前世、わたしは神官であったか
今日の彼は朝から機嫌が悪そうだった。
なかなか寝床から出てこなくて、朝ごはんを出してやってもスープを掻き回すだけ掻き回して一向に口へ運ぼうとしない。ひとまず膳を下げてしばらく放置したのだが、昼になっても彼は唇を噛んだり舐めたりするばかりで視線はひたすら膝上の書籍に向けられていた。
「魔導士。空腹加減はいかがですか」
出窓の段差に腰かけて、ひとりの男がごわごわになった書物に目を落とし続けている。ずいぶんと古く、くたびれた本だが、彼にとってはとても大切なものらしい。鍵までかけて、いつも枕元に置いて寝るほどだ。
「魔導士」
何度呼んでも微動だにしない魔導士アンセル・アルフリークは、羊皮紙の上をのたくる文字をじっと睨んでいる。ページをめくることもなく、ただ何かを思案するように、あるいは深く思い詰めたように、だんまりを貫く。
彼は朝からずっと、こんな調子だった。
そしてけっこう頻繁に、彼にはこういう日がある。
正直、いい加減にしろ。
と、ロメリーは思う。
思うけれども、ごはんを食べないとか返事をしないとか、心ここにあらずといった反応の乏しい様子を見ているとなぜかこっちが落ち着かなくなるのだ。
「あの、ロメリー様」
昼食を運んできてくれた侍女が、ロメリーの顔色をうかがう。
彼がああいう状態になってしまった以上、ちょっとやそっとでは元に戻らない。侍女もロメリーもそれをわかっていたから、ふたりそろって盛大にため息をついた。偉大なる魔導士がふたりの不敬な態度に気付くわけがないので、最近では隠すつもりもない。
「リヴリン、あなたは仕事に戻って大丈夫ですよ」
少数の使用人で仕事を回している侍女をいつまでも留めおく余裕はないので、早々に彼女を下がらせて昼食のトレーを受け取る。
退室していくカーリー・リヴリンを閉め出すように軋みの激しい木造扉に鍵をかけた。
残念ながら今日ばかりは、いつまでも彼の好きにさせておくわけにはいかないのだ。
強行突破しかない。もう、時間もないので。
「魔導士。失礼いたします」
書類だらけの文机にトレーを無理矢理置いて、アンセルに歩み寄る。
昼の陽気は温かく、晴々しいのに、陰鬱な表情で窓際に居座られては部屋全体が暗くなる一方だ。
どんよりと曇った雨空のような煤けた黒髪に涼しげな相貌を隠して、彼は気だるく桟に寄りかかっている。蒼い瞳がまばたきもせず書面を見つめているのを再確認したら、もうやるべきことは決まっていた。
彼の膝に置かれた書物を一息に奪い取り、頭上に掲げて見せた。
すると彼は本日初めて表情を崩し、あっという顔をしてこちらを向いたのだった。
「……それに触るな」
低くうなるように彼は言う。
強烈な蒼い眼光がロメリーの心臓を貫く。
「魔導士。昼食のご用意が整っております」
「触るな、と言った」
「……すみません」
「同じことを何度も言わせないでくれ、神官殿」
ロメリーから返された本を丁重に受け取って、彼は心労に耐えるように深く息を吐いた。
そこでロメリーは気付く。
奪われた本が返ってくるまで、彼は息を詰めていた。まるで恋人を人質にとられた男のようだ。
あの本にはいったい何が書かれているのだろう。
城主不在のこの辺境の城へ居着いて一年。周囲の言を聞いても判然としない魔導士の秘められた心。
ただ彼には、何百年経っても手放せない何か大切なものがあるらしい。それがひとなのか、物なのか。あるいは記憶なのか。もともと口数の多くない男なので、夢にうなされて何事かつぶやいているのを頼りに推測するしかなかった。
「……ああ、今日は、代行がいらっしゃる日だったか」
長身痩躯がやっと動き出す。裾を引きずるほどたっぷりと布を使った魔導士の黒いローブをたくしあげて、彼は無感情に言う。基本的にひとを拒絶する節のある彼は、何かに囚われているときほどその態度が顕著になる。
「正午には緑の丘を越えるとうかがったような気がする……」
「そのとおりです、魔導士。ですから早くごはんを召し上がっておしまいになってください。予定ではそろそろお着きになる頃ですよ」
「うん……手間かけさせて悪かった」
ぼんやりとした様子で謝って、のそのそと文机に移動する。今朝からの鬱屈した気分を引きずっているらしい。だるそうな仕草が、本当の体調不良のようにつらそうだったから、ロメリーはそっと席を外して給湯室でお茶をいれてきた。
「魔導士。お茶をどうぞ」
「すまん。そこに置いてくれ」
魔導士がもち米を笹の葉でくるんだ葉包みを食べている姿は、幼い子どもが無心でごはんにかじりついているように見える。
