前世、彼女は勇敢だった
黄金の髪に灰の瞳。
空色のドレスをなびかせて、丘にたたずむ王女の姿を城の使用人たちが見守っていた。
誰もが声をかけられず、そのくせそばを離れるには惜しく、しばしのあいだにっちもさっちもいかなくなっていた。
王女サロメはそれを知っていて、少し悩んだ。
明日、じぶんは隣国の第三王子のもとへ嫁ぐ。王位を継承するには中途半端な生まれであり、軍人として身を立てた彼の仕事ぶりは冷酷だともっぱらの噂だ。
この僻地とも言える城で世話になった使用人たちとは今日でお別れ。そのうえそんな幸せになれそうもない結婚話を聞かされ、もはや二度と会うこともなかろうとなっては、賑やかに宴会を開く気にもなれないのだろう。現に声をかけあぐねられて、サロメのほうも困ってしまう。
「これがわたしの仕事なんだがなぁ」
暮れゆく空をながめて、ぽつりとこぼす。
王女として隣国の機嫌をとりにいくのはじぶんに課せられた仕事だと思っていた。サロメは王の子なのだから国のために利用されるのは当然のことで、結婚はひとにかしずかれる代わりに成すべき任務なのだ。代価と言い換えてもいい。
そもそもサロメは、悲壮な顔をするつもりもなかった。別にとって食われるわけではないのだ、もしかしたら夫と仲良くなることだってあるかもしれないし、故郷に年に一度くらいは帰らせてもらえるかもしれない。そんなに、悪い話じゃない。城のみんなと、当分会えなくなることだけが寂しい。ただ、それだけ。
サロメは気分を入れ換えると、さっそく笑顔で振り向いた。
「隠れたって無駄だぞ、みんな。こんなところで油を売っているということは、夜の宴の準備はもう整っているのかな」
使用人たちはあわてふためいて木立から姿を現し、ぱたぱたとじぶんの服を叩き始めた。
「この僻地に油売りなどおりませんぜ!」
コックがいの一番に軽口を叩いて城へ駆け出すと、侍女がそれに続いた。
「売る油もありませんしね!」
「じぶんが使う分さえ足りませんわよ!」
「ああ忙しい忙しい」
「油を作るのって本当に忙しいですわ!」
そしてさらに続くのが、年若い厩番と巡察中のはずの騎士たち。
「さて、油売りでも探しに行くか」
「私もお供しよう」
「ぼくも行きます!」
いやだからおまえたちは巡察をしないか。サロメは苦笑して彼らを見送り、代わりに丘をのぼってきた近衛騎士を叱った。
「バッカス。リットニア。みんながわたしを腫れ物のように扱うんだ。おまえたちはいったいどんな説明をしてやったんだ? ちゃんと、わたしが納得していることを言ってくれたのかな」
「ありのままの事実を話しましたよ」
カーラ・リットニアは胸を張って答えた。女性らしく豊かな丸みを帯びた肉体は、騎士職に必要な筋肉をしっかりと備えていて分厚い。魔法で家具は吹き飛ばせても、彼女を吹き飛ばすことは少し難しかった。
彼女の隣に立った騎士に視線を移すと、少々気まずげに微笑まれてしまった。どうやらありのままの説明とやらに問題があったらしい。
「ご結婚のお相手の名が出たとたん騒ぎになりまして。王女は覚悟をお決めになっていると付け加えてもあまり効果がなかったのです」
つまり聞き流された、と。
サロメは仕方がないなと笑って、風に吹かれた金の髪を耳にかけた。いつも侍女が手入れをしてくれるおかげで、我ながら手触りは絹のようだと思った。
向こうに連れていけるのは少数の供だけなので、サロメはそれをしてくれた長年の侍女と、このふたりの騎士たちに同行を頼んである。もちろん王女からの要請があっては彼女たちに断る権利はなく、半ば強制的に連れていくことになるので罪悪感は残る。
