Ep.0『特別、なんかじゃない』
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午前七時。鼓膜を突き刺す無機質なアラーム音で俺の意識は強制的に起動させられた。鉛のように重い瞼を開いて、ひびが走ったスマートフォンの画面をスワイプしてアラームを切る……寝違えたのかはたまた水分不足だろうか、関節が鈍く軋んでいる気配がする。あぁ、それもそのはずだ。胃の奥には昨日流し込んだエナジードリンクと栄養ドリンクの人工的な甘味がヘドロのようにまとわりついているのだから。
「……だりぃ」
独り言を呟きながら、ベッドから這い出す。
温度の安定しないシャワーで無理やり交感神経を叩き起こして、一切の衣服を廃してシワの寄ったスーツに腕を通す……靴下に足を通すと足裏に穴が開いている気配がしたが所詮は些事。そんな中で鏡に映った自分の姿は、目の下にどす黒い隈を飼い慣らした三十手前のシステムエンジニア――いや、そんな大層で知的な名分はそこにはない。そいつはまさにこの巨大な社会という機械に組み込まれた、使い捨ての歯車だった。
アパートを出て駅へと向かう、ぽつぽつと人の顔を見るが……学生でもない限りその顔にパッと灯るような生気はない。何なら、さっきすれ違った学生はどこか自らの環境に嫌気が差したかのように沈んだ顔をしていた。
朝の通勤電車はさながら、掃除する事も忘れられた配線の様相を示す。規格外の密度で押し込まれたサラリーマンたちは、互いの体温と不快感を擦り付け合いながらただ無言で運ばれていく。パーソナルスペースなどという概念は物理的に圧殺され、誰もがスマートフォンの小さな画面に逃避することでどうにか自我の崩壊を防いでいる。
俺もまたそのバグだらけの配線網の一部として、ただ息を殺してオフィスビルという名のサーバー群へと送られるのを待つ。
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出社した時刻は、実に午前九時。出社直後のミーティングで俺たち開発チームの末端に突きつけられたのは、絶望的なまでの無理を生じた「仕様書」だった。
「……マネージャー。この仕様、根本的に破綻しています。データベースの連携やデバッグ期間、追加実装に係る費用も考慮されていませんし、何よりこの納期で実装しろというのは物理的に不可能ではありませんか。」
俺の(おそらくは)至極真っ当な指摘に対し、上座にふんぞり返ったプロジェクトマネージャーはまるで出来の悪い機械を見るような目で鼻で笑った。
「あのねぇ……これは『顧客からの要望』なんだよ。現場の理屈で仕様にケチをつけるのが君たちの仕事じゃないし、営業の人間がどうにか漕ぎつけてくれた大型案件だぞ? いいから、この通りに動くように『なんとか』したまえよ。」
――――なんとか、しろ。
その言葉の裏にあるのは、「お前たちの睡眠時間と寿命を削って、営業の人間が出来ますなどとのたまって勝ち取ったとほざいたこのクソ矛盾を覆い隠せ」という絶対の命令だ。
彼らも、目の前のマネージャーも、プログラムの構造はおろか現場の人間がどれほど血を吐いているかなど一切見ていないのだろう。ただ「完成した画面」さえ自分たちの思い通りに動いて、信頼を伴う金になりさえすればそれでいいのだ。
「……承知しました。」
反論するだけ無駄だ。俺にはこの会社のシステムを根本から書き換える『管理者権限』なんて与えられていないし、今後与えられる可能性は……ゼロに等しいだろう。今できるのは与えられた理不尽な仕様の中で、自らの肉体というハードウェアを限界まで酷使して最悪のバグを一つずつ物理的に潰していくことだけ。
自席に戻りモニターの電源を入れ、黒い画面に無数のコードを滝のように流し始める。ここから先は、終わりの見えない実装とデバッグのループ。俺は傍らに置いたメガボトルのブラックコーヒーを開け、カフェインという名の劇薬を血管に流し込みながら幾度となくキーボードへ指を這わせた。
……今日という日が日を跨ぎ、明日になっても終わらないことを、この無駄に回る頭の計算がとうに弾き出していた。
窓の外に見える無機質なビルの隙間で沈む夕陽が、ブラインド越しに鮮やかなはずのオレンジ色の射線をオフィスに投げかけている。しかしそんな鮮やかな陽光とは裏腹に、開発フロアの空気はどんよりとした絶望で淀んでいた。
「あ、あの……先輩。ここ、何度叩いてもエラー吐いて止まっちゃうんですけど……」
泣きそうな声で俺のデスクを覗き込んできたのは、今年配属されたばかりの新卒の子だろうか。既に目の下に俺たちと同じうっすらとした隈が定着し始めているのはいかがなもんなんだこの野郎と、大馬鹿野郎に脳内で全力蹴りをかましておく。
「見せてみろ……あぁ、ここのAPIの戻り値の型が仕様書と違うんだよ。上流が勝手に変更したのに対して、こっちのドキュメントにはその変更した事実の方が反映されてない」
