ピンポンガール
特にやりたい部活もないし、適当でいっか。
学校からの帰り道、両側に延々と田んぼが続く農道を、自転車に乗りながらそう思った。
入学式の後すぐに各部活の紹介があったのだけど、正直どれもピンとこなかった。
バレー部、ソフトテニス部、卓球部、吹奏楽部。
たったこれだけ。
必ずどこかの部活には入らなければならないのに、これはあんまりだ。
だいたい文化系の部活が一つもないっていうのはどうかしてる。
唯一、生徒会っていう選択肢もあるけど、論外だ。
はあ、と溜息をつく。
「ねえ、どの部に入るか決めた?」
隣を走っていた景が声をかけてきた。
「ダメ。全然決められない。景は決めた?」
「私もまだ。吹奏楽部にしようかと思ってるけど……」
なんだ、決めてんじゃん、と思ったけど黙っておく。
たぶん景は吹奏楽部には入らないだろう。なぜなら私が入る気がないから。
「真名は運動神経良いからやっぱり運動部、だよね? バレー部とか?」
冗談じゃない。あんなバリバリの体育会系の巣窟に入ったらどうにかなってしまう。
「無理だって。部活紹介のとき見たでしょ? あれ絶対入部したら最後、確実にシゴキが待ってるね」
そう確信している。
部活紹介の際、講堂の壇上で横一列になったバレー部員達はみんな同じ髪型で、中には丸坊主の人もいた。アレは見るからにやばい。少人数だったから比較的楽にレギュラーにはなれるだろうけど、全員目がイッてた。
「ま、入るとしたらテニスか卓球かな」
そうは言ったものの、卓球なんて地味で暗いところにも入る気はなかったりする。
そうなるとソフトテニスしか無くなるわけだけど、今ひとつ決心がつかない。
というのも、適当に幽霊部員を決め込みたいという、私のような思考パターンで入部する生徒がもっとも多いのがソフトテニスだからだ。
コートは一面しかなく、レギュラーを除く大半の部員はまともに練習もできない。
そのほとんどが補欠扱いになるわけだけど、不思議なもので、そういう環境に放り込まれると、どんなにやる気のない部員も熾烈なレギュラー争奪戦に嬉々として加わるようになる。
この場合必ずしもレギュラーになることっていうのが目標にはならなくて、気に入らないヤツへの嫌がらせとか足の引っ張り合いが楽しくなるようだ。
そんな話を、三つ年上のお姉ちゃんから聞いた。
お姉ちゃんはそんな過酷なソフトテニス部で一年の頃からレギュラーの座を勝ち取り、三年生の時には全国制覇を成し遂げた強者だ。
当然先輩や同級生のやっかみも相当ひどかったそうだけど、そのすべてを力ずくでねじ伏せていたらしい。
髪掴んで腹に膝入れれば楽勝だね、とお姉ちゃんは言っていた。
一撃で仕留められるし、証拠も残らないよ、なんて笑いながら。
つまり、お姉ちゃんほどの体格も度胸もない私ではソフトテニスは無理ってことか。
じゃあ、卓球しかないじゃん。
そういう結論になってしまう。
私は部活紹介の時の女子卓球部部長の姿を思い出す。
ショートボブの色白で、身長なんかたぶん150センチくらいしか無くて、おまけに声も小さかった。
女子卓球部部長の夜見一です。部員は私だけです。宜しくお願いします。
たったこれだけ。
伏し目がちにたったこれだけボソボソ言うと、頭を下げてさっさと下がってしまった。
顔立ちが整っていて私好みだったけど、これはない。
バレー部は部員全員が二手に分かれてアタックとレシーブを交互にやったし、ソフトテニス部は部長と副部長が体育館の対角線上でボールを打ち合ったし、吹奏楽部は三年生がそれぞれ楽器を弾くといったデモンストレーションをやったのに。
卓球部部長が挨拶を終えると、私ら新入生はあっけにとられ、その後何とも言えない微妙な空気になったことを覚えている。
たぶんあれでは部員なんか集まらないだろう。
彼女と同じようにコミュ能力の低い性質の人間なら入部するかも知れないけど。
そんなことを考えていると、土手へと続く坂道に差し掛かった。
これから毎日こんな坂を登るのかと思うと気が滅入る。
ペダルに体重を乗せ、立ちこぎで一気に駆け上がる。チンタラしてたら余計にだるい。
坂を登り切って振り返ると、景は自転車を押してのろのろと登ってきた。
「私にはちょっと無理だよぅ」
情けない声を出す。まあ私も結構辛かったけどね。
目の前を茂信川が流れている。所々川底が顔を覗かせている、水量の少ない川だ。
向こう岸に架かる一本の橋。
この橋を渡らなくちゃならないんだけど、人一人がやっとすれ違える程の狭い橋で、おまけに手すりとか柵がない。つまり剥き出し。デンジャラス。
景は唇が微かに震えている。明らかに怯えていた。
実際、何年か前に私たちの通う中学校の生徒がこの橋から自転車ごと転落した事故があった。
幸い命に関わるような怪我はしなかったそうだけど、実際にここから人が落ちたのだと思うと、さすがに私もビビってしまう。
でも、川下に行けばまともな橋が架かっている。ただ、かなり遠回りになるので誰も使わないし、使ったら負けなんだと思う。何に負けるのかイマイチ分からないけれども。
意を決してペダルを踏み込むことにする。
大丈夫。まっすぐ走れば良いだけのこと。
そう思うけど自転車は言うことを聞かない。
スピードがのろすぎて、車体がふらふらと安定しないのだ。けど、どうしようもない。
たまらず足をつく。
やっぱ無理。
自転車を降りて押して渡ることにした。
たった十数メートルの小さな橋だけど、なかなか手こずらせてくれそうだ。
何とか無事に渡りきる。
で、振り返ると、景の姿がない。
え? どこ行ったの? ひょっとして落ちた?
驚いて辺りを探すと、川下の橋へ向かっているのが見えた。
安全第一。
私の親友月森景は、そういう奴だ。
橋を渡るとすぐに景の家があるので、そこで景と別れ、私は一人家路を行く。
田んぼと用水路に挟まれた、狭くていかにも軽トラしか走らないような農道を通る。
夜になるとこの辺りはイノシシが跋扈するので注意が必要なんだそうだけど、どう注意したものか、私には分からない。
田んぼ側に等間隔に設置された街灯は、虫除けのために青白い光を放っている。
とても不気味だ。
お姉ちゃんが通っていた頃にはこんな街灯なんか無くて、家までずっと真っ暗な中を帰ってきたのだそうだ。でもって、やっぱりたまに痴漢が出たりしたらしい。
怖いな。田舎は。
高校はやっぱり都会に行きたいなぁ。
そんなことをとりとめもなく考えていると、前方に、自転車に乗った女の子を見つけた。
私と同じ中学校の制服。
学年は分からないけど、体が小さい。同級生だろうか?
