ひとひらの花びら
さらさらと降り積もる雪が、世界を白く染めていきます。
彼女が眠る、塔の三角の屋根も真っ白になりました。
高い高い塔の中、彼女は窓から空を仰ぎます。
灰色の空は、ずいぶん近くに見えました。
差しのべた手は冷たいガラス窓にぶつかります。
彼女は、この国の姫でした。
物心つく前に、この塔の上に幽閉されて以来、外の世界を知らないままに育ちました。
窓から見えるのは、はるか遠くの空ばかり。
彼女の世界は、この部屋の中だけ。
どれぐらい、ぼんやりと外を眺めていたでしょう。
彼女は真っ白な世界に、白くないものを見つけました。
それは、鳥のようでした。
鳥なら知っています。時々、この高さまでも飛んでくることがありますから。
でも、こんな雪の日に、鳥がいるでしょうか。
じっと見つめていた彼女は、よろよろと飛んでいるその鳥の腹を赤く染めるものに気がつきました。
怪我をしているようです
彼女は、この部屋に来て初めて窓を開けました。
彼女が通り抜けるには余りに狭いその窓から、腕を差しのべます。
「……おいで」
囁いた声が聞こえたのでしょうか。鳥はよろよろと飛んできて、彼女の腕に収まりました。
その重みと温もりが、じんわりと心を溶かします。
彼女はその鳥の手当てをして、保護することにしました。
自分の食事を残しておいて分けてやると、鳥は喜んで食べました。
「お腹が空いていたのね」
もりもりと食事をする鳥に嬉しくなって、彼女はどんどん食事を分けてやりました。
鳥の寝床は柔らかい布で作ってやりました。鳥はそこが気に入ったようですっぽりと収まりました。
その背を撫でながら、彼女は物思いに沈みました。
「誰か飼っているのかしら」
鳥の脚には、鮮やかな緋色のリボンが巻いてありました。
それが所有印のように見えて、彼女は少し哀しくなりました。
この鳥には帰るところがあるのです。
ずっと一人で暮らしてきた彼女には、鳥の温もりは離しがたいものに思えました。
それでも彼女は、元気になった鳥を空に放ちました。
あっという間に遠ざかっていく鳥を、名残惜しく眺めます。
たった一週間ほどの時間でしたが、得難い時間でした。
「さよなら」と呟いた声が湿っぽくなってしまったのは、仕方のないことでしょう。
それから数日、彼女はぼんやりと過ごしました。
閉ざされたこの部屋で、時間だけはたっぷりあります。
この塔を訪れるのは、食事の支度をしてくれる侍女だけなのですから。
ふと、部屋が暗くなったことに気がついて、彼女は顔を上げました。
今日は元々曇り空だったはずですが。
見るとはなしに窓を見上げ、彼女は驚きました。
窓から何かがこちらを見ています。かつかつと窓をつつく音も聞こえました。
慌てて窓を開けると、飛び込んできたのはいつかの鳥でした。
真ん丸の目でこちらを見上げ、首をかしげています。
「元気だった……?」
鳥はぴょんぴょんと跳び跳ねています。
彼女は鳥の脚に結ばれた紙に気がつきました。
不思議に思いながら、それを手に取って広げてみます。
それは、手紙でした。……それも、彼女に向けた。
少し硬い文面のそれには、鳥を助けたことに関する礼と、鳥の名前が綴られていました
彼女は手紙なんて貰ったことはありません。
誰も彼女とやり取りをしてくれるような人はいなかったのですから。
散々迷った挙げ句、彼女は返事を書くことにしました。
元気になって良かったですね。
たったそれだけの言葉を託した鳥が窓辺から飛び立っていくのを、彼女は見送りました。
名前も知らない誰かのもとへ、手紙が届くことを願いながら。
再び、鳥が訪れたのはそれからまた一週間ほどが過ぎた頃でした。
足首には新しい手紙を結んでいました。
そうして、何度やり取りをしたでしょう。
いつしか彼女は、その手紙を心待ちにするようになりました。
手紙の相手は、騎士の卵だと名乗りました。
今は訓練生として鍛練を積む日々ですが、ゆくゆくは王都の警備に立つ予定なのだと。
外の世界を知らない彼女には、彼の話は余りに眩しく感じられました。
今は雪が降る、外の世界。それは、きっと、どんなにか綺麗なことでしょう。
彼女は、彼に小さな嘘をつきました。
15年も前に幽閉された王女ではなく、病弱な貴族の娘だと。
ほとんど家から出たことがないのだと、彼女が書き送ると、次の手紙には桃色の押し花が挟まれていました。
