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夕暮れを覆い隠す暗雲は、やがて雨を降らし始めた。春の嵐とでも言おうか、強い風と共に豪雨が地面を叩いている。帰宅ラッシュも重なり、街には色とりどりの傘が溢れかえっていた。
帰宅を急ぐ人々を避け、水仙は路地裏を走る。既にジャケットはおろか、ショートパンツも濡れそぼっていた。しかし、少女の足は止まるどころか更に加速する。行き先は最初に襲撃した事務所。
水仙は走る。突き当たりを曲がり、歩道を飛び越え、狭い路地を往く。道なき道を走破し、ヒトを寄せ付けない闇へ躊躇なく踏み込んだ。
闇に染まった路地裏。警察の手でも入ったのか、目の前の事務所には黄色い立ち入り禁止のテープが張り巡らされていた。
「チッ…!」
苛立ち任せに壁に靴底で蹴りを入れながら、忌々しげに舌打つ。適切な後処理をしたのだろうが、事務所内部に警察が立ち入ったのなら欲しい情報はない可能性が高い。それでも捜索してみるのも手ではあるが、時間の無駄だろう。今は時間が惜しい。既に電話を受けてから三十分が経過しようとしていた。
(どうする。考えろ。どうしたらいい!)
苛立ちと焦りで思考が空転する。以前依頼人に教えて貰った事務所を全て襲撃するか?いや、美影を監禁している事務所をピンポイントに見つけ出せなければ面倒事が増える。ハズレだった場合、最悪美影の命がなくなる。
「クソ………っ!」
思考は堂々巡りを繰り返すだけ。単独行動しか出来ない水仙に、ヒトで溢れかえった街の中から特定の一人を見つけ出す事は不可能に思えた。
ならば、と携帯を取り出し、依頼人にコール。しかし、願いは届かない。聞こえて来るのは、不在を知らせるメッセージだけ。幾度も、幾度も繰り返す。しかし、結果は変わらない。
携帯が手から滑り落ちる。
あ、と零れた声と共に、水仙の中の何かも零れ落ちた。
「―――――」
天を仰ぐ。土砂降りの雨。春先の冷たい雨が、少女の全身を打ちのめす。膝の力が、呆気なく抜けてしまった。冷たい地面に座り込みながら、水仙は己の無力を痛感する。
自分に関わるモノは全員死ぬのか。
やはりこの手は殺す事しか出来ないのか。
幻想は幻想に過ぎないと言うのか。
価値を認めなければ良かったのか。
そもそもヒトに関わった事がいけなかったのか。
何て滑稽で、無様。
結局のところ、柳水仙は、柳水仙でしかないということか。
「――――ぅ」
惨め過ぎて笑い死にしそうだ。喉の奥が何かに引っかかるように痙攣して、上手く笑えない。もういっそのこと、殺して欲しい。ああ、このまま倒れれば、死ねるだろうか。
「………?」
ゆっくりと死を受け入れようとしていた水仙の耳に、コール音が届いた。豪雨がアスファルトを叩く音色に混じって、機械的なサウンドが響き渡る。
のろのろとした動作のまま、携帯を拾い上げた。
何故それを取ろうと思ったのか。
わからないまま、通話ボタンを押す。
「―――――助けて。あの子を、助けて…」
我知らず、勝手に口が動いた。通話先が誰かもわからないまま、水仙は溢れ出した感情をそのままぶちまけた。
「私は死んでもいいから! 喜んで命を差し出すから!! あの子を助けてよ!!!」
怒声とも、慟哭とも取れる叫び。
そこに居るのは、世を無価値と嘲笑う柳水仙ではなく、ただただ友を想う少女。
身代りになれるのであれば、自分の身を差し出そう。
この身一つで美影が救えるのならば。
無価値な命が、価値ある命を救えるのならば。
悪魔とだって契約してやる。
『――――良いだろう。此処に契約は成立した。柳水仙、今からキミは私のモノだ』
地獄の底から響く天上の音色。果たして契約したのは天使か悪魔か。
声の主、アレクシア・ド・ヴィルパンは、抑え切れぬ愉悦を載せながらくつくつと喉の奥を震わせる。
『大体の状況はこちらでも把握している。連中が向かった先も特定済だ。今現在キミが居る地点から………そうだな、五時の方向へ一マイルと言ったところか』
愉しげな含み笑いは取れる事がない。電話をしながらキーボードでも叩いているのか、タイプ音が漏れ聞こえてくる。
『走れないとは言わないだろう? 我々に任せるだけでは柳水仙とは言えない。己の牙をもって、罪人共を喰い千切れ』
美麗な音色はしかし、容赦なく水仙を叱咤する。
立ち上がれ、そして敵を殺せ。
情け容赦なく断罪せよ。
貴様の価値を見せてみろ。
悪辣とも言える命令だが、水仙の心臓に火が入る。目と鼻の先に目的地があるのはわかった。それならば、自分でカタをつけてやる。
救えるのなら、無価値なモノが価値ある美影を救う事が出来るのなら。
水仙は走り出した。最早用のない携帯をショートパンツのポケットに突っ込み、美影の元へと全速力で駆け抜ける。
携帯を閉じる前、アレクシアが呟いた言葉がやけに耳に残った。
『ようこそ、死神。生と死を平等に仕訳けてくれたまえ』




