前世、わたしは猫であったか
仕事の引き継ぎがおおかた済んだ頃、王女は魔導士に魔法の講義をしてほしいと言った。
リヴリンが紅茶をいれ、ロメリーが魔導士の研究室を整頓しているときのことだった。
王女は漆塗りの文机に両手をついて、身を乗り出している。魔導士が背筋を反らして彼女から距離をとると、椅子の背もたれがぎしりと鳴いた。
「……すでに魔法の教養はおありになるのでは?」
「基礎のことを言っているのならその通りね。でも、おまえが世界一の魔導士と呼ばれているのは誰もが知るところでしょう。それなのにただ寝食を共にするだけで教えを乞わないなんて、向上心に欠けると思うのよ」
「世界一かどうかは精査しておりませんし、しようもありませんのでお答えいたしかねますが、なぜ魔法なのです。城主代行としての能力に魔法は関係ありませんよ。武力は騎士や兵士が、魔力は魔導士が専門的に扱い、学ぶものです。向上心を向ける先が間違っていますよ。町のほうへ兵団の派遣要請は出したのですか? そちらのほうがよほど急務です」
「それはとっくに済ませています。今日にも返書が届く予定よ。もちろん、魔法の勉強が急務でないこともちゃんとわかっているわ。その上で言うわよ」
長いまつげをぱちりとまたたかせて、王女は目を大きく開く。魔導士の背後にある窓から朝の日差しが差し込み、鋭利なシルバーアイズに強い光を点らせている。
「私はなんでもやってみたいのよ。帝王学だけじゃ見当違いな言動で周りを振り回してしまうかもしれない。武術も魔法もしっかり学んで、騎士や魔導士がどういうふうに働いているかを知りたいと思う」
「それは立派な心がけですが」
「心がけじゃないわ。実際にそうするのよ。私はね、純粋に魔法にも武術にも興味があるの」
王女は言葉を切ると、身を起こして腕組みをした。交差した腕の上に硬い生地に包まれた胸が乗っかる。
魔導士は返答をせず、何かを言おうとしたみたいにかすかに口を開けて彼女の次のセリフを待っていた。
「私はもっと学びたい」
リヴリンが文机にカップを置く。ソーサーとぶつかる涼やかな音が、小さく鳴った。
「ひとがやっているのをただ見ているなんてもったいないじゃない。そう思わない?」
ロメリーは既視感を覚え、とっさに王女を凝視した。
日に透ける、柔らかそうな金の髪。意志の強さを物語る、シルバーの双眸。腰のくびれにリボンを飾って、ふんわりとした豊かなフリルとレースのドレスをまとう王女リリアン。
夕焼けのオレンジ色がよく似合う、活発な姫君。
夢の中で鏡に映っていたのは、完全に彼女だったのではないか?
ロメリーは天啓を得たような気分で、あれは予知夢だったのだ、と思った。
このあと魔導士が例の忠告をすれば、正夢に間違いない。ロメリーの神官としての位があがったのだろう。旅を続けていたらもしかしたら司教にまで登り詰められたかもしれない。
けれども、いつまで経っても魔導士が口を開くことはなかった。
彼は迷うようなそぶりを見せていて、視線をあげようとしない。ロメリーには彼が「どうやってこの王女を説き伏せよう」と悩んでいるように見えた。どうやら王女の説得は夢の中のようにうまくはいかなかったらしい。そもそも、あの朴念仁に同意を得ようというのが間違っているのか。
「王女。過ぎた好奇心は九つの魂を持つという猫さえも殺すのですよ」
つい、我慢できずに夢を正夢にしてしまった。
魔導士が驚いたようにこちらを向いたので、そんなにロメリーが魔導士の肩を持つのが珍しいのだろうかと微妙な気持ちになる。
「不躾に口を挟んで申し訳ありません」
何か言われる前にとりあえず謝ると、王女はきょとんとしていた顔を崩してロメリーのそばにやってきた。
「猫にはそんなに魂があるの? 興味深いわ」
「え、ええ、そのようですね」