後ろ姿だから、顔は分からない。
このまま行くと、じきに追いつく。
ふと、違和感を覚えた。
私の住む町内は、私の通う和泉中学の校区の中でもはずれにある。
つまりこの道を通るってことは私と同じ町内ってことになるのだ。
けど、町内で私と同じ学年は一人もいないし、それどころかお姉ちゃんを除いて三歳上まで女の子はいない。
じゃあ一体、目の前を走るあの子は誰だろう?
俄然興味が湧いてくる。
私は自転車のスピードを落とし、後をつけることにした。
道はほぼ直線で、右手は用水路、左は田んぼ。遮蔽物はない。
でも、街灯があるとはいえ薄暗いから、ある程度距離が離れていれば気づかれることもないはずだ。もっとも気づかれたところで困らないけど。
できるだけペダルをこぐ音を抑える。
この際ライトも消そうかと思ったけど、用水路に落っこちたらただではすまないのでやめておく。
前の女の子は特に急ぐ様子もなく、ごく普通のスピード。
気づかれてはいない。
しばらく存在を消して後を追う。
やがて道が緩やかな上り坂になり、私の住む町内に入った。
40軒しかない、小さな町だ。
町にある唯一の信号機を直進してしばらく行くと、女の子は一軒のお店の前で自転車を降り、奥へと入っていった。
ここは、よく知ったお店だ。
「阿弥」。
看板にでかでかとそう書かれている。
老舗の和菓子屋さんだ。私もたまにここで羊羹を買ったりする。
けどここには中学生の女の子なんて居なかったはず。
ふと、店のガレージに女の子の自転車が置いてあるのが目にとまった。
私は自転車を降りるとそっと歩み寄り、前輪の泥よけを確認する。
夜見一。
そこに貼ってあったネームシールには、卓球部部長の名前が書かれていた。
一限目の国語の授業中、私はずっと昨夜のことを思い出していた。
あのあと帰宅し、それとなく母親に夜見先輩のことを聞いてみると、
「ああ、一ちゃんね。最近、阿弥さんのところに行ってるんですって。この間道で挨拶したけど、ずいぶんおとなしそうな娘だったわね」
と答えが返ってきた。
「で、なんで阿弥さんのところに行ってるわけ?」
「さあ? 遠い親戚にあたるそうだから、なにかとお世話になってるんじゃない?」
「お世話って、どういうお世話?」
「知らないわよ、そんなこと。いいからさっさとお風呂に入って。あんた長いんだから」
母親の機嫌が悪くなりそうな気配だったので早々に会話を打ち切った。
食事の後も、何とかもう少し情報を得ようと母親に聞いてみたけれど、たいした話は得られなかった。
彼女がこの辺りに出没するようになったのはごく最近で、どうやら部活を終えてから来ていること。
たまに休日にも来ているらしいこと。
こんなところだ。
放課後になった。
私たち一年生は一週間、各部活を見学して回り、いずれかの部活に入部しなくてはならないから、みんなさっさと荷物をまとめ、慌ただしく教室から出て行く。
そんな様子を横目で眺めながら、私はやっぱり夜見先輩のことを考えていた。
やっぱりバイト、だろうなぁ。
それ以外に考えられない。
でも私らの学校はバイト禁止のはずだ。っていうかどこの中学校でも多分そうだろう。
なんか事情があるんだろうけど、学校には内緒でしてるんだろうか。
いやいや、秘密にしてたところですぐバレるだろ。
現にうちの母親だって見かけてるわけだし。
じゃあ、何でバイトを?
家庭の事情ってやつだろうか? 昼ドラみたいな。
「ね、ねえ真名?」
いつの間にか隣にいた景が声をかけてきた。
「大丈夫? 朝から変な顔してたけど」
「失敬な。これは地です」憮然とする私。
「何かあったの?」
「実はね、気になる人がいてね……」
「えっ! もう!?」
「年上の人なんだけどぉ」
「いくら何でも早すぎない!? 私たち昨日入学したばっかりだよ!」
「だからぁ、今からその人に一緒に会いに行きましょ?」
「って、何で私まで!?」
いいからいいから、と私は暴れる景の腕を掴んで教室を後にした。
体育館の二階は吹き抜けになっていて、バーベルとか腹筋用のマットとかのトレーニング用の機材が置いてあった。
その一角に一台の卓球台。
廊下を歩いていた教師に卓球部の場所を教えてもらって来てみたものの、人影がない。
「狭いねぇ。これじゃあ台を全部出せないんじゃないかなぁ」
途中で卓球部に行くことを理解した景はすっかりいつもの調子に戻り、そう言った。
確かにかなり狭い。
卓球台は三台あるようだけど、残りの二台は折りたたまれ壁際に寄せられていた。
「見学者が来るかも知れないっていうのに誰もいないなんて、どういう了見かしら!」
芝居がかった感じで言ってみた。
ちょっとむなしくなった。
一階のフロアではバレー部が声を張り上げてボールを打ち合っている。
20人は居るだろうか。見学者はその倍以上居る。
毎年全国大会に出場しているだけあって、やっぱり人気があるみたいだ。
「ねぇねぇ、ラケットがあるよ」
景が手を振る。
台の下にプラスチック製の箱が置いてあり、数本のラケットとボールが入っていた。
「ちょっと打ってみようか?」
え~、大丈夫? と心配する景をなだめ、箱からラケットを取り出してみる。
温泉などでよく見られるラケットと、最近テレビでよく見る、握るタイプのラケットだ。
とりあえず自分のよく知っている、温泉ラケット(?)を手に取る。
「勝手に使ったら怒られないかなぁ?」
景はまだ不安げだ。
「まあまあ。誰もいないし、大丈夫だから。ハイハイ、向こうに行って行って」
そう言って私はラケットを振って台の向こうを指す。
渋々といった感じで景は台を挟んで向かいに立つ。
手には私とは違う種類のラケット。握るタイプだ。
「あれ? あんたそのラケット使うんだ?」
「え? うん。なんか使いやすそうだから」
そう言うと景はラケットを左右に動かしてみせる。
心なしか、強そうな感じ。
「なんか賭けよっか?」
「だめだめっ、私絶対負けるよ」
私の提案を速攻で潰す景。
ちっ、まあいいか。
「とう!」
気合いと共に私はボールを投げ上げ、落下してきたところにラケットを当てる。
ボールは大きくバウンドし、景のコートへ。
「あわわわっ」
焦った景はなぜか目を瞑ってラケットを振る。
