田舎道
1999年と言えば、地球が滅亡するかもしれない年でもあった。
私は当時中学に上がったばかりで、くだらない噂話に耳を傾けながら、密かに地球が滅亡しないかと望んでいた。私は違う町から転校してきて、この中学に入ってきた。だから私以外のクラスメイトが皆、小学校の頃からの知り合いで、私はその仲間意識になじめずに、入学してから三か月が経った今も、友達と呼べる人間はいなかった。
この世に愛着なんて全くなかった。
誰が死んでも悲しまないし、私が死んでも誰も悲しまない。私が死んで唯一嫌だな、と思うことは、もう二度と長浜ラーメンが食べれなくなることか、人気漫画の黒幕が分からないこと、それだけだった。
私はいつも、休み時間は図書室に居た。悲しいかな、私のクラスの人間の中で昼休みに図書室に通う人間は誰もいない。だから、私は他の上級生たちに混じって、隅っこの席に腰かけ、ひたすら本を読んだ。ジャンルは特に気にしなかった。私はやることがないから、ただ活字を目で追っているだけで、特に本が好きなわけではないのだ。学校の図書室がマンガ喫茶だったらいいのに。そう思うくらいだった。
だから、だから、その本を何故私が手に取ったかは、全く覚えていない。ただ、私が確実に覚えているのは、体が震えるほどの情欲と、今までに感じたことのない心臓が止まってしまうほどのときめきだった。
あれから20年、私は未だに貴方に恋をしている。
私はその間、あなた以外の人を好きになったことはない。あなたのためなら死んでもいい。そんな風に想える相手と生きてるうちに出会えるのはそうない事だと、この歳になって、私は気が付いた。例えあなたが死んで二千年が経った後だとしても、この恋心に出会えたことが一番の奇跡だと私は思っている。
今は昔のように、あなたへの恋心を誰彼に言ったりはしない。それがいかに頭のおかしいことか、身を以て知ったからだ。しかし、これからも私はあなたのために生きる。
20年前の秋の始まり、私はいつものように、図書室の隅に居た。
私の生まれた町は、何の特徴もない、小さな田舎町だった。今でこそ、観光名所などができ、人口も少しずつ増えてはいるものの、その時は、あまりにもさびれた町で、ここで生まれた若者は、皆、いつか外の世界へ羽ばたくことを夢見ていた。図書室の窓からも、稲穂で小麦色の染まった田畑がまんべんなく見渡せた。なぜなら、私が通っていた三階建ての中学校が、このあたりでは一番高い建物だったのだ。
毎年毎年やってくる、この変わり映えのない景色に、私はいい加減嫌気がさしていた。でも、図書室の窓際の隅の席で、開け放たれた窓から風を感じながら、紙臭い本を一枚一枚めくっていくことを、私は気に入っていた。
友達もいないし、勉強も好きではない、そして部活動で汗を流すこともない私には、他の中学生よりも沢山の有り余る時間があった。私は、薄い文庫本にも飽きてしまっていたので、ひとつ、手を出していなかった歴史書でも読んでみようか、そんなことを思い手に取ったのが、あの本だった。
『三国志 魏書』
なんと忌々しい本の名前だろうか。
上に現代語訳、真ん中に漢文、下段に古語訳が印字されたそれを、私は何気なく手に取った。きっとこの中学校にお目見えしてから、誰一人、この本を開いた生徒はいないのだろう。茶色く焼けた本は、ページを開いていくたびに、パチパチ、と嫌な音がした。
特別面白いものではなかった。ただ、およそ二千年前に存在した人間たちの功績が、小難しい言葉で羅列されているだけだった。今まで見たことのない漢字が至る処に散らばっているし、どちらかと言えば速読の私も、この本を読むのには時間がかかった。たぶん、私はすべてに目を通すことなく、本を閉じるだろう。そんな風に思っていた。
でも、私は見つけてしまった。その名前を。その文章を。
『戦利品を私としない。しかしながら、あまりにも軍律に厳しく、兵士や民衆の心を得られなかった。』
なんと馬鹿馬鹿しい話だ。私は怒り狂った。そして自分自身のことに当てはめた。
私には友達もいない。教師からの信頼も厚くない。しかし、言いつけは必ず守ってきた。成績はよくないが、出された宿題を忘れたことは一度もなかった。授業中に無駄口をたたくこともなかった。それなのに、私には友達一人いない。報われない。
私は歴史書にこんな風に悪口を書かれる人物が知りたくなった。それまで、真剣に目を通していなかったのだ。誰について記されたものか、それさえ私には分からなかった。そして、私はあなたの名前を見つけた。
于禁、字を文則。
それが私が一生をかけて恋をする相手であった。
あなたと出会ってから二、三日の間、私は図書室に行くことをやめて、ひたすらあなたのことを考えた。