誰かが世話を焼いてやらないと食事も服装も限りなく無頓着なこの男。そのくせ遊び心を加えたごはんを出すと喜んで食べる。
もっとも、最初はロメリーのいたずらが高じて出されるようになった食事なのだが、一年もあれば問題なく定着するものらしい。一応断っておくがロメリーが料理をすることは一切ない。最初のいたずらというのが、スープに葉包みを落としたり丸パンに穴を開けて煮トマトを突っ込んだり、もともとの料理を勝手に混ぜただけの本気のいたずらなのだ。ちなみにコックに露見したときは一時冷戦状態になったので、今度は絶対にバレないようにやろうと思う。
「これはなんのお茶だ? 緑色をしてるぞ……」
葉包みをあらかた食べ終えた魔導士が不思議そうに陶器のティーカップを傾けている。
「グリーンティーです。キャラメルを溶かしてありますから、きっとお口に合うと思いますよ」
薄くて血色の悪い唇にグリーンティーが触れるのを見守って、ロメリーは少しだけ微笑んだ。
面倒くさい面倒くさいと常々思うけれども、じぶんがやってあげたことで彼が反応を返してくれるともっと何かをしてやりたい気持ちになる。それは神官ゆえの「人助け」の精神が満たされるせいなのか、はたまた母性をくすぐるマイペースな彼の性質のせいなのか、じぶんでもよくわからない。
「神官殿はもう昼食を終えたのか」
やっと一息ついたようだ。すっかり元通りになった彼が問いかけてくる。虚ろだった瞳には濃い色彩が戻り、鋭い知性を秘めた蒼に染まっていた。
「いいえ。まずはあなたにお食事を摂っていただかねばなりませんでしたので」
「俺のせいか」
「他に原因が?」
「……悪かった」
気まずそうに謝られ、ロメリーはうなずくだけに留めておいた。
再起不能のポンコツになった彼を元に戻すのには、先程のように「触るな」と冷たく叱られる方法しかなくて、いつも歯痒い思いをしている。
「わたしは、なにもあなたに怒られたくて例の本を取り上げているわけではないんですからね」
「……重ね重ね申し訳ない」
「百年も生きているのですから、少しくらい自制なさってくださいな」
「……返す言葉もない」
しょんぼりとする魔導士がちょっとだけかわいそうになって、仕方なく許してやる。
「――お茶のおかわりは」
「あ、えっと、いる。いや、ほしい、です」
殊勝な態度に満足して、ロメリーはにこりとした。
「ではもう一杯だけ。城主代行の方がお着きになられましたら午後のお茶を用意させますので、飲み過ぎは禁物――」
カップを取りあげたはいいものの、言い終わらないうちにノックが響いた。石造りの城ではよく音が立つ。
「ロメリー様。ロメリー様。いらっしゃいますでしょうか」
もう来てしまったのかと思って返事をすると、どうやらそういうわけではないようだった。
「近隣の村で不浄が」
「村人ですか?」
「いいえ、近くの村にあたってみましたがご遺族は名乗り出ておりません。おそらく盗賊か、あるいはその被害者ではないかと」
「了解いたしました。すぐに参ります。侍女の方は近くにおられますか」
鍵を解いて扉を開けると、腰に剣を帯びた城の騎士が立っていた。その後ろにはクリーム色のお仕着せをまとったカーリー・リヴリンがいる。
「リヴリン。魔導士にお茶を一杯差し上げてください」
「承りました」
後を引き継ぎ、魔導士を振り返る。
「それでは魔導士。少し城を空けます。くれぐれも代行のお出迎えはあなたがきちんとなさってください」
「わかってる。早く行ってやれ」
リヴリンとすれ違うようにして部屋を出たとき、魔導士が彼女に「紅茶をいれてくれ。はちみつ入りの」とリクエストしているのをかすかに聞いた。
城の回りに町はなく、丘ばかり連なる辺境の土地レントレイド。各地に点在する戦争の拠点としての城は放置されることも多く、城主不在なまま使用人だけが住んでいることもまた多かった。
ロメリーが巡礼の旅の途中、神官がひとりもいないというこの土地に足を止め、レントレイドの城に滞在することになったときにはすでに城主代行の魔導士が住み着いていた。聞けば膨大な魔力のせいでなかなか寿命が訪れない魔導士を哀れみ、いつかの時代の領主が彼に滞在許可を出したらしい。
それからこの忘れ去られた土地を守って生きてきた彼だが、正式には城主代行ではなく、代行の代行という括りに入る。
今日やってくるという人物こそ、本物の城主代行だった。
ロメリーは城にほど近い村まで出向くと、一件の民家の裏へ誘導された。
村人が死んだときにはそのひとの家に招かれるのだが、今回は身元不明の遺体が発見されてしまったので、どの家にもいれてもらえなかったようだ。