……空振り。
ボールはリノリウムの床に落ち、バウンドした後ころころと転がっていく。
「ご、ごめん。私本当にこういうの苦手で」
あたふたと景はボールを拾いに行く。
気を取り直し。
「い、いくよ!」
今度は景のサーブ。
ボールを投げる。
落ちてきたボールにラケットを当て……と思ったら、見事に空振り、おまけにボールは台の角に当たって跳ね返り、景の顔面を直撃する。
「ふぐっ」
妙なうめき声を上げる。
微妙な空気。
まあなんとなく想像はしていた。
昔から運動は苦手なやつだからなぁ。
ともあれ、こんな調子だったけれども、しばらく打ち合っているうちに若干コツを掴み、なんとかラリーっぽいことができるようになった。
「おーし、今度はこれでやってみよっかな!」
私は台下の箱に突っ込んであった握るタイプのラケットを取り出す。
「ふん! ふんっ!」
よく分からないけど素振りしてみる。
「来なさい」
両手を上げて構えた。ちなみにこれはマス・オーヤマのマネだけれども、景には分からないだろう。
何やってんのコイツ? ってな感じの表情を浮かべた後、景がサーブを出してきた。
打ち返す。
が、ボールは台を大きく逸れて飛んでいった。
ボールを拾いに行った景が再びサービス。
今度は力を加減し、何とか返す。
コツンと軽く当てるだけの景の返球。
「よっ」
さっきと同じように加減し、返そうと試みたけど、ボールは見当違いの方向に飛んでいった。
違和感があった。
さっきまで使っていたラケットは手のひらでボール打つような感覚があったけれど、今使っているラケットは手からだいぶ離れたところでボールを打っている感じがする。
そのせいかうまく力を入れられないし、コントロールもままならない。
「これは私には合わないな~」
ラケットを箱に戻し、さっきまで使っていたラケットに持ち替えた。
うん、やっぱりこっちの方がしっくり来る。
「ま、真名」
突然、怯えた声で景が私の名前を呼ぶ。
「あん? 何よ」
景は私の後ろを凝視している。
振り返ると、階段を登ってきたと思われる夜見先輩が立っていて、じっとこちらを見ていた。
「あ」
やば、怒られるかな? と一瞬思う。
先輩はつかつかと私たちの方に近づいてきた。
「ひっ」
景は完全にビビっている。
「すいませ~ん! ちょっとお借りしてましたー」
表情一つ変えず歩み寄ってくる先輩に私は頭を下げた。
先輩は何も言わず私の前に立ち、じっと見つめてきた。
怒ってるのかな?
そう思ったけど、そんな雰囲気でもない。
見られてる。
そんなに見られると、なんだかこう、むずがゆくなってきてしまいます。
「中指薬指小指は揃えて」
ふいに、ボソボソと先輩が声を発した。
少々危ない世界にトリップしそうになっていた私は我に返る。
え、何? なんか言ったのこの愛くるしい小動物さんは。
先輩は私の右手を指さす。
ああ、ラケットの握り方のことか。
「こうですか?」
「違う。こう」
先輩の手が伸びてきて、私の手に触れる。
ああ、なんて華奢な指だろう!
暖かい。
目眩がする。
私の異変に気づいたのか、先輩は顔を上げた。
視線が合った。
その時、私の中の脳内にある怪しげなパラメーターが振り切れた。
「けけけけ、結婚してください!」
思わず両手を先輩の体に巻き付ける! っていうか抱きつく!
「ああああああああ……」
後ろで景が声を上げた。
このリビドーが! この溢れるリビドーが!
すると先輩は私に組み付けられながらも右手を後方に引き、容赦のない一撃を私の腹に突き入れた。
「おぶっ!!」
惨めな姿で崩れ落ちる私。
うぐぐぐ、これは、き、効いたわ~。
「離して」
ぴしゃりと先輩が言う。
あの、その台詞、殴る前に言いませんか?
そう言いたかったけれど声が出ない。
「あわわわ、大丈夫?」
景が駆け寄ってきた。
「……フフ、なかなかやりますね、先輩……」
涙目になりながらも私はゆっくりと立ち上がった。まだ声がうまく出せない。
なかなか鋭い突きである。
「実はですね、今日は、見学に……来たのです」
やっとの事で声を絞り出す。
不審そうな目をしていた先輩は私の言葉に一瞬警戒を緩めた。
「けんがく……。……見学?」
疑問系の台詞と共に先輩は私たち見つめた。
「見学、しに来たの?」
「はい。どうやらファーストコンタクトは失敗しましたが」
まだ痛みの治まらない私はなんとか笑おうと努める。
このまま先ほどのセクハラ行為はごまかしてしまおう。
「あの、勝手にラケットを使ってすいませんでした! でも私たち本当に見学するつもりで来たんです!」
景がフォローを入れる。
先輩は私たちを交互に見た後、短く、
「わかった」
とだけ答えた。
「じゃあ、とりあえず打ち返して」
そしてなぜか先輩を相手に打ち合うことになった。
なして?
そう思ったけど先輩はすでに準備を始めている。
どうやら最初は私らしい。
仕方なくラケットを手に持つ。先ほどまで使っていたラケットだ。
「とにかく打ち返してくれさえすればいい」
そう言うと夜見先輩は自分のコートにボールを一度バウンドさせ、ラケットに当ててこちらのコートに入れてきた。温泉卓球でよく見るサーブだ。
「よっ! と」
私は結構強めにはじき返した。
ボールは結構スピードがついて夜見先輩のコートに入っていく。
実は私、温泉卓球では負けたことがなかったりする。
でもそこはやっぱり本職。夜見先輩は動じることもなくやや後ろに下がって打ち返す。
ボールは高く山なりにこちらにやってきた。
そして、バウンドする。
狙いを定め、
「おりゃっ」
およそ女の子らしくないかけ声と共にさらに強く弾き返す。
でもやっぱり先輩は表情も変えず、また山なりに返してきた。けど、今度は利き手と反対側に返ってきた。
「くっ」
さすがにこれは強くは打ち返せない。ラケットに当てるだけになってしまう。
すると先輩はまたもや同じコースにボールを入れてきた。
仕方がないのでまた当てるだけにとどめる。
先輩は再び同じコースに返してきた。しつこい。
当てるだけだけど、今度はこちらもコースを変えてみた。
先輩は相変わらず同じコースに返球。
そんなことを何度か繰り返すうち、さすがに私もイラついてきた。
思いっきり打ちたいのに!