それに、できればもう少しそばで話をしていたい人物もいたのだが、国の許可云々の前にそのひとの気質から連れていけそうにないとわかっていた。なにしろ彼は高名な魔導士で、ひとところに留まるのをよしとしない。今この城に留まっていてくれるのは、単なる気まぐれなのだと思う。それもそろそろ一年を数えるので、やっぱり彼の旅立ちも間近だったのじゃないかとサロメは考えていた。
じぶんが旅立つのが早いか、彼が旅立つのが早いか、ちょっとした誤差みたいなものだ。どのみちずっと隣を歩くことなどできるはずもない。
だからこれでいい。
二度と会えぬとわかっているほうが、いくらか気が楽だった。
「さて、では早めに食堂へ顔を出してみんなを慌てさせてやろうかな。わたしは隣国へ行くのを楽しみにしていると、わかってもらわないとならない」
「あなたを見ていると本当に楽しみにしていらっしゃるように見えて、いささか心配になります」
リットニアが率直にものを言うと、すかさずバッカスの裏拳が飛んできて彼女は背をのけぞらせた。やや波打った赤い髪が盛大に振り乱され、括っていた位置から少しずれたようだった。
「おまえは本当に無礼だな! とうとう最後まで直らなかったじゃないか。どうするんだ、隣国で笑い者にされたらサロメ王女にまで被害が及ぶんだぞ」
「そんなことにはなりませんよ、うまく立ち回ってみせます。ね! 王女!」
「だから! おまえは! 何度言わせれば気が済むんだ! どの口がうまく立ち回るって!?」
「この城と違ってかたっくるしいことはわかってるんですから、猫くらい余裕で被りますよ?」
「ああそうかい、だったらその猫がよそ様にじゃれついて遊び出さないようせいぜい気を付けれてくれ」
「もちろん、心得ておりますとも!」
がくりと脱力したバッカスが不憫だったので、サロメは腹を抱えて笑ってやった。このひとを困らせるのは最高に楽しいものだと、いつだったかリットニアが教えてくれた。
このふたりが愉快な会話をしてくれていれば、例えどこでなにをしていようがサロメは笑っていられる。そんな自信があった。サロメはふたりを、心の底から信じていた。大好きだった。
城も、みんなも、周りの村も、村人も、親切でおおらかで、寂れていても美しくて、物がなくても笑ってなんとかするような豪胆なひとたちの多い土地だった。大好きだった。みんな大好きだった。
だからサロメは隣国へ行こう。
それがこの国にとって有益なことなら、みんなのために成し遂げよう。
その夜、ひとりで泣いたことは、誰にも言わずに。
「王女。サロメ王女」
しょぼしょぼする瞳をこじ開けて、サロメは起きた。夜更けまでひっそりと涙をこぼしていたせいだが、まぶたを腫らすような真似はしなかった。泣いたことを悟られずに泣く方法を、王の子らしく身に付けていた。
寝台を降りて、密やかな朝焼けを全身で感じる。世界中の人間がそろそろ起き出す、という時間は、まるで世界の始まりのようだった。
鼻につんとくる早朝の冷たい空気を浴びながら、バルコニーのガラス戸を開ける。
草原を駆け抜けてきた青っぽい匂いと、爽やかで汚れない空気が頬を撫でていく。一晩のうちに蓄えた月や星々の清廉な光を、風に乗せて世界に巡らせているのだろうか。朝露が光る丘や木立が、いつにもまして美しく見えた。これで見納めだとわかっているからだろうか。
「王女」
もう一度呼ばれたので、やはり夢ではないらしいとサロメは思った。こんな時間に呼び出す人間に心当たりはないが、声に覚えならある。
隣の部屋のバルコニーから、朝咲きのハレンの花が届けられた。くるくると回転しながら漂ってくる蒼の花を手に受けてから、右隣のバルコニーへ顔を向ける。
欄干に腕をかけ、体重を預けるようにして立つ青年がいた。黒いローブは清々しさとは無縁の服装だったし、虚弱に見える細い体躯も大自然の前ではあまりに不釣り合いな印象を受ける。それは今日という特別な日でも相変わらずで、朝日に弱そうな目を細めて彼はこちらを見つめていた。
