Black Night 1
その日、ロイのもとを訪れた麗しの伯爵は、二つの伝言を携えていた。そのどちらも、ロイを心楽しくさせるものでないことは、伝言を持ってきた本人もわかっていた。一つは、ロイが返答に困るもの。もう一つは、ロイを心配させるものだったからだ。
ルーファス・アズラエル・ヴァンシタート伯爵は、まず一つ目を苦笑交じりに伝えた。
「“たまには家に帰ってきなさい。あなたがいつまでもそんなだから、縁談だってまとめることができないじゃないの”だとさ」
言われなくても、伝言の主が誰かロイにはわかった。うんざりしたような顔を見せるロイに、ルーファスはさらに付け加える。
「いい加減、ご機嫌伺いにでも行って、まだ結婚する気はないと宣言するとか、マリーを紹介するとかしないと、勝手に縁談を決めてこられるぞ」
「……マリーを紹介なんかしたら、余計にややこしいことになるじゃないか…」
元気にしているかだの、たまには家に顔を出せだのと手紙を送ってきては、遠回しに、あるいは直接的に結婚をせっつく自分の母親を思い出して、ロイは眉根を寄せた。
「それにしても、伯爵様に伝言を頼むなんて」
ロイの父親は男爵であり、当然母親は男爵夫人だ。それよりも高位の伯爵に自分の息子への伝言をするあたり、我が母親ながら見上げた根性をしている。もっとも、相手が昔から付き合いがある姻戚であるからこそだが。
「舞踏会でお会いして、話のついでにお前に会ったら言っておいてくれと言われただけだ」
ルーファス自身もそういったことを気にしないので、問題はない。
「それに、俺は俺でお前に用事があったからな」
と、今度は真剣な顔で二つ目の伝言を口にしたのだった。
「ウェセスター伯爵の体調があまりすぐれないらしい」
「リリーのお父上が?」
ルーファスの婚約者であるウェセスター伯爵令嬢リリーローズの父親、ニール・ウィンフィールド氏は、血色の良い顔と中肉中背の体躯の持ち主で、本人が健康優良児だったと胸を張るくらい、病気とは無縁の紳士だった。
「それで、手の空いた時でいいから、様子を診に来てほしいそうだ」
二つ目の伝言は、リリーローズからということだ。手の空いた時でいいということは、それほど深刻な状況ではないということだろう。
「明日にでも伺うよ。リリーに伝えておいてくれるかい」
「ああ、わかった」
名門貴族であるヴァンシタート伯爵ともあろう者が、こんな風に他人の伝言係のようなことをしていることに、ロイは不意におかしくなった。もちろん、ルーファスがその役目を務めるのは、親しい者相手の時だけであるが、そういうフットワークの軽さや気安さが、ロイがこの青年貴族を好きな理由だった。そして、彼がこうして度々ロイのもとに伝言を届けるのは、単にそれだけが目的ではなく、自分の顔を見に来ているのだとロイは知っていた。
かつて、自分が側にいて守ってやらなければ、と思っていた少年が、今ではあの時の自分と同じように、自分のことを気に掛けてくれている。『死を運ぶ伯爵』などと巷では噂されているルーファスだが、その実、心優しい少年であることを知っているロイは、ルーファスの気遣いが嬉しい。ルーファス少年はずっと、ロイのような人間が、死に多く直面することになる医師という職業に就くことを心配していたのだ。
「伯爵様」
ちょうどそこへ、患者の老婦人のところに薬を届けに行っていたマリーが帰って来た。ルーファスの姿を見つけると笑顔で側に寄り挨拶をする。それに応えたルーファスは、不意に思いついたことを口にした。
「マリーは、どこかで行儀見習いでもしていたことがあるのか?」
看護婦という職業から、マリーが上流階級の令嬢でないことはわかっている。ロイのような例外もいるが、貴族の女性は看護婦になどならないだろう。貴族やジェントリの娘は肉体労働などしないものだ。だが、マリーの挨拶の仕方や仕種は、動きに無駄がなく、きちんとしつけの行き届いた家庭で育った娘のように洗練されている。淑女の礼も、教えればすぐに身につくだろう。
「え、いいえ。母と養護院の院長先生に教わったくらいですけど」
きょとんとしたようにマリーはルーファスを見返したが、ロイもルーファスの言いたいことはわかる。マリーは身軽で活発だが、その動きは雑ではなく、所作が美しいのだ。最初にマリーに会った時、ロイは貴族かジェントリの娘かと思ったくらいだ。
「そうか。機会があったら、リリーと一緒に教わるといい」