先輩はこちらがどこにボールを返そうが同じコース、つまり私の利き手とは反対側に返球してくる。
コースが分かっていれば、自分が動けば良いだけ!
私は先輩からのボールが返ってくるのと同時にボールのバウンドが予想されるコースに回り込む。
ドンピシャ!
思いっきり腕を振って返球!
ところが力みすぎたせいでボールは明後日の方に飛んでいってしまった。
「あー!! もう!!」
思わず叫んでしまう。
かなわないと予想はしていても、全く相手にされないとやっぱり悔しい。
そんな私の様子を表情も変えずに眺めていた先輩はぽつりと言った。
「あなたはそのままでいい。そのラケットを使い続けて」
どういう意味だろう? そのままで良いっていうのは。
先輩に声をかけようとすると、
「次は、あなた」
そう言って先輩は景にラケットを差し出した。シェークってやつだ。
「は、はい」
景は緊張した面持ちでラケットを受け取ると、卓球台を挟んで先輩と対面した。
うーん、どう見ても固まってるなぁ。
案の定、先輩の出したごく軽いサーブも満足に打ち返せず、ボールは台を遙かに飛び越えていく。
「あうううう……」
ヘコんでるヘコんでる。
もう一度先輩は緩くサーブを入れたけど、やっぱり景は満足に返球できない。
「これ使って」
これはダメだと思ったのか、先輩は別のラケットを差し出した。今度のはペングリップのやつだ。
「景、思いっ切り打てばいいよ」
無責任にアドバイスしてみる。
うん、と景は私に自信なさげな笑みを向けると再び構えた。
先輩のサーブ。さっきよりもさらに遅い。
思い切り打てって言ったのに、景はこわごわとラケットに当てる。
けど今度はちゃんと先輩のコートに入った。
先輩は柔らかいタッチで景の利き手側に返球。
「チャンスチャンス! 打て打て!」
思わず声が出る。
しかし景は相変わらず恐る恐る当てるだけ。
まあ、ちゃんと相手のコートに入れているだけマシかも知れない。
しばらく温泉卓球のようなラリーが続いた。
景のやつはとにかく相手のコートに入れるのが精一杯という感じで、私から見れば絶好球でも、当てるだけというプレーを徹底していた。
明らかに手加減して先輩はボールを返している。心なしか私の時よりコースも優しいような気もする。まあいいけど。
そんな感じの退屈なラリーが続いた後、先輩は傍らに置いていた箱をごそごそと漁り、一本のラケットを景に手渡した。
それはおかしなラケットだった。
丸い形のペンラケットなんだけど、表面と、裏面の両方にゴムが貼ってある。
しかも片方のゴムはなんだかイボイボがたくさんついている。
「イボのついた方で打ってみて」
そう言うと先輩はさっさとサーブを出す。
「ええ!?」
訳も分からないまま景はそのイボイボで返球。
さっきと同じようなラリーが続く。
けど、何か様子がおかしい。
まず、ボールが当たったときの音が鈍くなった。
それに普通に打ち返したときよりも若干スピードが遅い上に、妙な回転がかかっているように見えるのだ。
「たぶん、あなたにはこのラケットが合っていると思う」
ラリーが終わった後、先輩は景にそう言った。
「ペンの異質反転型。ショートとプッシュ。角度打ちがメイン」
なにやら専門用語を使い始めた先輩を呆然と見つめる景と私。
「なんですか? それ」
率直に聞いてみる。
二、三度瞬きをすると先輩は静かに口を開いた。
「卓球にはいろいろな戦型がある。たとえば私やあなたは前陣速攻型。相手からの返球をバウンドの頂点前で打つことになる。必然的に台の近くでプレーするからそう呼ばれている」
先輩は視線を景に移す。
「あなたは異質反転型。相手の攻撃をイボの面を使ってショートで返球する。返球のタイミングとかコースを突いて相手のミスを誘うっていう感じの戦型。たまに攻撃もするけど」
なんだかよくわからない。
なので単刀直入に聞いてみる。
「あの、どういう戦型が一番強いんですか?」
先輩はしばらく考え、口を開いた。
「一番強い戦型っていうのは、たぶん無い。どの戦型でも突き詰めれば一番になれると思う。ただ、世界のトップ選手を見ると、攻撃型が有利と言えるかも知れない」
「攻撃型って?」
「前陣速攻とかドライブ主戦型とか、自分から攻撃を仕掛けて得点するタイプのこと」
「あの、じゃあ、私は?」
黙っていた景がおずおずと尋ねる。
「あなたは守備型。相手のミスを誘う戦型。異質反転とかカットマンがそう」
「確かにあんたは自分から攻撃するってタイプじゃないかもね」
横から景をからかう。
「けど、最近は戦型の境界が薄らいでいる。前陣速攻でもドライブを多用したり、カットをしたりすることもあるし、あらゆる技術を一通り使うオールラウンドもいる」
先輩の説明は専門用語が多くてあんまりわからない。
目を白黒させている私や景の反応を見ると、先輩はふっと息を吐いた。
「とにかく、何か得意な技術を身につければいい。あとはそれを活かす方法を考えればいいだけの話で、戦型なんてただの分類だから」
そう言うと先輩は黙り込んでしまった。
ここでふと思った。
あれ? なんか入部することが決定みたいになってない? まあ私は良いけど。
景も気づいたのか、心なしか顔が引きつっている。
そう言えばこいつは吹奏楽部に入りたいなんて言ってなかったっけ?
確か無理矢理連れてきたんだ、私が。
ううむ。
まあいいや。
どのみち部活には入らなくちゃいけないし、こんなマスコットみたいな先輩もいるのだ。
先輩の性格じゃあ、バレーやテニス部みたいな熱血もないだろうし。
「私、一年三組の支倉真名と言います。こっちは同じく月森景」
景が小刻みに首を振っている。
ん? この期に及んで抵抗かな?
だが断る!