「えっ、じゃあどうすれば……」
「向こうの出力に合わせてこっちで強引に変換処理を挟むしかない。根本の仕様が狂ってるんだ、綺麗に書こうとするな。『とりあえず動く』ように応急処置を当てとけ。」
俺の言葉に、新卒は顔をひきつらせながら自席へと戻っていった。
午後十一時。終電という名のセーフティネットが消滅するタイムリミットが迫っていた。
ふと視線を上げると、先ほどの新卒や数年目の若手たちが焦点の定まらない目でモニターを睨み続けている。タイピングの速度も落ちてるし、明らかに脳の処理限界に達していた。
「……新人、お前らは上がれ。」
俺はため息をつきながら、彼らの背中に声をかけた。
「えっ、でも、まだ自分の担当箇所が……」
「その状態で書いたコードなんてどうせ明日デバッグし直す羽目になる、この状況だと無駄なエラーを量産される方が致命傷だ。残りは俺たちが巻き取るからさっさと上がれ。」
恩着せがましくならないよう、あえて冷たく言い放つ。彼らは申し訳なさそうに何度か頭を下げた後、逃げるようにオフィスから去っていった。これでフロアに残ったのは、モニターの青白い光に顔を照らされた数人の「残骸」だけだ。
「……いいのかよ甘やかして、今のでお前のタスク倍になったぞ」
パーテーション越しに、同期が死んだ魚のような目で声をかけてきた。彼のデスクには、空になったエナジードリンクの缶が栄養ドリンクの空き瓶と混ざって墓標のように積み上がっている。
「ぶっ壊れて辞められる方が長期的なリソースの損失だろ……そっちの進捗はどうなんだ」
「データベースの連携部分は、さっき力技でねじ込んだ。……なぁ、俺たち、あと何年こんなこと続けるんだろうな」
「さあな。管理者権限の連中が俺たちを人間じゃなくて『無尽蔵のリソース』だと勘違いしている限り、永遠に続くんじゃないか?」
自嘲気味に笑い合い、俺たちは再び沈黙の海へと潜る。
響くのは乾いた打鍵音と、限界まで回るPCの排熱ファンの唸りだけ。脳の処理能力はとうに低下し、カフェインで無理やり神経をショートさせて動かしている状態だ。手首の腱は時折悲鳴を上げ、肩から首にかけては鉄板が埋め込まれたように硬直している。俺の肉体はゆっくりと、されど確実に寿命を削りながらこのシステムを維持していた。
やがて、ブラインドの隙間から白々とした光が差し込み始める……時計を見れば午前五時半。夜が明け、新たな一日が強制的に始まろうとしていた。
「……よし、とりあえずテスト環境でのビルドは通った」
最後のコードを押し込み、俺は深く、重い息を吐き出した。完璧には程遠い砂上の楼閣のようなプログラムだが、マネージャーが要求した「表向きの仕様」だけは満たしてやった。
隣を見れば、同期はキーボードに突っ伏したままピクリとも動かない。おそらく限界を迎えて気絶しているのだろう。
「……俺は上がるぞ」
誰に言うともなく呟き、俺は椅子から重い体を立ち上がらせた。今日出社してくる朝番の連中に、この呪いのような引き継ぎメモを丸投げする罪悪感はある。だが俺の肉体は、もうこれ以上のエラーを許容できないだろう。俺はバキバキと音を立てる首を回しながら同期の脱げ落ちた上着を椅子に戻して、よろけるような足取りでオフィスを出た。
オフィスの自動ドアを抜けると先ほどまで暗闇の中で作業に明け暮れていたからか、暴力的なまでの朝陽が網膜を灼いた。思わず目を細めながら重い足取りで駅へと向かうが、コンクリートの照り返しが徹夜明けのひどく乾いた眼球に突き刺さると痛くて仕方ない。
改札を抜けてホームにまで立つと、ふと違和感に気づいた。いつもなら対のホームで死んだ目をしたスーツ姿の男たちが互いのパーソナルスペースを物理的に圧殺しているはずの車内が、妙に空いているのだ。代わりに視界に入るのは……部活の遠征だろうか、大きなエナメルバッグを持ったジャージ姿の学生たちや、これから遊びに出かけるらしい私服姿の若者たちの姿。
「……あぁ、そうか」
電光掲示板に表示されたダイヤの時刻を見て、ひどく鈍った脳がようやくカレンダーと同期した。世間のシステムは、とっくに土曜日の朝を迎えているらしい。俺たちのような底辺の歯車が徹夜で泥水のようなカフェインをすすりながらクソ仕様のパッチ当てをしている間に、正常な世界はしっかりと「週末のレジャーモード」へと移行していたというわけだ。
空いている座席に腰を下ろした瞬間、強烈な睡魔が襲ってくる。まるで電源ケーブルを物理的に引っこ抜かれたかのように俺の意識は一時的な休止状態へと強制移行し――――
「う゛、っ……」
――――次に目を開けた時、電車は目的の駅に到着する寸前だった。
窓から差し込む光の角度とじりじりと肌を焼くような温度からして、時刻はもう昼前といったところだろうか。寝過ごさなかったのは、長年培ってきた悲しき帰巣本能というやつ……いや待て、いつもと番線が違う。どうやら逆方向の終点から戻ってきてしまったらしい、不覚だ。
