3. 瞳と理由
病は気から、というのはなかなか侮れない言葉のようで、彼女はしばらく小康状態を保っていたようだ。
僕は、彼女が具体的にどんな病気なのか知らない。知ってしまうと、今の距離感が保てなくなる気がして、聞けなかった。
彼女が僕に気を遣わせまいと、無理して笑顔を作る光景がありありと脳裏に浮かんだ。
頭を振って、映像をすぐに空気へと吐き出した。
彼女は一人のとき、ひどく儚い表情を浮かべる。
僕には、儚い、としか形容できない。
諦観。
悲哀。
絶望。
すべてをぐちゃぐちゃに融かしてかきまぜてそのまま固めたような目。
今に彼女が消えてしまってもおかしくないと思ってしまうような目。
それが、僕を見た途端に目から憂いが掻き消える。それは、嬉しいと思うと同時に寂しくもあった。
一度だけ、彼女が僕にその顔を見せたことがあった。
気温が下がってきて、そろそろ冬になろうか、というある日。
その頃には用事がない限り、彼女の病室を訪れるのが日課となっていた。
僕がいつものように彼女の病室に入ると、彼女は電気も点けずに窓の外をぼんやりと見ていた。
彼女の目を見て、かけようとした言葉は喉の奥へ逆流し、消えた。
彼女がその表情を僕に見せてくれたことがほのかに嬉しくて、同時に疑念が浮かんだ。彼女が相応に落ち込んでいるのは態度と雰囲気からすぐにわかった。かといって、僕には相談に乗ってあげることも、わかるよ、と慰めてあげることもできない。彼女の気持ちは同じような状況の人でなければ共感していいことではない。
僕にできるのは、ただ、聞いてあげるか、聞かないであげるかの二択だ。
彼女になんと声をかけたらいいのだろう。
『もしよかったら、聞くだけしかできないけど愚痴ってみてよ』と、せめて心情を吐露させてあげて少しでも楽にしてあげる?
あえていつも通り明るく振舞って彼女を元気づける?
どちらの選択肢も間違いではないのだろう。でも、僕はその選択肢を選べなかった。
「隣、いい?」
僕は、何とか喉から言葉を絞り出す。
彼女はこちらを振り向くことも、口を開くこともせず、少し体を横にずらして場所を作った。
僕はそこに腰かけると、彼女と同じように窓の外を眺める。
雲は青い空を隠しながら白銀の体をさらしていた。窓の外では、枯葉たちが風に飛ばされて踊っている。夕方独特の、ひんやりとした風が飛鳥の黒髪を揺らす。
ふと彼女の手が動き、手の甲同士が触れる。
彼女の手を握ろうとして、けれど手が動くことはなかった。
できることなら、彼女の手を握って、少しでも安心してほしかった。
勇気がなかった。
覚悟がなかった。
手の甲の半分も触れていなかったけれど、確かに彼女の温もりが感じられた。
僕たちは、互いに視線を交わすこともなく、ただ手を触れさせて、ゆっくりと動く雲を眺めていた。
どれくらい時間がたったのだろう。
果てしなく長く感じられた時間の中、彼女がぽつり、と声を出した。
「空、ってさ。どこまでも、どこまでも続いてるんだよね」
一瞬、自分の名前かと思ったが、すぐにそうではないと気付く。
まだ、さっきの雰囲気を引きずっているのだろうか、僕は声をうまく出せず、ただ小さく頷くしかできなかった。
「……ん」
「だから、鳥になりたかった。翼をはためかせて、自由に空を飛びまわりたかった」
泣き笑いの表情を浮かべ、彼女は続ける。
「楽しそうだね」
「そうでしょ? ……でも、現実には、名前とは違って、こうやって空を眺めるしかできない」
「……そう、だね」
脳裏に、自由に飛んでいる同級生と、諦めて地べたに座り込んでいる自分が映った。
ずき、と胸が痛んだ。
「たとえ、鳥になっても、空の半分も飛べない。雲をかき分けて、ぐんぐん上って、大気圏も越えて、暗くて明るくて神秘的な宇宙へは、たどり着けない」