「私たち、卓球部に入ります!」
狼狽する景の首根っこを掴み、私は言い切った。
帰り道で景に散々愚痴られたけれど、私は適当に受け流し、先ほどのことを思い返していた。
見学しに来ただけなのに、なんの説明もないままいきなり私と景にラケットを持たせた先輩。
考えてみれば卓球部に見学者が来たところで、先輩一人では他の部活のようにまともな接待はできないだろう。ラリーだって最低二人はいないとできないし。
いや。ちょっと待て。
じゃあ先輩は今までどうやって練習をしてきたんだろう?
だいたい三年生はどうしていないんだろう?
「ひどいよ、私、吹奏楽に……」
後ろにいる景は相変わらずぶつぶつと文句を言っている。
「景君。いい加減あきらめたらどうかね?」
「だって私、球技なんてできないよ」
「いやいや、あんたの場合球技どころか運動全般できないじゃん」
「そうだよ」むくれた様子の景。
「だから吹奏楽に入ろうと思ってたのに」
「まあ、そうは言っても、あんたもちゃんとラリー続いてたし大丈夫。何とかなるよ。それに吹奏楽なんて壮絶なパート争いがあるかもよ? その点卓球部なら即レギュラー! 良い条件だと思わない?」
「それは、そうだけど……。だいたい真名だって別に卓球したい訳じゃないんでしょ?」
「やっぱ、わかる?」
「わかるよ」景は溜息をつく。
「昔から小さい女の子が好きだったもんね」
「ちょっと、怪しい性癖持ってるみたいに言わないで」私はすかさず訂正する。
「私が好きなのは小さくて『かわいい』女の子。小さけりゃいいってもんじゃないわ」
「十分変態さんだよ……」
あきれ顔の景。
「とにかく、私は卓球部に入って先輩とお近づきになる。あんたはどうする?」
「どうもなにも、どうせもう手遅れなんでしょ?」
「ま、そうだけどね」
私はケラケラと笑う。
さあ、楽しくなってきた!
翌日速攻で入部届を担任に提出し、放課後、私と景は体育館の二階に来ていた。
とりあえず先輩から素振りを教えて貰う。
「まず肘を軽く曲げて、ラケットを台に対して垂直に立てる」
先輩の見本をまねる。
「次にラケットを額、鳩尾、それから最初の位置に持って行く」
ラケットは三角形の執道を描く。
「これが基本のフォアロング。やってみて」
言われたとおりに私と景はラケットを振ってみる。
これ、なんか、マヌケだ、なあ!
そうは思うけど仕方ない。
「声、出してみて。1、2、3って」
「1、2、3!」
声を出す。
より一層マヌケな姿になった。
ちょっと泣きそうになる。
早くも気持ちがくじけそうになってしまった。
でもここで引くわけにはいかない。
「1、2、3……」
隣にいる景は恥ずかしがってろくに声も出ていない。
まあ、こいつにいきなりこれはきついかも。
とりあえず、この羞恥プレイは先輩から私への歪んだ愛情なんだという妄想に耽ってみた。
気持ちが多少は軽くなる。
ああ、私って真性のMなのかも。
私が自分の属性を再認識しているとも知らず、先輩は私たちのスイングの修正点を気づく度に指摘する。
「少し体を前傾して」
「手じゃなくて足でスイングをするような感じで」
「足で生んだ力をそのまま手に伝えるように」
「肩に力が入っている。力を抜いて」
マヌケな素振りも、先輩がいてくれれば快感。
などと、思っていると、
「私はランニングしてくる」
一通り私たちを指導した先輩は、そう言って階段を下りていった。
おいおいおいおいおい!
「なにっ、これ、先輩が、戻ってくるまで、続けとけ、ってこと!?」
ラケットを振っているのでうまく話せない。
「そうじゃ、ないかな、あ?」
景も当惑していた。
「あ~、一気にやる気が失せた~」
体が重くなり、ペースも落ちる。
単なる素振りだけど見た目以上に体力を使っているのだ。
「真名、ちゃんと、やらないと、怒られるよ?」
景は真面目だ。
「そんなこと言ったって、これつまんないじゃん。先輩もいないし~」
すでに気力が絶賛下降中の私は一応素振りを続けてはいるけど、動きは相当緩慢だ。
「完璧な素振りしてれば、戻ってきたとき、先輩、感激するかも?」
景の一言に俄然やる気が復活してきた。
「1、2、3! 1、2、3!」
気合いを入れてラケットを振る。
私ってかなり単純だなぁ。
40分後、先輩が戻ってきた。
なぜか元気な私を怪訝そうな目で見る。
「もういい」
短い一言。
さあ、さあ! お褒めのお言葉はいただけるのかしら!
期待に胸を膨らませる私をよそに、先輩は淡々とメニューを告げる。
「ラケットを持って。これからリフティングをしてもらう」
ふうむ、この程度では褒めては貰えないか。
で、リフティング? サッカーでやるあれのこと?