騒がしい教室の中で、じっと席に座ったまま、私は頭を伏せ目を閉じて、あなたがどんな顔をしているか考えた。どんな顔をしているのだろうか。背は高いのだろうか。声は低いのだろうか。そんなことを考えていると、心臓がどくどくと高鳴ってくるのが分かった。
三国志と言えば、有名な物語だ。私の中学校にも小説だけでなく、長編漫画も全巻そろっていた。
自分で顔を考えなくても、資料はいくらでもあった。それでも、まずは自分の中で、あなたを精一杯創造したのは、きっと、誰からも、私の中のあなたを見られたくなかったからだろう。だからこそ、余計な情報を頭の中に入れたくはなかった。きっと図書室へ行ってしまえば、私はあなたを探して、三国志の文献を漁り始めてしまうことを分かっていた。
普段であれば、いないはずの人間がずっと教室にいることに、クラスの連中は気が付いたらしく、皆、怪訝そうな目で私を見ていた。私に話しかける人など誰もいなかった。実害はなかったけれど、心底この教室の居心地が悪かった。私はクラスの目線を避けるために、長い髪でいっそう顔を隠し、常に額を机にこすり付けた
私の世界では、あなたがひたすら血まみれになって戦っていた。
あなたは背が高くて、がっちりとした筋肉を持ち、そして、小麦色の肌をしていた。濃い眉毛がきりりと光り、ぞっとするような冷たい目で時折私を見た。
あなたは私など眼中にないような態度だったけれど、それでも私はあなたが存在するだけで、随分救われたのだ。授業中、暇な男子生徒に消しゴムの屑を投げられても、浮ついた女子たちに上履きを隠されても、私は辛くもなんともなかった。あなたが私を守ってくれた。だから、私はこの滅亡しそうな地球の中で生きていくことができたのだ。
なんと馬鹿げたことだろう。
今、私は大学に残り、あなたに関する研究を続けているけれど、時折、あなたに出会ったばかりの頃をよく思い出す。その頃の私は何かの病を患っていたように思う。おそらく、あなた以外の生き甲斐がなかったのだろう。それは今も変わらないのだけれど、うざったいしがらみがない分、あの頃の私は、あなただけを見ることができた。
結局、そんな生活は一か月も持たなかった。
私を排除しようとする動きは過激になってきた。なにより、文章を見ない生活は、私の中のなかのあなたの存在をだんだんと薄れさせていった。
私は一か月ぶりに図書室に行った。いつもの場所に陣取ると、それまで小麦色に光っていた味気ない田園地帯は、すっかり稲刈りも済んで、荒れ果てた大地のように枯れていた。私はそれを横目に、ずっと読もうと思っていた、長編の三国志漫画を立ったまま読み始めた。
でも、あなたの名前を見ることはできなかった。私はその時初めて知ったのだけれど、あなたは『三国志演義』という物語のなかでは、あまり良い扱いをされていない。それどころか、あなたは「裏切り者」として有名だった。必死に命乞いをする姿を見て、私はひどく心が痛んだ。だからこそ、私はその漫画本をすぐに閉じた。そして私はあなたのことを隅から隅まで調べることにしたのだ。
あなたの文献を調べることを決めてからというもの、私の鞄の中には常に三国志関連の本が入っていて、暇さえあればそれを開いていた。そしてあなたに関する文章を一文でも見つけると、私は大学ノートにへたくそな字で書き写した。
そのノートは、今でも私の研究室の引き出しの中に入っている。和訳に間違いがあってはならないので、漢文ごと私はひとつひとつ書き写した。
その頃には1999年は終わっていて、新しい年が始まっていて、クラスの皆は少しだけ大人になってくれたらしい。私を見ても排除しなくなっていた。結局、世界は終わることなく、ただ、私の平凡で静かな日常だけが淡々と過ぎていった。
私はあなたに呼びかけることができるようになっていた。あなたが生きていた時代の文化や風習を、少しずつ理解できたこともあり、それまで以上にあなたの姿を色濃く創造することができるようになっていた。
例えば、あなたが着ている着物の柄、戦いのときに身に付ける鎧といった類のものだ。しかし、あなたが娶った奥さんのことも、私は知ってしまった。
私は泣き伏した。あなたに愛された女性がいることが、悔しくて悔しくてたまらなかった。なぜ、私はこんな時代に生まれてしまったのだろうか。あなたと同じ時代に生まれていれば、もしかしたら、私はあなたに会えたかもしれない、愛されたかもしれない。安全じゃなくてもいい、すぐに殺されたっていい、あなたが見ていた空を私も見上げることができた筈だ。あなたと同じ二千年前に生まれていたら。
あの頃、私は確実にあなたに恋をしていた。