もとは中産階級の娘として育ったリリーローズは、父親の伯爵のもとに引き取られてからマナーの教師に付いて勉強している。リリーローズの母親が貴族相手のガヴァネット(住み込み家庭教師)をしていたことから、マナーは既に備わっていたのだが、さすがに貴族の娘としての立ち居振る舞いはしてこなかったので目下勉強中なのだ。
「え? 私がですか?」
「マナーの授業は退屈だとリリーが言っていた。マリーが一緒なら、少しは楽しくできるだろう」
婚約者のためのようなことを言いながら、その実マリーを巻き込もうとしているルーファスにロイは苦笑する。美しい微笑の裏に三角の黒い尻尾を隠し持ったこの伯爵は、もしかしてこの無垢な少女を貴族の世界に引き込もうとしているのではないか。
「それとは別件だけど、マリー、明日ウェセスター伯爵家に行くよ」
話題を変える意味もあってロイは明日の予定を告げる。
「リリーのお父上の具合がすぐれないらしい」
「まあ、それは心配ね」
それでルーファスが来ているのか、とマリーは合点した。およそリリーローズからロイへの話はこの伯爵が持ってくるのだ。
リリーローズの父親が体調を崩したと聞いて、心配にも思うしリリーローズも不安だろうとは思うが、一方でリリーローズに会えるのが嬉しくもあるマリーだった。
翌日、ロイとマリーはリリーローズの父親を診察するためにウェセスター伯爵邸を訪れた。ロイの来訪を知ると、ウェセスター伯爵ニール・ウィンフィールドはベッドに上半身を起こして迎えてくれた。顔色はあまり良くないが、起き上がれる元気はあるようだ。
「ご無沙汰しております、ウェセスター伯爵。お加減はいかがですか?」
「やあ、ドクター。ちょっと体がだるくてね。これも年なのかね」
「何をおっしゃいますか。伯爵様はまだお若くていらっしゃいますよ」
実際、ニールはロイの父親よりも若い。
ロイは手早く診察の準備をし、聴診器で心音を聞き、舌圧子を使ってニールの喉を診る。体温計で熱を測るようにニールに促し、それをマリーが手伝う。
心配そうにリリーローズが見守る中で、ロイとマリーはテキパキと診察を進める。
現在、ロイはウィンフィールド家の主治医という立場にある。ロイのような町医者を主治医にする貴族は少なく、もともとはウィンフィールド家にも貴族相手を専門とする別の主治医がいた。その医師が老齢で引退してしまい、ウィンフィールド家は新たな主治医を探さねばならなくなったのだが、娘のリリーローズと彼女の婚約者であるヴァンシタート伯爵の勧めで、ニールはこの若い医師を主治医とした。
町医者を主治医にするなんて、とリリーローズの兄であるニールの息子は最初渋い顔をしたが、ロイがハートネット男爵家の子息という出自であることから、結局は受け入れた。
ロイは、ヴァンシタート伯爵と姻戚関係にあり、ヴァンシタート家の主治医であり、ルーファスの友人でもある。そしてリリーローズの母を最期まで診た主治医でもある。そういう背景と、ロイの腕と人柄とがあって、ニールはこの若い主治医に全幅の信頼を寄せている。
「風邪ですね」
体温計を確認して、ロイが診断を下した。
「薬を出しますから、きちんと食べて、しばらくは安静にしてください」
悪い病気などではなかったことに、リリーローズもニール自身も安堵した。
「最近、お忙しかったとお聞きしました。それで疲れが出たのでしょう」
ロイの言葉にニールは苦笑する。
「私ももう若くはないからね。無茶はできんようだ。リリーに怒られてしまうな」
ここのところ、ニールは多忙を極めた。もともと健康だったため、あまり休息などに頓着を示さなかった。娘のリリーローズは父を心配して何度も休養を勧めたのだが。だから、父が体調を崩した時、ほら言わんこっちゃないという表情で娘はベッドから出ることを禁じたのだった。
「お父様は、張り切りすぎたのよ」
と、リリーローズは近頃の父を評した。
貴族の主な仕事は、領地経営と社交と社会貢献、そして議会だ。そのうち三つが重なれば、多忙なのは仕方のないことだった。
領地ではもうすぐ小麦の収穫の時期を迎える。領地の経営は家令に任せているニールだが、やはり領主としての仕事はある。そして社交のシーズン中ということもあり、夜会にも出席せねばならない。そして、買い取った孤児院の経営がさらに彼を忙しくさせた。