先輩は自分のラケットを持つと、水平にしてボールを乗せ、放り上げた。
落下してきたボールを再びラケットに当てボールを上げる。
コンコンコンっと小気味いい音がする。
なんだ、簡単そうだ。
早速やってみる。
さっき先輩がやって見せたようにラケットにボールを乗せて投げ上げる。
落ちてきたところにラケットを水平にして当てる。
簡単だ。
それほど難しくはない。
ほれほれ、上手にできますよ~と先輩にアピールしようとしたら、向こうはなんだか落ちてくるボールに回転をかけてやっていた。
やべえ、レベルが違う。
ちらりと景の方を見てみる。
想像通りと言うべきか、ボールのバウンドを極力低くしてやっていた。
「ぬぁーに、ちまちましてんのよ?」
「だ、だってあんまり高く上げると難しいから……」
私たちをよそに、先輩は手首を返して反対のラケット面でもリフティングをしている。
「つまらないだろうけど、これはとても大切な基礎練習」
私の視線に気づいたのか先輩は言った。
「これでラケットにボールを当てる感覚を養う。やってみて分かっただろうけど、安定してボールをバウンドさせるにはラケットの特定の場所を使う必要がある。スイートスポットって呼ばれているんだけど」
先輩は自分のラケットの中央部分を指さす。
「だいたいこのあたり。ラケットによって若干違う」
先輩はいったん言葉を切る。
「慣れてきたらボールを高く上げたり、回転をかけたりするといい」
言い終わると先輩はじっとこちらを見てきた。
やってみろということだろうか。
望むところだ。
私は左手に持ったボールを高く放り上げる。今までの2倍くらいの高さまで上がった。
ボールが落下してくる。
「ていっ」
ラケットにボールを当てると、若干斜めに上がった。
これはいかん、と移動してボールが落下してくるのを待つ。
ボールが落ちてきた。
「おりゃっ」
ラケットに当たったボールはさらにおかしな方向に上がった。
再び移動してボールを打つ。
これ、割と面白いかも。
なんて思っていると、何度目かに移動した時にぼーっと見ていた景にぶつかった。
床に二人とも倒れ込む。
「いったいな~、もう!」景にかみつく。
「ご、ごめん。あ、メガネ、メガネはどこ?」
それなんてお約束? とばかりに床を這い回る景。
ふと先輩の方を見たら、心なしか笑っているようにも見えた。
翌日の放課後。
私たちは先輩から指導を受けている。
「ボールを擦って前進回転をかけて返すのがドライブ」
そう言って先輩は左手に持っていたボールを台にバウンドさせて身をかがめ、右手のラケットを下から上に動かしてボールを擦り上げた。
ボールは放物線を描いて相手コートに入る。
「バウンド直後、あるいは頂点でボールを後ろから弾いて返すのが、頂点打ちとかピッチ打法とか言われてる打ち方」
先輩は再びボールを台にバウンドさせ、今度は水平に近いスイングで打つ。
直線的な軌道でボールは飛んでいった。
「これってどっちの打ち方が良いんですか?」
「どちらが良いという問題ではなく、両方使えるのが望ましい」
私の質問にすかさず答える先輩。
「たとえばドライブはボールに前進回転が掛かるぶん安定するし、放物線で飛んでいくから、ネットを越えればボールは自然に下降してくれる。つまり、相手コートに入りやすい」
先輩はいったん言葉を切り、こちらの様子を窺う。
私は頷いて先を促す。
「けれど、ボールに回転をかけて返すわけだから、力が必要。特に下回転を返すときは」
「あ、力とか、全然自信ないです。箸を持つのも億劫で……」
先輩の冷たい視線。
冗談は通じないっぽい。
「それに加え、ドライブは台上のボールに対しては使いにくい。だから、台上ではピッチ打法、台から下がった位置ではドライブと使い分けた方が良い」
先輩は私を無視してさっさと説明を続けていく。
「ピッチ打法はボールがほぼ直線で飛んでいく。ボールの回転を見極めて、打球時のラケット角度を調整する必要がある。これが結構難しい。少し狂うだけでまともな返球ができない。けど、力が無くても速いボールが打てるっていうメリットがある」
はあ、先輩はかわいいなぁ!
話を半分聞き流し、私は一生懸命(?)話す先輩の姿を愛でていた。
「まずは基本のフォアロングを覚えるのが先決。それができなければドライブも身につけることができない」
「うへー、道は長そうですね」
私は声を上げた。
けど、あのドライブとかいうやつをマスターできれば先輩にも対抗できるかもしれない。
私に敗れ、意気消沈する先輩……。
フフフ……。ゾクゾクしてきた!
帰り道、途中で景と別れ、私は一人農道を走っていた。
私は幽霊とかお化けとか信じる方ではないけれど、青白い街灯にぼんやりと照らされる道を走っていると、すぐ脇から何かが出てきそうで気味が悪い。
「べ、別に怖いわけじゃないんだからね!」
ちょっと、ツンデレっぽく言ってみた。
周囲からは私がペダルをこぐ音以外、何も聞こえない。
嫌な空気。
はあ、と溜息が漏れる。
毎日こんな道を通るなんて憂鬱だ。
民家の灯りも遠く、何かあったってたぶん誰も気づかない。
そうだ、どうせ誰にも聞かれる心配がないなら……。
私は歌った。
流行の女性グループの曲だ。
そんなに好きってわけではないけれど、しょっちゅうあちこちでかかっているせいか、自然に歌詞を覚えていたから。
これで少なくとも無音の中を帰ることもなくなる。
そうやって歌っていると、だんだん気分が乗ってきて声も大きくなっていく。
そのせいか、いつの間にか私の後ろにぴったりくっついて走っている自転車の存在に気づかなかった。
「楽しそうね」
ふいに後ろからそう声をかけられた私は、文字通り飛び上がって驚いた。
「へぐ!」
おかしな悲鳴を上げて振り返ると、ポーカーフェイスの夜見先輩がいた。
「せせせせせ先輩?」
「楽しそうだったから声をかけようか迷ったんだけど……」
「いやいやいや、なにをおっしゃる!」
恥ずかしさで、ついオーバーリアクションで応対してしまう。
「夜見先輩もお帰りですか? あ」
質問してから気づいた。
「そういえば私の町内でバイトされてるんですよね!」
何気ない私の言葉に一瞬先輩の顔が曇る。
「……なんで知ってるの?」
先輩の表情を見て、しまったと思った。でも、もう遅い。
「あ~、いえ、私の母親が阿弥さんに行かれる先輩の姿を見かけまして、てっきりバイトでもされていらっしゃるのかなぁ~、なんて思ったもので」
私は色々墓穴を掘っている気がする。
「……そう」
先輩はそう言うと黙り込んでしまった。
やばい。
これはやばい。
そうだよなぁ。誰にだって触れられたくないことってあるんだよ。
バカバカッ 私のバカ~!!
どうフォローしたものか逡巡していると、
「ごめん、先に行く」
と、先輩は私に声をかけると立ちこぎで抜いて行った。
ぐんぐん引き離され、小さくなっていく先輩の小さな後ろ姿を見つめる。
はぁ、しくじったなぁ……。
後悔しても、もう遅い。
まあ、明日会ったときに何かうまいこと言ってごまかしとこう!
そう思った。
正直なところ、放課後先輩に会うのは気が重かった。
昨日は何とかなるやと気軽に考えていたけれど、いざ放課後になると、どう言い繕ったものか思いつかなかったのだ。
景に相談したところ、
「隠れてバイトしてる子って何人かいるし、そんなに気にしなくても良いんじゃないかな」
なんて言われた。
確かに普通の子が相手だったら私もそんなに気を使ったりしない。
問題は相手が夜見先輩だということ。
金欲しさにこっそりバイトしているような輩と先輩とは違うような気がしてならないのだ。
悩んでいても時間は過ぎる。
放課後になり、私と景は体育館へと行く。
先輩の姿はなく、私たちは適当に準備体操を始める。
「あー、先輩が来たらなんて言おう?」
足首を回しながら私は景に尋ねた。
「まだ考えてたの? 誰にも言いませんからって言っておけばいいんじゃない?」
「いやぁ、すでにあんたに話してるし」
「そういえばそうか。でも、気にしすぎだよ。バイトしてる子なんて他にもいるんだから」
「あんたね、そんな無責任なこと言って、私が先輩に嫌われたらどうするつもり?」
景に詰め寄る。
「どうもなにも、私には関係ない話だし」
「あんた……、どうやら再教育の必要がありそうね」
そう言いつつ、素早く景の背後に回る。
「ちょ、やだ!」
身をよじって逃げようとする景を抱きすくめ、そして、胸部を揉みしだく!