「そういう摩訶不思議な話、私は好きよ。魂って不思議だと思わない? 前にいた城では神官にご教授いただいていたのだけれど、あなたたちの話すひとの一生や魂の輪廻の話にはとても感銘を受けたわ。前世の恋人たちが今世で再び出会う話なんて、胸をときめかせずにはいられなかった」
白くてすべらかな両手が、ロメリーの右手を包み込む。火照ったような体温が、心地良い、と思った。
「ご遺体から離れた魂は、天上の世界で『魂の隣人』が集うのを待ちます」
「恋人や家族、友人が寿命を終えるのを待っているのよね。そして『魂の隣人』たちが揃ったら、また現世へ生まれるための準備をする。これから生まれる世界で、じぶんたちがどういう関係を持って、どういう役割を果たすのか、前もって相談して、それから現世へ降りてくる。そうでしょう?」
「よくご存知で」
王女は満足そうににんまり笑うと、身軽にくるりと振り向いて、魔導士に水を向けた。
「魔導士は知っているかしら? 昇天した魂がどれくらいの期間を経て現世へ転生するのか」
魔導士は嫌な質問を受けたというように唇を噛んでから、ちらりと王女を一瞥して答えた。
「平均して五十年と言われています。ただし、早逝した魂はときたま単独で転生することもあります。強い未練のために記憶を白紙に戻せないまま転生するのだとか。といっても、研究対象となった記憶持ちのひとたちの多くが前世で早逝していた、というだけの統計的な話ですが」
「そういう方にお会いしたことは?」
「数人に。けれども、じぶんだけが記憶を持っていても意味がない。
……なぜかわかりますか。転生後の人間関係は前世とまるで違っているからですよ。誰が誰やらわからないうえに、例えわかったとしても相手に記憶がないのなら、やり残したことをやり遂げようというのはそのひとのわがままでしかない。前世で恋人だった男性が今世では姉妹だった、さて王女、あなたはその彼女に想いを告白することはできますか? 口づけることができますか?」
王女は神妙な顔つきで、ため息に近い吐息をこぼした。
「いいえ……できない、わね」
そういうものです、と魔導士はうなずく。
「記憶を持つ誰もが、前世の因縁を片付けるどころか周囲に理解されず、ひとり孤独を抱えていました。かつては親しい者だったかもしれないひとびとに、記憶があるばかりに邪険にされるのです。
――覚えている、ということは、前世の恋人に再会できるなどとそんな甘いものではありません。ひどいときには人格が崩壊することもある。じぶんが誰なのか、今がいつで、周りにいる人間はじぶんとどんな関係にあるのか、前世と今世がごちゃ混ぜになってわけがわからなくなってしまう。そうなるともう、元のじぶんへは戻れない」
前世の記憶がよみがることは、地獄です。
魔導士は低い声で最後にそう言い、王女を視界に入れたくないとばかりに視線を落とした。
王女のほうは難しい顔をして、魔導士から窓のほうへ目を向ける。
「そうね。気軽に魂の話をしてはいけないわね。けれども私は、そうでないひともいると思うわ」
文机の上で書類をめくっていた魔導士の指先が、ぴくりと跳ねる。
「思い出したいと思うひともいる。思い出せてよかったと思うひともいる。えくぼのあるひとは、愛しい恋人や家族に再会するために、記憶を捨てずに転生した者だと言われているわ。神官には迷信だと言われたけれど、そういうのって素敵だと思うのよ」
魔導士の眉間にぐっと深いしわが寄った。
「そりゃあ、新しい人生だもの、古い記憶はいらないわよね。でもね、覚えているということは――思い出したということは、何か意味のあることだと私は思っているわ」
「あなたは――なぜ、そんな」
ささやくような、小さな魔導士の声が、窓辺に寄ってきた小鳥のさえずりに溶けこむ。
「そんなに、前世の記憶を肯定するか? 決まっているわ、ロマンがあるからよ。今周りにいるひとたちが、前世でも何かしら関係のあるひとだと思ったら、とてもいとおしい気持ちになる。出会うひと出会うひと、みんなに縁を感じるわ。