死体は剣の傷が著しく、血塗れだった。もともと遺骸は不浄とされ、神官の祈りが済むまでは不幸を撒き散らす悪魔の置き土産とまで言われるものだったが、そういう認識がなかったとしても血だらけの死体を見て気味悪く思わないひとはいなかろう。
ポーチから聖水の小瓶を取り出して死者の額に垂らし、魂を父なる魔導士のもとへ送るための追悼の言葉を読む。
「神官様。実はあとからもうひとり発見されまして」
事を終えて遺体の処理を頼むと、村長がそんなことを言う。
「遺体ではなく、怪我人なのですが」
「どちらに?」
「ひとまず私の家に。やはり彼らは盗賊のようです。いかがいたしましょう」
「ご案内ください」
「かしこまりました」
白の布とクリーム色の布を重ねた詰め襟の神官服は、とても目立つ。畑を耕し、家畜を育てて生きる村人に、白い服を着るバカはいないからだ。労働階級でない長い衣も、村人にとっては邪魔なだけである。
けれども村人たちが「田畑を知らぬ金の亡者」などといってロメリーを罵らないのは、ひとえにロメリーが神官であるからだ。不浄を払い、ときにひとを癒す教会の聖職者は、どこへいってもありがたがられ、その地に根を下ろすように望まれる。
特にここレントレイドでは何年も聖職者がおらず、ロメリーとその相棒がやってきたときの歓待ぶりといったらすさまじかった。結局、哀れみをもよおした相棒に説得されてロメリーもここへ腰を落ち着けたのだが、本当を言うともう少し世界を巡っていたかった。いろんな土地でいろんなひとびとの悩みを聞いて、傷を癒し、不浄を払い、ありとあらゆるものごとに触れたいと思っていた。
世界は広い。一度きりの人生では見切れないほどにさまざまなものが世界には存在している。
ロメリーはそれをできるかぎり見て回りたいのだ。神官であれば巡礼の旅と称してあちこちで補給を受け、比較的安全に世界中を巡れるから、神官にならない手はないと幼いときから思っていた。
「神官様、お気をつけください。さきほどまで暴れていたので、もしや抵抗されるやも」
「拘束は?」
「いたしましたが、彼は縄脱けが得意のようで」
辺境の土地に鎖はない。荒縄で縛られた血と泥で汚れた青年が、納戸に転がされていた。
ぼさぼさに伸びきった茶髪の隙間から、すがるような眼差しが覗く。
「神官、さま……! あいつは! あいつは無事ですか!」
ロメリーはびっくりして、いからせていた肩から力を抜いた。
「あなたと彼は盗賊なのでは?」
「……裏反者だ! それよりあいつは!」
村の男ふたりがかりで押さえつけられてもなお、青年は必死にもがいていた。流れ出す血に嫌なものを見た気がして、ロメリーは村長の制止を振り切って歩み寄る。
「申し訳ありませんが、発見された時点ですでに亡くなられておりました」
「……ほ、ほんとうですか」
青年はぴたりと動きを止めて、呆然とする。
まだ幼げな輪郭をした彼は、あの遺体のひとと共に盗賊団を抜け出したらしい。
「俺もあいつも、もとは人質でした。死にたくなくて、やつらの仲間になったふりをして、どうしようどうしようっていつも考えて。あいつとはまともに話したこともなかったけれど、示しあわせなくても逃げ出すときは一緒だった」
うつむいて脱力する彼の目の前に、膝をつく。
血で汚れた手をとって、短く祈り言葉を唱える。
「あの方はわたしが天に送り届けました。未練は残るでしょうけれども、もう生者が手を施すことはできません。彼が、死者となってしまった以上は」
「……はい」
「あなたの手当てをします。それが終わったら、あなたは休むべきです」
死者に祈るのは、そのあとのこと。
城に残してきた魔導士や城主代行の来訪時刻が気になったが、ロメリーは神官の務めを優先した。
「のちほど城から騎士を派遣いたします。盗賊団のことを詳しくお訊きいたしますので、どうかご協力を」
「あの、それはいいんですが……。神官様、俺は、あの、あなたと」
村長の家の一室を借り受けて青年を寝台に寝かせると、彼は夢うつつに声をあげた。去ろうとしていたロメリーはふと足を止め、振り返る。
「なんでしょう」
「どこかで、お会いしませんでしたでしょうか」
「私とあなたが、ですか?」
「はい……。ああ、いえ、不躾なことを言いました。忘れて、ください。きっと、他の方です。神官様は、みんな、落ち着いておられる、から……みんな同じに見え……て」
廃れて久しい口説き文句のようなことを口にして、彼は寝落ちした。
なんだか侮辱を受けたような気分で、ロメリーは急いで村をあとにする。
落ち着いて見えるから、みんな同じ人間に思えると?
