Ep.1『奇跡か、あるいは、不変か』
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圧倒的な質量が正面衝突した瞬間から、俺の意識は強烈なノイズと共に暗転している。
痛みはない。ただ自分という存在を構成していた物理的な器が修復不可能なレベルで粉砕されたという冷徹な事実だけが、脳裏に何度も木霊し続けている。
暗闇の中で無秩序な情報達が明滅する。終わりの見えないデバッグ作業、エナジードリンクの人工的な甘み、納期を叫ぶ上層部の怒声、そしてあの瞬間アスファルトに転がって擦りむく痛みと引き換えに一生を得た小さな子供の感触。
それらの記憶がまるでバグったモニターに映し出される走馬灯のように、脈絡もなく浮かんでは消えていく。
俺はその無機質なデータの羅列を、ひどく客観的な視点で見つめていた。実際にこうして体験してみれば、その現象は世界中で語られるような大仰なものではないらしい。神や仏といった上位存在が迎えに来るようなオカルトなど存在せず、ただ社会という巨大な機械のさらに底、世界という根源に組み込まれた一つの歯車が、ただ物理法則に従って機能を停止する。それだけの話なのだ。
きっと神や仏が至った解脱とやらも所詮この程度かなどと、酷く捻くれて人の道をそれたような達観や安堵と共に、俺の意識は完全な無へと溶け落ちていく。
……はずだった。
(……え?)
溶け落ちていこうとしていたはずの意識が、完全な無に至らぬままに留まっている。生の世界ではないが完全な死では無いと思われる状態、感触から察して例えるなら雪山に生じたクレバス、あるいは単に岩と岩の間、そこに体が引っかかったかのような感触。進みも戻りもしない何とも奇妙な場所で自分が動けなくなっている事は疑いようがなかった。
その刹那、消滅しかけていた俺の意識は突如何者かに押し出されるように、未知の領域へ進路を捻じ曲げられた感覚に襲われる。
(な、なんだ? どこに送られ……っ!?)
拒絶する間もなしに莫大な情報量の奔流が流れ込んでくる。先ほどまでの溶け落ちていく感触とは真逆、かつて自らが幼かった頃に叩き込まれた知識という文字達が否応なしで口から流し込まれていく。その様はかつて自らの意思など関係なしに、顔と名前すら欠け落ちた誰かに足蹴で水底に溺れさせられたあの日と似る。肺の中で渦巻くのは痛みよりも肉と肉を裂くような熱、腹の底からこみ上げる苦痛。
間違いなく俺は今、自分自身が『何か』に押し込められている。
天国だのなんだのじゃない、明らかにそれと異なる苦痛。
よりにもよって……今まで体感した痛みの歴史を詰めこまれている!
ただ何もなくなって休めるはずだったのに……何が起きた。
クソッ、いくらなんでも地獄行きになるような罪を重ねた覚えはない!!
息が出来ない、痛い、熱い、何も……見えない。先ほどまでの安堵感はどこへやら、気が付けば俺は無我夢中で虚空を無くなったはずの手でかいていた。水泳なんて高尚な技術の話ではない、泳ぐことが出来ない虫が池に落ちて足掻くあのちっぽけな姿のように。どこかにここの出口は、この感覚が解消される場所は無いのかと、無意識のうちに道を探していたことに俺は全く気づかない。
ただ休ませてくれ……! もう、十分すぎるほどすり減っただろう……!?
意識の奥底で俺は聲なき悲鳴を上げていた。だがこの得体の知れない泥沼のような空間は俺の停止命令を一切受け付けない、それどころか四肢をもがく俺をさらに深く、狭く、そして生温かい暗闇の奥底へと力任せに引きずり込んだ。
やがて力任せに押し潰すような圧迫感は、文字通り『肉体』の限界を超えた。生臭い水の感触、頭蓋骨がギシギシと軋むような収縮。まるで自らがつい先ほどまで保持していた体が、子供がこね回して遊ぶ粘土のように有耶無耶とした状態に無理やり作り替えられていくようだ。
さらには肺に溜まっていた泥水のような何かが、強烈な圧力によって気管から絞り出される。同時に、今まで感じなかった冷たい空気が、先ほどのむせかえるような匂いがする水と入れ替わるようにして狂騒状態の肺へと暴力的に流れ込んでくる。
ズン、と。全身の神経回路に高圧電流が流れたような痛みが走った。
暗闇が晴れ、ぼやけた光が網膜を灼く。
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「――――ッ!」
そして自分の意思とは全く無関係に、自らの鼓膜も劈くような甲高い泣き声が出力された。
(は……? なんだ、今の音は。俺の声か?)