「……うん」
当然のことだけれど、彼女には、理不尽に思えて仕方がないのだろう。自らが病に侵され、学校にも行けず、人並みの幸せを享受できていない、この少女には。
「私を病気にするのなら、代わりにお願いごと一つくらい叶えてよ、って。そればっか言ってた」
僕は、何を言うこともせず、耳を傾けた。
「それが、君に会って話を聞いてるとね、すごく楽しいの。自分でもびっくりするくらいイライラするのが少なくなって、モノクロだった毎日に、急に色がついたみたいな、そんな感じ」
その言葉は、素直に嬉しかった。
「だからね、あと少しだけ、来てくれると嬉しいな」
彼女は、僕がいつ来なくなるか、怖かったのかもしれない。
「僕は、これからもできるだけ来るよ。親に止められても、テスト期間でも、君に嫌がられない限りは来るよ」
まぎれもない本心だった。同時に、こうあってほしい、という希望だった。
会いに来れるということは、彼女が生きてここにいる、ということだから。
「うん、ありがとう。でもね、たぶん、私はもうすぐいなくなっちゃうから」
「……だとしても、僕は来るよ。君がいなくなるその時まで、できるだけそばにいるよ」
彼女が、ぎゅ、と僕の手を握る。
「うん、ありがとう。でもね、そう思ってくれてるからこそ、あなたを傷つけてしまう。だから、もう、来ないほうがいいのかもしれない」
「さっきと言ってることが違うよ……」
「仕方ないじゃない。ソラに来てほしいのも、ソラを傷つけたくないのも本心なんだから」
互いにこぼれそうになる涙をこらえて、言葉を交わす。
「だけど私はこう言うよ。来るか来ないかは、あなたが自分で決めて」
「……そんなこと言ったら、僕は毎日来るよ。もしかしたら、学校サボってくるかもしれないよ」
「うん、知ってる。だからこういったの。私は、自分勝手な人間だから。あなたを悲しませるってわかってても、あなたに会いたいから」
「……ありがとう」
「あのね、手術するんだって」
何かを断ち切るよう唐突に、彼女は言った。
「お医者さんは、今回の手術は難しいものになるって。成功したら、身体の状態は大分良くなり完治の見込みもあるけど、もし失敗すると、命の危険も考えられるんだって。でも、手術せずに、何もせずにこのまま死ぬよりは、少しでも生きようと足掻いて、もがいて死ぬほうがいいと思ったから」
僕は、再び口を閉じる。
「来週の検査で結果が良ければ、その次の週に都会の大きい病院まで行って、そこで手術してもらうんだって。それから経過を見るから、こっちに帰ってくるのは、三週間後くらいになると思う。まあ、詳しいことは私にもわからないんだけどね」
「そっか」
僕は、それだけしか返せなかった。なんと言ったらいいかわからなかった。
今ほど、自分の弱さを呪ったことはない。
「だから、私からのお願いごと。――私が向こうの病院に行くまで、できるだけ遊びに来て? 私を元気づけて?」
「うん、わかった。絶対来るよ。約束する。君が向こうに行くまでも、向こうから帰ってきてからも、僕は君に会いに行くよ」
「――ありがとう」
彼女は、僕が魅せられたその笑顔で、綺麗に笑った。
「引き止めちゃってごめんね。そろそろ時間かな」
時計を見ると、すでに七時に近づいていた。窓の外も、いつの間にか暗くなって、雲も見えなくなっている
「……そうだね」
鞄を持ち、彼女に背を向ける。
背後から、いつものように澄んだ彼女の声がかけられる。
「じゃあね」
「じゃあ、また明日」
振り返って言うと、彼女は、初めて会った日のように、少し目を見開くと、すぐに満面の笑みを咲かせて、言った。
「うん、また明日ね、ソラ」