改札を抜け、アパートまでの道すがらに立ち寄ったのは駅前の大きなスーパー。意識が飛びかけている事実は山々なのだが、ひとまず胃袋に流し込むための燃料を調達しなければならない。眩しすぎる外光から逃げるように店内の蛍光灯の下を歩く。総菜コーナーへと向かい、適当な弁当と栄養ゼリーをカゴに放り込んだ。
ふと少し先の精肉コーナーで立ち止まっている家族連れが目に入った。カートを押す父親と、今夜のメニューでも相談しているのか楽しげに笑い合う母親。そして……二人の間をちょろちょろと走り回る小さな子供。
……絵に描いたような、休日の幸せな風景。
彼らは間違いなく、この社会において「正常にビルドされた成功例」だ。週末に家族でお昼を兼ねて夕食や何やらの買い出しに来る。そんな人間として当たり前の日常ですら、今の俺には致命的な不具合を引き起こしかねない未知のコードにしか見えなかった。
「……俺には、一生縁のない光景だな」
自嘲気味に呟きレジへと向かう。彼らを妬むような感情すら……今のすり減った精神には一ミリも残っていなかった。ただ、ひたすらに眠りたい。世界から自分という存在を切り離してしまいたかった。
精算を済ませ、ビニール袋を提げてスーパーの自動ドアを抜ける。外は、憎たらしいほどよく晴れた休日の昼下がりだった。さあ、帰って泥のように眠ろう。そのあとの事なんて、起きてから考えればいい。仕事にせよ、貴重な休日となるにせよ……今の俺にこの選択を決められる程のリソースは存在していない。
スーパーを出て、アパートまでの見慣れたアスファルトを歩く。指に食い込むビニール袋の重さだけが、辛うじて視界が曇りつつある俺の意識を現実に繋ぎ止めていた。
……そんな死にかけのゾンビのような状態で、見通しが悪く信号のない交差点を超えた後のことだった。
不意に、俺の視界の端を小さな影が二つ通り抜ける。先ほどスーパーで見かけたあの家族の子供だろうか。親が目を離したほんの一瞬の隙を突いて転がっていったおもちゃでも追いかけたのか、弾かれたように車道へと飛び出していく。
同時に、嫌な音が鼓膜を叩いた。
大型トラックの、ズズズと重く唸るようなエンジン音。コンクリートの壁に反射して近づいてくるその質量は……音からでも分かるほどに明らかに法定速度を超過している。
極限まで低下していたはずの脳のクロック数が、この瞬間だけ異常な速度で跳ね上がった。
おぼろげだった視界が一気にクリアになり、そのトラックの運転席をチラリと見る。ハンドルを握る男の首は不自然に傾き、目は完全に閉じていた。――あぁ、なるほど、彼もまた理不尽な納期に追われてシステムに限界まで酷使された「名もなき歯車」の一人なのだとその瞬間に理解する。
トラックの速度。子供までの距離。運転手の様子からブレーキが踏まれていないという予測事象。俺の死にかけていた脳内が、瞬時に演算を弾き出す。
――あんな子供の体で、気づいてから回避するのは絶対に間に合わない。
このままでは確実に、あの小さな子供は原型を留めない肉塊に変換される。
その時の俺に、誰かを助けたいという崇高な英雄的思考など微塵もなかった。ただ、目の前で起きようとしている「理不尽」を、本能が許容できなかった。
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手からビニール袋が滑り落ちる。限界を迎えていたはずの体を、リミッターを外して強制駆動させる。
トラックのクラクションが、手遅れで狂ったように鳴り響いた。
「っ……!」
飛び出した俺の両腕が、子供の小さな体を力任せに前方の歩道へと突き飛ばす。
アスファルトに子供が転がり安全圏へと脱出したのを確認したのと、視界のすべてが巨大なトラックのフロントグリルに塗り潰されたのは、完全な同時だった。
次の瞬間、俺の肉体に、圧倒的な質量と運動エネルギーが正面衝突した。
10トン近い鉄の塊。その暴力的なまでの物理法則の前に、人間の脆い骨と肉など何の抵抗力も持たない。
ドゴ、というひどく鈍い音が、自分自身の内側から響いた。
全身の骨が粉砕され、内臓が破裂する。だが不思議と「痛み」はなかった、脳が処理できる痛覚の限界値を一瞬でオーバーフローしたからだ。
宙を舞い、焼けたアスファルトに叩きつけられる。視界が急速に、ノイズ混じりの暗闇へとフェードアウトしていく……あぁ、間違いなく終わった。この感触はもはや何があろうと間に合わない致命傷だ。修復不可能なレベルでのハードウェアの物理的損壊。確実に全てのプロセスは強制終了され、俺の意識は間もなく完全に消される。
遠くで、悲鳴が聞こえるような気がした。だが、それもすぐに遠ざかっていく。
俺のすり減った精神を最後に満たしたのは、死への恐怖でも、やり残したことへの後悔でもなかった。
(……あぁ。やっと、休める……)
終わらないデスマーチからの、完全な解放。
安堵と共に、俺は静かに、その機能を完全に停止した。