状況を把握しようと視覚情報を処理しようとする……視界の解像度は異常に低く、思考と合わせた全てがすりガラス越しのようにぼやけて見えている。
首を動かそうとしても、まるで首の骨が備わっていないかのように全く持ち上がらない。手足の感覚もひどく鈍く、指一本動かすのにも多大な遅延が発生している。
「――、――――!」
頭上から、巨大な影が覗き込んできた。何か言葉を発しているようだが、言語の規格が違うのか俺の脳には全く意味を成さない音声ノイズとしてしか認識できなくなっている。
(……落ち着け。まずは現状の不具合を洗い出せ)
混乱とぼやけを同時に生じる思考を無理やり抑え込み、ゆっくりと、されど確実に、何度も同じ道を通りつつ己の異常な状態を論理的に分析しようと試みる。極端に低い視力、未発達な運動機能、そして……まるで初めて触った時のパソコンかのように全く制御の利かない発声と一人称視点の思考。
弾き出された結論はあまりにも荒唐無稽な事実だった。
(……『赤ん坊』になってる、のか?)
信じがたい事態だ。だが、この圧倒的なスペック不足の肉体はその仮説を何重にも裏付けている。
大人としての論理的思考はこの極小の容量しかない脳のキャパシティに収まりきっておらず、今の思考一つに辿り着くだけでも常に処理落ちやフリーズを起こしている。さらに最悪なことに、この新しい肉体は、俺の理性的な判断を無視して、次々と強権的な割り込み処理をかけてくる。
(くそっ、なんだこの猛烈な眠気は。まだ周囲の環境データを何も収集できていないのに……!)
大人としての自我としては全力で目を見開いて耳を尖らせて情報収集を行いたいのに、赤ん坊の脆弱な肉体は「睡眠」という生命維持の絶対的タスクと安心が確保されたことによる「無意識的な感情の出力」を最優先で実行しようとする。抗う術もなく、彼の意識は再び深い泥のような休止状態へと強制的に引きずり込まれていった。
(マジか、初期状態から人生をやり直せってことなのか……)
薄れゆく意識の中で、俺は突然自分に押し付けられた理不尽なセットアップに一人で悪態をつく。ただ強いて言えば……
不思議と何も考えず、そして久しぶりに、引きずられた感情の影響もあって心の底から休めたことは疑いようのない事実という事か。
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……そしてあれから、およそ三年という月日が流れる。
時とその場の感触を追うだけで精いっぱいになるほどに極小だった脳の容量と体力がゆっくりと拡張され、同時にようやく俺の意識も「幼児」という物理的な器に定着し始めている。
「……ん、あ」
声帯から出力される一人称は、自然と『僕』になっていた。大人の『俺』としての論理的思考は奥底に健在だが、それを包み込む表層の処理が三歳児の肉体に強く引っ張られているのだ。かつてのように、頭の中で前世の難解な言葉や専門用語を乱用して皮肉を並べることも少なくなっている。未発達な脳のスペックであの頃のまま思考を連ねようとすれば、言語の変換に多大な労力を消費してしまうのだ。
(まあ……いい。この同期ズレは肉体が成長すればそのうち戻るはず)
俺は自分であって自分ではない『レキ』という幼児の思考を、一段高い場所から俯瞰して再構築するような、奇妙な二重生活をすんなりと受け入れていた。焦りはない。前世のデスマーチに比べれば、ただ食べて寝て時折遊ぶことだけが主軸となる待機状態など天国のようなものだ。
周囲の環境の解析は、家の中を歩き回れるようになった頃には粗方終わっていた。土間。隙間風の入る木の壁。光源は暖炉の火と、獣脂の匂いがするランプ。そして……果てしなく広がっている世界はまるで中世から産業革命の境界線にいるかのようだ。
ここは前世のようなインフラが一切存在しない物理的な後進国だ。電気もガスも水道もなく、その多くが人間の労働力で賄われている、泥臭くも未来があるであろう世界。そして僕が転生したこの場所は、その世界の中でも決して裕福とは言えない平民層の小さな家だった。
ギシ、と安っぽい木の扉が開く音がした。
「レキ、起きてるかい?」
日焼けした顔に、土と汗の匂いを染み込ませる大男。そして、その後ろから顔を覗かせる、働き者のひび割れた手をした優しい目つきの女性。
……僕の、この世界での両親だ。
「うん、おきてる!」
舌足らずな発声でそう答えると、二人は心底ホッと安堵したように目尻を下げた。
彼らは毎日、日が昇る前から泥まみれになって物理労働をこなして日銭と食料を稼いでいる。前世の言葉で言えば末端の労働リソース……あの時の俺と同じような、社会というシステムを支える歯車だ。
「今日は少しだけお肉と豆が入ったスープよ。いっぱいお食べ、レキ」
母親が、木をくり抜いた器を僕の前にコトリと置いた。器の中には、塩気のある汁に野菜と豆……そして親指ほどの小さな干し肉がいくつか沈んでいる。決して豪華ではないが、冷えた体を温めるには十分すぎるご馳走だ。
だが、少し離れた場所に置かれた両親の器をちらと盗み見ると、そこには野菜の切れ端と固い黒パンしか入っておらず、明らかにこちらの器にあるような「肉」という高タンパクなリソースが欠落していた。