神官がはしゃぎまわってどうする。
神官が泣きわめいてどうする。
ロメリーはじぶんの武骨な性格を自覚していたから、余計に「面白くない人間だ」と言われたような気がしたのかもしれない。
もやもやした気分で城に戻ると、案の定、数台の馬車が正門前に停まっていた。城主代行はすでに城入りしたようだ。
ロメリーは慌てて裏口から入り、大広間へ向かった。
「あっ、ロメリー様」
侍女のひとりと出会し、足を止める。
「代行の方がお見えです」
「魔導士は?」
「お出迎えなさっておいででした。でも」
「何かあったのですか」
あの魔導士のことだ、一言二言歓迎の言葉をかけてさっさと部屋に戻ってしまった可能性も十分ある。むしろそうなんじゃないかと半ば本気で考えたが、侍女の戸惑いはそこにはなかった。
「あの、ええと、もしや魔導士はあの方とお知り合いなのでは?」
「どういうことです?」
よくわからない、と侍女は言う。
それでも魔導士が尋常ならざる様子だったのは、伝わってきた。
「ひどく取り乱しておいででした。いつもよりもずっと難しい顔をして……」
「わかりました。どのみち、わたしも挨拶をしなくてなりません。お会いして参ります」
動揺しているらしい侍女をお茶の支度へ向かわせ、じぶんは彼らのいる中庭へ向かった。出迎えを放棄したわけではなく、中庭のあずまやへ案内してはいるようだ。
城主代行となる人物がよほど気に食わなかったのだろうか。せっかく今朝の不機嫌が直ったところだったというのに、厄介な人物が来たとあっては今後が思いやられる。たまの不機嫌が毎日になってしまうじゃないか。
中庭を囲む回廊に出たところで、代行の護衛を務める騎士数名と城の騎士が揃って立っているのが見えた。そこから、一度目のお茶を出し終えたリヴリンがカートを押して戻ってくる。
「リヴリン。首尾は」
「問題ありません」
リヴリンは顔色が悪かった。城の誰よりも、衝撃を受けたような様子だった。
「どうかなさったのですか。体調が優れませんか」
「少し、めまいがいたします」
普段ならば体調不良だろうがなんだろうが、そ知らぬ顔で働く物静かな彼女が、素直に答えた。
「では片付けが済んだら自室へ下がってください。あとでお部屋のほうへ夕食を届けさせます」
「……はい。でも、あの、神官様」
ロメリーは小さく息を飲んで、正面から彼女を見つめた。
城のひとたちはロメリーを神官様とは呼ばない。城で暮らす仲間だから、だんだんと砕けた呼び名や言葉遣いになってきたところだったのに、どうしたというのだろう。
彼女の豊かな赤毛が初夏の風で浮き上がる。天然の巻き毛を彼女は嫌がるが、ロメリーはわけもなく巻かれた髪を好ましく思っていた。目に馴染むというのか、まっすぐな髪ばかり揃っていると、彼女のような髪のほうが見ていて楽しいと思う。
「あとで、ご相談したいことがございます」
「相談ですか。かまいません。告白を聞くのも神官の務めですから」
なにか心苦しいことを胸に抱えているのだろうか。城でも村でも、ひとに言えないが懺悔したいことや言い残しておきたいことを神官に告げようとするひとは多い。ひとはそれを告白、と呼んで、ときには壁に穴を開けて会見し、匿名する徹底ぶりをみせた。
「では、のちほど……」
心配になるほど蒼白な顔をして、彼女は回廊の奥へ消えた。
あずまやでいったい何が行われているのか、少し、怖くなってきた。
ロメリーは頬をこわばらせて、城の異変の渦中へ身を投じた。




