苦々しい出来事
瞬くと、改札に吐き出された人々がそれぞれの趣くままに歩を進め、やがて散りぢりと霧散していった。
新宿アルタ前の雑踏の中、アゲハは一人で立っていた。
彼女の顔から一度も視線を逸らさず近づいていくと、無数の人が二人の間を横切っていくのがわかる。
僕たちがまた会う日まで、一体どれだけの人が間に入り込むのだろう。
「また会えるのかな」
声は雑踏に掻き消されてしまう。
アゲハは僕ではないどこかに視線を向けている。
僕ではない誰かを待っているように、彼女はぼくに気が付かない。
二人の絆が稀薄になった気がして、息苦しく空を仰ぐ。
「どうしたの、息なんかきらして」
目の前に仁王立ちした男が肩で息をしているのをみて、アゲハは笑った。
その笑顔が僕を余計に苦しくさせる。
僕は彼女の隣に立ち、息を整える。
「なに見てたの」
辺りを見渡しても広場を横断する人々しか見えず、取り立てて目に留まるものは見つからなかった。
彼女と同じものを見ていたかった。
彼女と同じものに気を留めていたかった。
でも、僕にはそれが見つけられない。
「とくに、何も」
そう言ってアゲハはこちらをまっすぐと見つめる。
抱き締める代わりに彼女の抱える旅行カバンを肩代わりし、ゆっくりと駅へ足を向ける。
片方に旅行カバン、もう片方にギターのソフトケースを担いでいる。
「いつも言ってるけど、バスターミナルは西口だからな」
乱暴に歩く僕の後を跳ねるような足取りでアゲハはついてくる。
人を避け慣れていない歩き方で。
それでも、遅れをとるまいと小走りになる。
ぼくはバッグという人質を肩に新宿を駅に沿って歩いていく。
バスの発車時刻は九時半。
さっき横切った駅の大時計の針は八時を指そうとしていた。
一時間半。
あと一時間半で僕らは別れ、次に会うのは――――いつになるかもわからない。
今度いつ会える?
いつになってもその一言が口からでない。
言葉少なに食事を済ませ、駅ビルにあるCDショップで時間を潰す。
欠けがえのない時間を、ぼくはそうして過ごしてしまう。
「これ」
アゲハは一枚のCDを手に取った。
「颯ちゃんと同じギター」
ジャケットにはギターを抱えて挑むようにこちらを睨みつける男が写されていた。
「同じようにみえるけど、おれのとは違う」
まるで違う
心のなかで呟いた。
おれはニセモノだ。
そう告げる間もなくCDは棚に戻された。
ソフトケースに無理に押し込んだギターが肩に食い込む。
ぼくは何度も荷物を左右の手に持ち直した。
バス停についても、切符を渡し荷物を預けても、別れの時間が迫っても、上手く言葉が見つからなかった。
新宿のバスターミナルは夜にもかかわらず長距離バスを利用する人たちでごった返している。
別れを惜しむ人たち。
独りで黙ってバスに乗り込む人。
誰かを待っているように、なかなかバスに乗り込まない人。
僕たちはそれらをやり過ごし、乗車口まで辿り着く。
そのままバスに乗り込む勢いのアゲハと車体の間に身体を入れ込んだ。
そんな自分に少し驚き、でもそれが自分の気持ちから来るものだと改めて認識できた。
僕を見上げる彼女の視線から逃れるように、視線を泳がす。
新宿西口の高層ビルに囲まれたバスからは、ビルの巨大な入口くらいしか見て取れない。
後はすべて、石の壁が連なっている。
息苦しい気持ちはどこにも行き場はなく、自分から発せられるべき言葉は一向に見つけられなかった。
言いたいことは決まっている。
今度、いつ会える?
ただそれだけ。
それだけなんだ。
でも、僕はその探す必要もないほど決まりきった言葉を発せられないでした。
心を占めているはずの言葉を見えているのに見えていないふりをして、ずっとわかっているそれを探し続けている。
「さよなら」
アゲハは少し笑ってそう告げる。
僕は頷きながらもなお彼女の行く手を阻んだ。
そんな僕を、彼女は黙って見上げる。
やむなく僕は降参しておずおずと身体をずらす。
アゲハはぼくよりずっと大人な表情のまま、バスの入口に足を掛けた。
あのさ
独り言のように呟く。
彼女は振り返り、煮え切らない僕の顔を、やはり黙って窺う。
「じゃあ、行くね?」
いつまでも黙りこんでいる僕の肩に触れるか触れないか手を添えた。
どこか悲しげで、でもやさしさが染み出すような笑顔も添えられていた。
添乗員が最後に乗り込み、バスのドアは閉められた。
少し離れた場所からその様子を窺っていたが、彼女はどうやら沿道側に席を取らなかったらしい。
今度、いつ会える。
ただそれを聞くだけでよかった。
それを聞いたからと言って、何が変わるわけでもない。
でも、それを聞くことで二人の間がどれだけ儚くとも確かに繋がるのだとしたら。
僕はそれをアゲハに尋ねるべきだった。
長距離バスは大阪に向け、走り出す。
僕はその姿がビルの陰に隠れてもなお目で追っていた。
どうしようもなく息が苦しくて、空を仰ぐ。
四方をビルに囲まれたそれはまるで鳥籠のようで、却って心が囚われてるような感覚に苛まれた。
バスは定刻通り出発し、もうエンジン音の名残すら伺い知れない。
ぼくはケータイを胸ポケットから取りだし、彼女の電話番号を呼び出す。
あとワンプッシュすれば電話は掛けられた。
でも僕はしばらくディスプレイを見つめただけで、再びそれをポケットにしまった。
どうしても一歩が踏み出せない僕は、迫り来るビルの檻の中で茫然と立ち尽くすしかなかった。