(……非効率だ、本来なら明日の労働力である大人に優先して高カロリーな燃料を回すべきだろう。現時点では生産性もない三歳の子供にここまで貴重な栄養を全振りするのは、生存戦略として間違っているのではないか)
大人の『俺』の冷徹なロジックは、眼前に広がっている矛盾を解析して瞬時にその答えを弾き出す。前世のマネージャーなら「稼働しないプロセスにコストをかけるなどあり得ない」と一蹴しただろう。社会とは、価値を生み出す者にしか対価を払わない機械であったのだから。
だが、目の前の二人は、自分たちの身体をすり減らしてでも、この小さな肉体を生かそうとしている。父親の無骨でひび割れた手が、僕の頭を不器用に、けれどひどく優しく撫でた。
――温かい。
それは前世で一度も与えられなかった、一切の損得勘定が存在しない無条件の愛情という名のバグだった。
「……ありがとう、かーさん、とーさん」
刹那、レキから零れ落ちた笑顔とは別に少しだけ視界が滲んだような気がした。単に三歳児としての未熟なハードウェアが起こした生理現象ではあるのだが、『俺』自身の感情に添加された事実がふと自らの過去を想起させる。
涙の雫が頬を伝い落ちることはない、大人の『俺』としての理性が未熟な反射を無意識で抑え込んだからだ。しかしそれでも、脳裏にフラッシュバックしてくる景色を止めることはできない。
思い出すのは、欠落するどころか、恐ろしく鮮明に俺の脳に焼き付いたかつての過去。前世の俺は両親にとって愛すべき子供ではなく、『投資案件』だった。
無駄な娯楽を排除して塾に通わせ、常に優秀な成績と結果を要求する……彼らが俺に向けたのは、「良い評価を得た時」だけ与えられる条件付きの報酬である。
生きているだけで注がれるような無条件の愛情など1ミリも感じたことが……いや、思惑を俺が拾い上げられなかっただけかもしれない。
だから俺は、期待に応えられない自分を出来損ないと信じ込み、社会の歯車として自分をすり減らすことに何の疑問も抱かずに死んだ。
「……」
――ズキズキと胸が痛む。
もしも前世で、こんな真っ直ぐに俺という存在をただ見てくれる誰かがいたのなら、結末は少し違っていたのだろうか。
「……キ」
「……」
思考が渦巻く。無意味だとわかっているのに――
「……レキ」
「へっ?」
ふいに、頭上から降ってきた少し焦ったような声に、俺の意識は強引に思考の海から引き揚げられた。
ハッとして顔を上げると大男の父親がオロオロと困り果てた顔で僕を覗き込み、母親は心配そうに背中をさすってくれている。どうやら、スープを見つめたまま完全にフリーズしていたのを見て、何か具合でも悪くなったのだと勘違いさせてしまったらしい。
「どうしたレキ、大丈夫か?」
「熱はなさそうだけど、どこか痛いところがあるのかしら……」
そのひどく人間臭い不器用な反応に、冷たく凍りつく思考の渦は急速に奥底へとフェードアウトしていく。
そうだ、この二人はレキとなった僕が「正しい回答」を出せないから心配しているわけではない。ただ、目の前にいる僕という存在が無条件に大切だから心配している。
「ううん。ちがうよ、とーさん、かーさん」
僕は舌足らずな声と共に、精一杯の笑顔を作る。胸の奥でズキズキと痛んでいた傷跡を温かいスープの湯気で誤魔化しながら。
「スープ、とってもおいしそうだから……びっくりしちゃったの!」
「……ははっ! そうかそうか、そりゃあ母さんのスープは世界一だからな! 冷めないうちにいっぱい食え!」
父親が豪快に笑い、母親も「あんたねぇ……」なんて呆れたように顔を微かに覆った。
……薄暗くて、隙間風が吹いていて、明日食べるものにも困るような家。けれど、前世の環境では手に入らなかった『絶対の安心』が、ここにはある。
(焦る必要は、ないか)
木のスプーンを不器用に握りしめながら、大人の『俺』は静かに息を吐き出した。
この世界がどんな場所で、これから先どう生きていくべきか。そんな重たい演算は、今はまだ回さなくていい。
温かいスープを飲み干して、両親の隣で泥のように眠り、また明日を迎える。ただそれだけの当たり前の日常が、今はひどく愛おしく、そして心地よかった。
……とはいえ。
根っからのシステムエンジニアとしての性分だろうか。思考を停止して保護されるだけの存在でいつづけることは、奥底にいる『俺』が許さないらしい。
温かい日常を与えてくれる以上、いつまでもセーフモードでいるわけにもいかない。最低限の周囲の環境――この世界の常識や、言葉くらいは把握しておくべきだろう。
ベッド代わりの粗末な藁束に身を横たえながら、小さく欠伸を噛み殺す。
焦る必要はないが、少しずつ手探りでこの世界の仕様を紐解いていく準備は始めよう。まずは、たまに外に出た時に見かける、看板に描かれたあの文字の解析からだ。
(……とりあえず、今日はもう寝よう。でも明日からは――少しだけ、やることができたな)
仕事終わりの食事を終えた父親の無骨な寝息と、母親の穏やかな体温に挟まれながら。新しい世界での最初の一歩を予約して、静かに僕の意識の電源を落とした。