「珍しく早起きだな、魔導士」
「今日はな」
魔導士にとっても今日は特別なのだとサロメは感づいた。わからずに旅立てたほうが心は穏やかだったろうけれども、それはそれで虚しくもある。
サロメはどんなことにでも、目隠しはしたくなかった。
「これはおまえからの餞別ということでいいのかな」
六枚の花びらを持つハレンの花を、手のひらの上で愛でる。ほんのいっときにしか咲かない花だ。すぐに枯れゆく姿に、重ねるものはたくさんあった。
魔導士はゆっくりと一度うなずき、目元に浮かべていた笑みを消した。
「本当にあの冷徹男のところへ行くのか?」
「ひどい言いぐさだな。仮にも一国の王子相手に」
「事実だから仕方がないだろ」
「……そうかな。――行くよ。そうする他ないんだ」
「嫌だと言えばいい」
簡単にものを言うんだな、とサロメは笑った。昨晩散々涙を流したから、もう嘆かないことにしたのだ。
「いいんだ、言わないで行くんだ。この城を離れがたくて涙は一滴流れるけれど、わたしは案外隣の国に行くのは楽しみなんだよ。わたしはおまえたちのように街へは降りられなかったから、異国というものに憧れているんだ。冷徹な夫と契ろうとも、異国の風がわたしを楽しませる。生涯、わたしはそれで満足するのだろう」
「強がりを」
「そう聞こえるならそうかもしれない。けれどわたしはこれでも前向きなんだ。唯一強がりたいのは、おまえを連れていけなくても楽しまなくちゃいけないことかな。わたしはまだまだおまえに聞きたいことがあったのに、これで今生の別れになるとは神様もよほどわたしに魔法を使わせたくないらしい」
「俺の指導がなくともあなたならタンスのひとつやふたつ、簡単に飛ばせる。――異国の地でも、まずいことになったらとりあえず家具でも吹き飛ばして形勢逆転を図ってください」
真面目な顔で淡々と言うから、それが彼なりの忠告であり心配のかたちであるのだとしばらく経ってから気がついた。
「そうだな。けれど吹き飛ばすだけでどうにかなるかな。やっぱりまだ、わたしにはおまえの言葉が必要な気がするよ。タンスを宙に浮かせておくことだって、いまだにできてないしな」
でも魔導士を連れていくことはできないから。
「あなたならできます」
「魔導士のお墨付きがあればなんとかなりそうだな。向こうでも修行に励もう。どうせ時間はたっぷりあるだろうから。おまえに手紙の一枚でも書いてやろうか?」
「ちゃんと届くのなら、読みますよ」
「それはどうだろうなあ」
きっと届かないだろうと思った。直感のようでもあった。隣国だからではなく、きっとサロメは手紙を書かないだろうし、魔導士もこの城には留まらない。
おとなしく手紙でやりとりするような仲じゃない。
だからやっぱり、奇跡でも起きない限りは今生の別れとなるのだ。
「くれぐれも、お気をつけて」
たぶん魔導士も、それをわかっている。
そっけなく、別れの言葉を言った彼に、サロメのほうもあまり熱心には返さなかった。今できる最高の別れ方が、これなのだろうとお互いに思っていた。ここに心を置いていくことは、できないから。
「さよなら魔導士。今まで本当に世話になった」
「あなたのおかげでひとところに留まる楽しさを知りましたよ」
「楽しい顔のひとつもめったにしないくせによく言う」
「あなたが気付かなかっただけでしょう」
「そうか」
「そうですよ」
「……そうか」
なら、よかった。
引き留めた甲斐が、あったというものだ。
そうしてサロメは、生まれ故郷から旅立った。たった三人の供だけを連れて、ほとんど敵地といってもいい国へと嫁いでいった。
そこで、死んでくれと頼まれるとも知らずに。




