第6話 赤と白の門番
「ここか」
祭りの余韻が消えた境内は、別の場所のように静まり返っていた。
屋台の名残の匂いも、笑い声も、もうない。石畳の上を流れるのは冷たい夜気だけだ。月は雲間から顔を出し、蔵の白壁を淡く照らしている。
三嶋はその前に立っていた。
重い扉。幾重にも施された封。ここに眠るのは月光の書――魂に関わる禁書。
さらに背負わせるわけにはいかない。裁定の巫女が、また選ばされる前に。
三嶋はゆっくりと手を伸ばした。
「何しに来た?」
伸ばしかけていた手をピタリと止めた。
背後から、声が落ちる。男女を判別できない、不思議な響きだった。
三嶋は振り返る。心臓が一拍遅れて跳ねた。――気配を感じ取れなかった。
そこに立っていたのは、少年だった。
月光を受けて銀のように輝く白い髪。その内側に、鮮やかな赤のインナーカラーが覗く。整った顔立ちは年齢を曖昧にし、瞳だけが妙に静かで、底が見えない。
「……何者だ?」
そう言って魂を鎖で縛りつけようとしたが、何も手応えが無く、ただ空気を撫でただけだった。
(魂が……無い)
三嶋は少しばかり顔をしかめ、少年に目をやった。
「それはこっちのセリフなのだが……まあいい」
少年は小さく肩をすくめる。
「祈祷師の式神、と言ったら分かるかな」
「式神?」
(式神は魂を入れる器を用意し、自ら魂を織り成して作られるのだが……)
この式神には魂が無い。もしかしたら、どこかに隔離しているのかもしれない。
どちらにせよ、警戒すべき相手なのは変わりなかった。
「ああ。で、こっちも答えたのだから、そっちも答えてくれ」
三嶋は視線を逸らさずに歯を食い縛り、呆れたように言った。
「私は三嶋という妖怪だ」
「妖怪が神社の蔵の前。理由は?」
「分かっているだろう?」
式神は余裕のある態度で、何もかもが見透かされている、そう感じたのだ。
「確認だ。覚悟のな」
表情も変えず、一歩も動かない。ただ、観察するように三嶋を見ている。
「月光の書を借りに来た」
「借りる、か。都合の良い言葉だ」
「盗むと言えば満足か?」
「満足はしない。だが興味は湧く」
夜風が吹き、赤い差し色が揺れた。少しばかり、少年は口角を上げたかと思うと、急にグイと上半身を三嶋に寄せる。
「陽菜の魂の歪みを正すためか?」
一瞬だけ、少年の瞳が細くなる。
三嶋の心臓は、うるさく鳴り散らかしている。
「なぜ知っている?」
「この地の魂の揺らぎは、すべて把握している」
三嶋は唇を噛む。
(掴みどころの無いやつだな。物理的にも精神的にも)
不気味なほどに表情を変えず、ただ淡々と三嶋に語りかける。
「なら分かるはずだ。あれは放っておけば壊れる」
「知っている。魂の上書きは禁忌だ。だが、意図的に起こった場合のみだ」
「何を言っている」
「だが自然発生した場合、それは排除対象とは限らない」
少し口角を上げ、威嚇するように三嶋の声が低くなる。
「禁忌は禁忌だ」
負けじと言葉を強める式神だが、それに構わず三嶋も反撃を緩めない。
「確かに禁忌だが……治せるなら別だろう?」
「ほう。治せると思うのか? 魂の妖怪、三嶋」
三嶋はハッとした表情になる。何の妖怪かも言っていないのに式神は軽々と当ててしまった。
(本当に式神なのか?)
そう疑問に思ったが、構わず口を動かす。
「ああ。それに均衡のために、陽菜を見捨てるという選択な無いからな」
「見捨てるとも、救うとも言っていない」
少年は月をゆっくりと見上げる。
夜空には綺麗な半月が浮かんでいた。
「裁定は“選択”だ。誰が何を選ぶかは、まだ決まっていない」
三嶋は蔵に一歩近づく。
式神はただ一歩進んだ足を見つめるだけで何も言ってこない。
「止めないのか」
「……ああ。その魂の歪みを治す覚悟があるなら持っていくと良い」
三嶋の肩が跳ね上がる。
式神は今、月光の書を盗む事を許したのだ。こんな事、三嶋には予想外だった。
「祈祷師は貸すなと言ったはずなのに、いいのか?」
式神はわずかに笑った。
「そなたの意見を尊重する事も、また救いの道だと判断したまで」
そう言ってゆっくりと目を閉じた。ただのそよ風にさらさらと髪は揺らされる。
「借りを作ったな、式神」
月が雲を抜ける。白髪が銀に輝き、赤が鮮烈に浮かぶ。
「月光の書は記録だ。答えではない」
「……分かっている」
「読む者の選択を加速させる。それだけだ」
少年の瞳が三嶋を射抜く。
ただ事実を淡々と告げる。まるで機械のようだった。
「知ることで選択肢は狭まり、知ることで後戻りできなくなってしまう」
三嶋の覚悟をただ式神は淡々と試している。
三嶋の胸に、さらの顔が浮かぶ。迷いを抱えながらも前を向く姿。陽菜の笑顔。無邪気で、何も知らないような。
「もうあんな事はさせない」
「あんな事……か」
三嶋は答えない。
蔵の封が淡く光った。
重い扉が、ひとりでに軋みを上げて開く。闇の中、ただ一冊だけが淡く輝いている。
月光の書。
三嶋は迷わず歩み寄り、手を伸ばした。
触れた瞬間、視界が白く染まる。手で軽く本を払った。
三嶋は本を抱え、振り返らない。夜の境内へと足を踏み出す。式神は追うどころか姿を静かに消していた。
「人が選ぶか」
赤い差し色が風に揺れる。
「巫女が選ぶか」
淡い声が夜に溶ける。
「……どちらでもいい。結果が出るなら」
蔵の扉がゆっくりと閉じる。そして、静かに呟く。
「裁定は、近い。我もそろそろ動き出さねば」
夜は、何事もなかったかのように深まっていった。