「ぎゃあ!!」
悲鳴を上げようが関係ない。
ひたすら揉み続ける。
「オラオラ! ここか! ここがええのんか!」
ヲヤジモードに切り替わった私にはもうなにも聞こえない。
「おうおう! 姉ちゃん!! ええチチしとるやないけ!! って、ちょっと、マジでかくない?」
大きさを確かめるようにゆっくりと入念に触ってみる。
Tシャツごしとはいえ、結構なボリューム。
「あんた、いつの間にこんな……。まだ中学生なのよ?」
私は呆然と立ちつくす。
「なんなのよ! その問題児を諭す母親みたいな台詞は!」
身をよじって私の拘束を振りほどくと景は怒鳴った。
ううむ、これは私もうかうかしてらんないな!
決意を新たにしていると、
「練習を始めます」
突然後ろから声が聞こえた。
驚いて飛び退る私と景。
先輩がちょこんと立っていた。
「ちょ、先輩! 毎回驚かさないでくださいよぉ!」
「……別に驚かせるつもりはなかったけど……」
表情も変えず夜見先輩はそう言い、ボールを私に手渡してきた。なんだか少し怒っているように見える。
「なんですか?」
「準備運動は終わっているようだから、今から二人で試合してみて」
「え?」
声を上げる私たち。
「ちょーっと待ってくださいよ。私らつい先日入部したばっかりのド素人ですよ?」
「二人とも素人だから問題ない。勝敗は関係ない。ルールとか試合の流れが分かればいい」
ううーん。そういうものか? けどまあ相手が景なら負ける気はしないけどね。
「景、どうやら決着を付けるときが来たようね」
景の方を向き、ふふん、と挑発する。
「私が勝ったあかつきには、そのけしからん胸を思う存分揉みしだかせてもらおうかしら!」
「じゃあ、じゃあ私が勝ったら、くくく、靴を舐めてもらうから!」
負けずに景は言い返してきた。おのれ、こしゃくな!
「賭けはダメ」
いつの間にかスコアボードを持ってきた先輩の冷静なツッコミが入り、お馬鹿な会話は終了。
「一試合、十一点勝負。それを七試合する。先に四試合取った方の勝ち」
先輩の淡々とした説明。
「じゃんけんして」
言われたとおりに景とじゃんけんする。景の勝ち。
「サーブとレシーブ、どっちがいい?」
先輩にそう尋ねられた景は、
「え、と。レシーブが良いです」と自信なさげに答えた。
「じゃあサーブはあなたから」
「は~い」
可愛らしく返事してみる。が、スルーされた。
「ラブオール」
無感情な先輩の声。
意味は分からないけど、どうやら試合開始の合図らしい。
「フフフ、覚悟しなさい」
景を軽く威嚇し、サーブを出す。ちょっと強めに。
しかし景はいとも簡単に返球してきた。小癪な!
「ていっ」
思いっきりラケットを振る。
ボールはかなりのスピードで台を大きく越えて行ってしまった。
やっぱ短気はダメだ。ちゃんと入れていかないと。
気を取り直して再びサーブ。今度は下回転をかけてみた。
やはり容易く返されてしまう。けど今回は慎重にボールを景の利き腕とは反対側に返す。
これで強打されない。
と、思いきや、景はラケットを体に引きつけると、そのまま腕を素早く伸ばし、ボールを弾いた。
「くっ」
反応できない。ボールは私の利き腕側深くに鋭くバウンドし、後方に飛んでいく。
「ちょっとぉ! 何なの今の技!」
明らかに素人の打てる球じゃない。
「えへへ、プッシュって言うんだって」
景が先輩の方をちらちら見る。
この二人……まさか結託している!?
「サーブは二本交代。次は月森さん」
あ! 今、なにげに名字で呼んだ!
こいつぁ間違いないわ。面白い。やってやろうじゃないの!
闘志が湧いてくる。
「いくよー」
暢気な景のかけ声。いまにヒーヒー言わせてあげるから見てなさい!
景はボールを投げ上げるとボールを擦った。
え?
意表を突かれ、私はたじろいだ。
でも、とにかく返さないと!
が、ラケットに当たった瞬間、ボールは右側に大きく飛んでいった。
「なんなの、そのサーブ! なんか回転かけたでしょ!」
私の抗議に景は曖昧な笑みを浮かべる。
これはまずい。私は思った。
こっちがサーブ権を握っているときはまだ何とかなりそうな雰囲気だけど、向こうのサーブは、たぶんまともに返せない。それくらいレベルの差がある。
どういう訳か知らないけど、私の関知しないところで景は先輩から技術的な指導を私以上に受けているようだ。
となると、この勝負、かなり分が悪い。
案の定、私はその後失点を重ね、あっけなく1ゲーム取られてしまった。
「コート、代わって」
先輩が指でコートチェンジを促す。
第2ゲームが始まった。
が、やはり劣勢を覆すのは難しい。
サーブはことごとく変な回転をかけてくるし、こちらが少しでも甘い球を返せば強打される。なんとか一発逆転を狙って思いっきり打ってみるけど、そのほとんどが台から大きく外れてしまう。
まさに、打つ手が無い。
こうなったら!
私は覚悟を決めた。
とにかくボールを拾いまくるしかない。
相手が強打しようが関係ない。食らいついて全部拾ってやる。
こういう泥臭い戦法は好きじゃないけど、仕方ない。
私は少し後ろに下がった。景からのボールの勢いが落ちる分、たぶんこの方が良いはずだ。
景のサーブ。やはり変な回転をかけてくる。
どんな回転だろうがみんな強打してやればいい。どうせまともにやっても返せない。だったら一か八か強打して、入ればそれで良いし、外れても、相手がビビればそれでいい。
自陣にボールがバウンドしてからできるだけ待つ。その方が回転量が落ちるからだ。
回転が弱まったところを見計らって強打!