不祥事で院長が去った孤児院を買い取ったニールは、まず新しい院長探しから初めねばならなかった。信頼に足る人物を探し出し、院長に据えるのは骨の折れる仕事だった。幸い、間もなく院長となる人物は見つかった。だが、院長から人出が足りないと報告があり、新たに職員を雇い入れることにした。基本的な人選は院長に任せたが、オーナーとしてニールも関わらないわけにはいかない。また、不十分だった孤児院の改修も追加することになり、その手配も必要だった。
ニールは最初、孤児院にそれほどの思い入れがあったわけではない。社会貢献の一環として寄付金を与え、富の再配分をしていた程度にすぎない。だが、実際に自分がオーナーとなれば責任の度合いは増す。そして、度々孤児院に顔を出せば子どもたちが懐き、基本的に人の善いニールは情が移って、子どもたちのために奔走したのだった。
そして、仕事に一段落がつき、疲れが一気に出て風邪という形で現れたようだった。
「でも、そういうお父様は、素敵だと思うわ」
リリーローズがお茶でも飲んで行ってとロイとマリーを誘い、伯爵の寝室から二人をサロンへ連れ出す道すがら、マリーはそう感想を漏らした。もちろん、父を褒められてリリーローズは悪い気はしない。
ウェセスター伯爵家のサロンは、明るい陽の差し込む気持ちの良い空間だ。その一角のテーブルにリリーローズはロイとマリーを案内した。
「あら、これは?」
テーブルの上に飾られた愛らしい花にマリーが気付く。
「随分と清楚な花だね」
ロイがそう感想を述べたのも無理からぬことで、それは野に咲く花々だったのだ。およそ貴族の邸宅には似つかわしくない、よく言えば楚々とした、悪く言えば地味な花だった。
「謎の贈り物よ」
リリーローズの答えに、ロイとマリーは顔を見合わせる。
「ここ数日、朝になると門のところに置いてあるの」
リリーローズに報告した門番は、気味が悪いから捨てておきましょうかと言い、メイドたちはこんな貧相な花を伯爵家には飾れないと言ったが、リリーローズは捨てずに花器に生けることにした。
「贈り主はわからないけど、悪意は感じられないもの」
「そうだね」
どちらかと言えば、それは好意の表れであるように思えた。ロイは花器の花を観察する。 豪奢なバラやユリのような派手さはないが、選ばれた花は可憐なものばかりだ。庭先にありそうなカモミール、白い花弁の野菊、レースフラワーのように小さな白い花をまとめて付けるセリ科の花、蔓性の茎と葉の形が愛らしいワイルドベリーの白い花。初夏は白い花の宝庫だ。それにピンクや黄色、青い花が加えられ、一般家庭であれば、十分に華やいだ装飾になる。
「ところで、マリー。ルーファからマナーの授業に誘われたと思うけど、本当に一緒にどうかしら?」
手ずから紅茶を淹れながら、リリーローズはマリーを誘う。マナーの授業がリリーローズにとって退屈なのは本当で、一緒に受けてくれる友達を欲しているのは事実だ。
「でも、私なんかがマナーなんて…」
マナーは上流階級のたしなみだ。身分賤しい自分がそんなものを受けるなんてと遠慮するマリーに、リリーローズは耳元で囁く。
「今は必要ないかもしれないけれど、ロイ先生の隣に立つには、必要になるのではないかしら」
ちらりとリリーローズがロイに視線を遣って、つられてマリーもロイを見遣る。ロイは優雅に紅茶のカップを口に運んでいた。その様子は貴族然としている。
ロイの人柄は、貴族というよりは、気の好い田舎の青年医師といった風だが、そこはやはり幼い頃からマナーを叩きこまれた人間だ、所作は優雅で美しい。ルーファスのような他者を圧倒する威厳や華やかさはないが、穏やかで上品な物腰は、貴族のご婦人方から人気を集めていた。
「ねえ、ロイ先生はどう思います?」
リリーローズに水を向けられて、ロイはカップをソーサーに戻す。
「マリーが興味があるなら、受けてみればどうだい? そんなに難しく考えることないよ。仕事で貴族の家に行くことも多いから、覚えておいて損はないと思うよ」
貴族令嬢でないマリーが貴族令嬢の立ち居振る舞いを覚える必要はないが、貴族のマナーを知っていれば、貴族の邸に行った時にマナー知らずを理由に馬鹿にされることもない。費用は伯爵家が持ってくれるというのだから、マリーには悪くない話だ。
「それじゃあ、医院がお休みの日だけ…」
マリーが承諾すると、リリーローズは喜んだ。これから定期的にマリーに会えるわ、一緒にお茶しましょうね、と笑った。こっちが本音かもしれないとロイも笑った。