同級生たちがもう少し大人になると、彼らもまた私と同じように誰かを好きになった。それは、サッカー部のキャプテンだったり、野球部のピッチャーだったり、美術部の部長だったりした。女の子は特に身だしなみにも気を使う様になり、校則で禁止されている色つきのリップをつける子もいた。そんな色気づいた同級生たちを横目に、私は枝毛だらけの髪の毛を手入れすることすらなかった。相変わらず私には友達はいなかった。
その日、私は珍しく本を借りて、校庭の片隅に腰かけてあなたを感じていた。
その本の中でもあなたは雄々しく戦っていた。呂布を生け捕りにしたり、黄巾族を根絶やしにしたりしていた。
私は穴の開いたコンクリートブロックの上で、あなたの活躍を見守っていた。しかし、あなたの活躍は一声で終わってしまった。学校指定のスニーカーを履いた男子生徒が私に寄ってきたからだ。その白いスニーカーは、かかとをつぶされて茶色く汚れている。今日は何をするのだろう。水をかける?ごみをかける?それともここは運動場だから石灰をかける?どの選択でも私は一向にかまわなかった。少なくとも、あなたを守ることさえできれば私の身などどうでもいい。私は本を閉じると、胸の中にあなたを隠した。
男子生徒がとった行動はそのどれでもなかった。
「なあ、お前そんなに本が好きなん?」
男子生徒は私を見下げながらそんなことを言った。私は顔を上げると、声の主を確認した。同じクラスのお調子者で、女子からも人気のあった生徒だった。名前はたしか、秋山と言った。この短い中学校生活の中で、秋山が私に話しかけてきたのは初めてだった。
「別に…。」
私はそっけなく答えた。あなたに危害が加えられる可能性がまだ十分ある。私はあなたを守る手にぐっと力を込めた。
「いつも本読んでるよな。」
秋山はよっこらせ、と呟きながら私の隣に腰かけた。どうせ賭け事でもしているのだろう。私に話しかけたらジュースを奢るとか。私は普段誰とも話さずに教室の中に生息している。男子生徒たちがよくやる遊びをこれでも知っているのだ。私は次の質問には答えずにあなたを開いた。
「俺馬鹿だからそんなに文字が並んでるやつ苦手なんだよね。今度おすすめの読み易いやつ、紹介してよ。」
「あ…別に…。」
普段人と話すことがないからだろうか。私は少し吃音気味だった。
沈黙が流れた。私は隣の秋山を意識しないように、あなたを目で追った。活字の中で、あなたは生きて動き私の心をどぎまぎさせた。あなたが乗る馬の蹄の音や、ずっしりと重たい鎧の感触。それらは私をこの気まずい状況から救ってくれる。
秋山はそれ以上口を開くことはなかった。ただ休み時間が終了するチャイムが鳴るまで、私の隣に座ったまま、グラウンドの砂が風に舞うのをじっと見つめていた。
それから、私が校庭の片隅で本を読むことは二度となかった。昼休みの度にからかわれては、おちおちあなたを感じることさえできなくなる。一日は何故24時間しかないのだろう。私は睡眠時間以外はずっとあなたの事ばかり考えていた。しかしそれだけでは足りない。学校の勉強など何の役にも立たないことを私はよく知っていた。
それから四日後の事だった。
秋山が『三国志演義』を片手に図書室の私の隣にやってきた。何故そんなによく覚えているか。それはあまりにも私にとって過酷な出来事だったからだ。彼は児童書のごくごく簡単なものを四日間かけて読み切ったらしい。私は例のように彼を無視してあなたの世界に没頭していた。図書室にあった、あなたに関わる本はもうすべて読破してしまっていた。その時開いていた本も、もう二回読んでいた。もちろん秋山が持ってきた『三国志演義』も何度も読み返したものだった。
「藤沢さん。」
藤沢、それが私の名前だ。といっても、あなたの前では意味をなさない記号のようなものだ。もちろん私は無視した。
「三国志の中で誰が好きなん?俺はやっぱり劉備かな。」
劉備か。私は心の中で反復した。私もあなたに会うまでは好きな武将だった。でも私はあなたを見つけていた。
私は秋山にあなたの存在を伝えるべきかどうか迷った。何故なら秋山が読んでいる『三国志演義』にはあなたは一行しか出てこない。秋山の視線が面倒だった。どうせ私に話しかける賭け事がずっと続いているのだろう。仕方なく、私は小声で「曹操」と、あなたの主人の名前を答えた。きっとあなたの尊敬する主人であれば、きっと秋山も名前ぐらいは聞いたことがあるに違いない。
「藤沢さん曹操が好きと?なんか以外やね。絶対孔明て思ったとけ。」
秋山はなまりの強い言葉でそんなことを言った。どこが意外なのだろう。私はもちろんあなたのことを好きだけれど、あなたの崇めるその人も同じくらい尊敬している。