ボールはネットにかかった。
なかなか思惑通りにはいかない。
でもこちらの迫力に景は少し怯えているようだ。ピンポン球とは言っても思いっきり振ったボールが素肌に当たれば相当痛いし。
こちらがサーブの時は極力コースを毎回変えるようにする。
私は回転のかけ方はまだ教わっていないから、毎回同じコースにサーブしていれば景も慣れてしまう。せめてコースや長短は変えないと対抗できない。
そんなこんなで何とか粘ったものの、所詮付け焼き刃。
八対十一でこのゲームも取られてしまった。
頭では作戦を思いつくけど、それを実行するのは難しいものだ。
結局そのまま一ゲームも取れないまま景に負けてしまった。
「ぐぐぐ、悔しい……」
四つんばいで意気消沈している私を見て、景がおろおろしている。
まあ演技なんだけどね。
「たぶんよく分かったと思うけど、卓球では身体能力の差は勝負にさほど影響しない」
顔を上げると、先輩が仁王立ちしていた(ように見えた)。
「あなたは確かに月森さんよりも身体能力は上。でも、その差は技術でカバーすることが十分可能」
この人には私の演技は通用しないようだ。
「月森さんのことを見くびっていたようだけど、反省した方が良い」
なんだか今日の先輩は厳しい。
「あの、先輩何か怒ってます?」率直に聞いてみた。
「怒ってなんかいない。ただあなたが月森さんを虐めていたから……」
「虐める? なんのことです?」
「虐めていたじゃない。練習を始める前に……」
ああ、あの乳揉みのことかぁ。
「先輩先輩。誤解です誤解。あれはですね、私流のスキンシップなのですよ。愛情表現です」
「ずいぶんと歪んでるけどね」景のツッコミが入る。
「誤解? そうなの?」先輩が景の方を向き、確認する。
「ま、そういうことにしておきます。と言うか、いつものことですから」
景は笑ってそう言った。
すると先輩は、不思議そうに私たち二人を眺めていたのだった。
いつもは先輩一人で更衣室の鍵を閉めて帰るんだけど、今日は三人で帰ることにした。
先輩はどうやらこういうのに慣れていないらしく、私と景の後ろを微妙な距離でついてきていた。
「先輩って怒ると怖いんですね~」
後ろを振り向き、からかうように私は言った。
一瞬むっとした表情を見せる先輩。
「そういうあなたは同性愛のケがあるようね」
おおう! 逆襲された。
「愛情表現です、あ・い・じょ・う・ひょ・う・げ・ん! そのうち先輩にもしますから覚悟しといてください」
先輩は私の言葉に身震いした(ように見えた)。
「気をつけてください、夜見先輩。真名は本気で狙ってますから」
景が余計なことを言う。
「あんた、これ以上出しゃばるともっとすごいことするよ?」
「きゃーこわーい」棒読みの景。
灯りもまばらな帰路を私たちは走っている。
この季節特有の、どこか寒さの残る暖かい空気を感じる。
暗くて、家の灯りもなくて、急な登り坂や危ない橋もあるけど、こうして三人でいたら、そういったものも悪くないように思えてくる。
先輩が卒業するまで、一緒に部活やって、こうやって馬鹿馬鹿しいこと話しながら帰って。
それはそれでいいんじゃないかなと思う。
先ほどの会話を最後に、私たちは口数も少なく黙々と自転車を漕ぎ続け、途中で景と別れる。
先輩と二人になった。
ちょっとばかり気まずかったけど、私は思い切って口を開いた。
「あの、昨日は無神経なこと聞いてすいませんでした」
「?」
先輩はきょとんとしている。
「その、昨日の帰りに話したことです。バイトの……」
ああ、と先輩は納得したような顔をした。
「別に気にしてない。バイトのことは学校から許可も貰っているし。人に知られても別に問題じゃない。ただ……」
先輩はそこで少し考え込んだ。
「ただ、いろいろと家庭の事情があって、それはあんまり触れられたくないかもしれない」
暗くてよく分からないけれど、声の調子から先輩の気持ちが沈んでいることは分かった。
「誰にも言いませんし、別に詮索するつもりもないですからっ」
できるだけ明るい調子で声を出す。
「うん」
先輩はそう言うと黙ってしまった。
しばらく無言で走っていると、不意に先輩が口を開いた。
「正直に言うと、あなたたちはすぐに辞めると思ってた」
「ええ?」
「卓球って、あんまりイメージも良くないし、部員は一人だし、私はこんなだし、練習する場所だって良いとは言えない。私だって何度か辞めようと思ったし」
衝撃の告白!
「ちょーっと待ってくださいよ! 今辞められたら困ります!」
あわてる私の声に先輩はクスッと笑った。
あ、この人初めて私の前でまともに笑ったかも。くそ! 明るいところで見たかったな。
「今は、あなたたちがいるから辞めるつもりはない」
歯がみする私に気づく様子もなく、先輩はそう続けた。
「それに部活動で良い成績取って、推薦貰いたいし」
「推薦?」
「スポーツ推薦のこと。成績次第では寮費も学費も無料になるから」
「へぇ~、先輩、学力の方ではどうなんですか?」
ちょっと意地悪な質問をしてみる。
「学力で推薦を狙うのはかなり難しい」
はっきりした答えだ。
「塾に通って勉強しているような人にはかなわない。だから部活」
「ふ~ん。って、それじゃあ私たちが練習相手ってまずくないですか? もっと強い人と練習しないと」
「問題ない。あなたたちが強くなってくれれば」
ずいぶん無理なことを言ってきた。
「それにあなたたちが入部する前は中央高校に練習しに行ってた。これからは三人で行きましょう」
「げ! 高校生とやるんですか!?」
「そうだけど」
何か問題が?、と言いたげな先輩。
この人、私らが初心者だって分かってるのかなぁ?
「それから、来月は練習試合するから。そのつもりで」
そう言って先輩はニヤリと笑った。
暗がりでもはっきりと分かった。
なんかこの人、意外にアグレッシブな人じゃない?
最初見たときはおとなしそうな、吹けば飛ぶような薄幸の美少女っぽかったのに。
けど。
これはこれでまた良し!
思わず口元が緩む。
これからたくさん練習して強くなって、部員も増やして、大会で良い成績残して、先輩を推薦で高校に行かせることができたら、先輩のハートをゲット……できるだろうか?
まだスタート地点にさえ立っていないかもしれないけれど、先輩と一緒なら何でもできそうな気がする。
「見ててください。きっと勝ちますから」
精一杯力を込めた私の言葉に先輩は、ふ、と息を吐き出し、静かに、けれども楽しそうな声色で言った。
「少しは期待してる……かも」