春に咲く花だと書かれたそれを彼女は大事にしまいました。
「ねぇ、あなたのご主人様ってどんな人?」
訊ねても、鳥はぱちくりと瞬くばかり。
彼女は手紙の向こうの人に思いを馳せました。
もしも彼女が普通の女の子だったら、いつか会いましょうと言えたのに。塔の上の彼女には、それすらもできないのです。
雪が深くなる頃、彼から届いた手紙は彼女の机の引き出しがいっぱいになるほどになりました。
ぽつりぽつりと手紙の間に挟まれる押し花は、彼女の心を和ませてくれました。
たった一人のこの塔で、彼女に届けられる贈り物が、どれほど彼女の救いになったことでしょう。
世界から切り離されたように感じていた彼女にとって、外の世界との繋がりは、喪いがたいものでした。
だって、彼女には、たったこれだけしかないのですから。
いつの頃からか、彼は会いたいという言葉を重ねてくるようになりました。
会いたい、会いに行くという言葉の刻まれた手紙を、彼女は泣く泣く破り捨てました。
諦めることに慣れていたはずなのに、期待してしまいそうだからです。
丁寧に断りの文面を綴れば、次の日には返事が返ってきました。
どうして、と問われれば、謝ることしかできませんでした。
同じ都にいても、二人の距離は遥か遠く。
彼女は手紙を届けてくれた鳥を撫でて、今日も手紙を綴ります。
心の中にぽっかりと浮かぶ言葉は見ないようにして。
手紙を託した鳥を見送る彼女は、部屋の扉が開く音で振り返りました。
侍女の訪問以外で開かれることのなかった扉が、開け放たれていました。
その先には、初めて見る初老の男性が佇んでいました。
「セラフィウム姫……」
初めて呼ばれた自分の名前は、他人事のように素っ気なく聞こえました。
彼は早口に、王が変わったのだと告げました。
彼女をこの塔に閉じ込めた王はこの世を去り、新しく彼女の叔父に当たる人が王権を継いだのだと。
それに伴い、彼女の幽閉は解かれその身柄は王室預かりとなります。
新王としても扱いかねる彼女の処遇は、恐らく他国への輿入れになるだろうとのことでした。
それはあまりにも突然の話でした。
彼女の世界の果てであった扉の先を、彼女はぼんやり眺めました。
そして部屋の窓を降り仰ぎます。窓の先には、曇天。
そこにはもちろん、見送ったばかりの鳥の姿はありません。
そのことに、僅かな安堵と哀しみを感じます。
彼女の心は静かでした。
この部屋を出ても、彼女に自由がないことくらい分かっています。
心残りは、彼にさよならと告げられなかったことです。
ただそれだけが、気がかりでした。
*****
時は過ぎて、名残の雪の降る朝。
長らく人前に姿を見せることのなかった王女は、ひっそりと嫁ぎ先である遠方の国に向かって旅立ちました。
長いこと幽閉されていた王女ですが、解放されて一年後、同盟国への輿入れのために生まれ育った都を離れることになったのでした。
美しく装った王女は馬車に乗り込む際、供の一人である騎士に目を止めました。
まだ若いその騎士は、金色の髪を鮮やかな緋色のリボンで束ねていました。
「綺麗ね」と、そう王女が呟くと、騎士は彼女に「目印なんです」と照れ臭げに告げました。
「会ったことのない友人が、いつか私のことを見つけてくれるように」
それを聞いて、王女は小さく息を呑みました。その手に抱えていた本から、はらりと何かが落ちました。
小さな押し花を拾い上げた騎士は、手を震わせました。少し哀しげな表情でそれを王女に返します。
「この花、昔友人にあげたことがあるんですよ」
「……そう」
受け取った王女は、それを大切に本に挟みました。
「その人が、気づいてくれるといいわね」
「そうですね。殿下もその花、大事にしてください。良いことありますよ、きっと」
騎士と笑顔を交わして、王女は馬車に乗り込みました。
窓から外を眺める彼女の膝に、ぽたりと滴が零れます。豪奢などレスを濡らす涙を拭き取った彼女は、まっすぐ前を向きました。
一緒に馬車に乗り込んだ侍女が「殿下」と気遣わしげな声を掛けてくるのを「大丈夫」と宥めます。
あの時は想像出来なかった“いつか”があっただけて、彼女は十分幸せでした。
瞳を閉じて、脳裏に写るたった一人の友人にさよならと囁きます。
窓の外では雪の花びらがちらちらと、走り出した馬車の屋根を染めていくのでした。