと思った。でなければ、また抱きついてしまいそうだった。

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