「でもさ、藤沢さん、なんで曹操が好きと?悪の塊みたいな男やん。」
悪の塊。その言葉は私を怒らせるのには十分だった。私は乱暴に本を閉じると、すぐに席を立った。椅子を引く音がやけに図書室に響いてしまう。この男はあなたのことはおろか、あなたの君主のことを正しく理解していない。できるはずもない。そう心に言い聞かせても無駄だった。
私を呼ぶ声が後ろから聞こえるけれど、振り返らなかった。乱暴に図書室の扉を閉めるとゴム臭い廊下を速足で歩いた。
一般的にあなたの君主が陰でどういわれているか。私は理解しているつもりだった。しかし、面と向かってそんなことを言われると、うまく感情を抑えることができなかった。
今もそれは変わらない。
研究室で私はよくゼミの大学生たちと、あなたやその周辺の人物たちの中で、だれが一番すぐれているか、弁で争うことがある。初めこそ冷静にあなたの良い処を列挙して答えることができるけれど、だんだんと痛いところを突かれると、私は冷静じゃなくなってしまう。いつの間にかレポートで机をたたいたり、原稿用紙をぐちゃぐちゃにして壁に投げつけたりする。相手もそれにつられて私と同じようなことをするものだから、狭い研究室は嵐が過ぎ去ったように荒れてしまう。
「君は于禁将軍のことになると周りが見えなくなるね。」
その様子を見て、教授はにっこりとほほ笑み、私は我に返り行動を恥じてしまう。それもあってか、今では誰かとそのような激論を交わすことは控えている。
秋山が後ろからついてきていないことを確認して、私は立ち止まった。そのままガラス戸をあけて非常階段に出た。秋の実りの強い風がひっきりなしに吹いて、私の長いスカートを大きく揺らす。私はむきだしのコンクリートの上に拳を強く叩きつけた。ごつん、と嫌な音がした。
秋山の言葉はただ、引き金になっただけだ。
私はあなたが歴史上の偉人たちから、どんな風な扱いを受けていたかを、ありありと思い出していた。そして、あなたの行動から無意識に目を逸らしていたのは、まぎれもなく私だった。
およそ二千年前、あなたは味方の援護に向かったけれど、そこで洪水に遭い身動きが取れなくなった。そこを軍神、関羽に攻めこまれてしまった。だから、あなたは君主を裏切って、敵国に投降した。
日本には「武士道とは死ぬことと見たり」という言葉がある。この国の文化の大抵はあなたの国から伝わったものだ。きっとあなたが生きていた時代にも同じような美徳は存在していたはずだ。潔く死を選ばずに、無様に生き延びたことを、きっとあなたの周りの人たちは許さなかった。そう、常勝将軍と呼ばれたあなたに何度も助けられたはずなのに。
私の目から自然と流れ出した液体は、あなたに対する懺悔の塊だった。私はあなたが好きで好きでしょうがないはずなのに、あなたの一番「汚れた」瞬間から無意識に目を背けていた。
その日の放課後、私は学校のパソコン室に忍び込み、あなたの名前を検索エンジンに打ち込んだ。現代、あなたを評価する人間はどのくらい居て、そしてどんな評価をしているのか、受け止めなくてはならないからだ。
しかし、飛び込んできたのは、あまりにも辛辣なものだった。
何のとりえもない凡愚たちが、思い思いの汚い言葉であなたを罵っていた。それらの言葉たちは、磨ぎたての刃物に姿を変えて、私の心を突き刺した。言葉が大きな掌となり、私の心臓を鷲掴みにすると、ぐっと力を籠めていく。そうやって私の一番大切な臓器はいずれ跡形もなく潰れてなくなる。
あなたは私の命であり、生きる希望だった。私は玉の入った灰色のマウスを力の限り握りしめた。その瞬間、私はあなたであり、あなたは私だった。
明かりのない灰色の空間、新品の機械の香りのなかで、私は顔に雨を感じていた。あなたが経験したあの洪水が、私の足首を濡らしている。自然災害による容赦ない虐待は、私の前であなたを襲った。この水音もきっとブルーライトが作る幻影なのだろうか。そしてあなたは私に向かってこう言った。「私を見つけろ。」
気が付くと私はパソコン室のカーペットの上で手足を広げ、制服のまま大の字に寝頃がっていた。当然私の体は濡れていない。私がスイッチを入れたパソコンだけが白い明かりをともしていた。
「将軍…。」
私は掌を天井にかざした。そこであなたが私を見ているような気がしたからだ。
「私は絶対にあなたを嫌いになったりしない。一生かけてこの誤解を解いてみせる。そして、あなたがいかに優れた素晴らしい人間かを、絶対に公表する。」
誰でもない、他ならぬ自分に言ったことだ。私はそのとき決心した。私があなたに関する歴史を作る。私があなたを世に出して見せる。
第一章 田舎道 完