――ねえ、そういう気持ち、温かいと思わない? あなたが生きる長いときの中で、魂を同じくする親しい人物が幾度となく現れているの。あなたも、そのひとも、もしかしたら気が付かないかもしれないけれど、それでも大切な縁が、赤い糸が、どれだけ輪廻をめぐっても繋がっているかもしれない。そう思ったら、死ぬことなんて怖くないわ」
そのとき、沈黙を貫いていたカーリー・リヴリンがうっかり手を滑らせてポットを落としてしまった。熱い紅茶が絨毯に染み出して、割れた陶器の破片が王女の足元まで転がってきた。
「死ぬなんておっしゃっては、いけません」
リヴリンは、顔面蒼白で、そう言った。震え声が本気で怯えているようだったから、王女はとても驚いていた。
「死なないわ、例え話よ」
「王族の方々は、つ、常に、身の危険にさらされていらっしゃるのです……! あなたが死を恐れてくださらなければ、私の剣が間に合わなくなるかもしれない……」
「あなたの、剣? あなたには剣術の心得が?」
王女に首をかしげられ、リヴリンははっとしたようだった。視線をさまよわせ、狼狽えているところにロメリーが声をあげた。
「もしものときのため、侍女にも護身術程度の武術のたしなみがあってもいいかと考えているところで」
「あらそうなの! ではカーリー・リヴリン。お稽古をするときは私も混ぜてね」
茶目っ気たっぷりにウインクをした王女に、リヴリンは何も言えずにうつむいていた。
「神官殿。いつの間にそんなことを考えていたんだ」
魔導士がいぶかしげに目を細めるので、ロメリーは冷や汗も拭えない。
「申し訳ありません、わたしの独断でこのようなことを。侍女全員に同意を得てから魔導士のお耳に入れようと考えていたのです。その件で少しお話がしたいので、のちほどお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「それはかまわないが。……リヴリン、怪我はなかったか」
なおも怪訝そうにしてはいたものの、魔導士は深く追及してくることはなかった。珍しく気遣いのようなことを口にして、リヴリンの返答を待っている。
「なければポットの始末を頼む」
「は、はい、すぐに」
一礼してぱたぱたと退室していくリヴリンのあとを、ロメリーも追いかけた。
侍女の護身術など考えたこともなかったので、急いで言い訳を用意せねばならない。面倒なことを言ってしまった。もっと他にうまいごまかし方があったはずなのに、己の頭の回転の悪さには本当に辟易する。
結局、夢は予知夢もどきでしかなかったが、王女の話には夢のことなどどうでもいいと思わせる魅力があった。
ロメリーには前世の記憶の片鱗もなく、思い出す気配すらもなかったので今までは他人事だと思っていた。けれども前世の縁に導かれて、今世に再び親しい者たちが集っていると思うと胸が騒いだ。これが王女の言うところのロマンというやつだろうか。
しかし、強大な魔力ゆえに寿命までの長い道のりを歩んでいる魔導士には、酷な話かもしれないと思った。
彼の愛した恋人や家族が死に絶えても、共に転生することが叶わないのだ。ひとり置き去りにされて、周囲のひとびとだけが輪廻を巡って生き死にを繰り返していると想像すると、何やら孤独感が込み上げる。
死なない魔導士は、たぶん、世の理から外されたようにぽつんとひとり生きているのだ。
これをこそ、ひとは孤独と呼び、忌む。
そこにもしも、前世の記憶を持った彼の大切なひとが現れたとしたらどうなるのだろう。
彼の孤独は癒されるのか?
それとも孤独を深めるのか?
前世と今世のそのひとを、間違い探しのような目で見てしまうのではないかと思えて、ロメリーは素直にそれを望むことができなかった。
やっぱり、前世と今世は切り離して考えるべきなのかもしれない。




