第5話 祭り
目の前に立っていたのは銀色の髪と獣の耳を持っている妖怪。
ーー異土羅だった。
「異土羅! 治ったの?!」
異土羅は、振り返ることすらしなかった。夜の空気を裂くように、さらの心配の言葉を無視して淡々と告げる。
「この魂が欠けたことの元凶は陽菜だ。裁定の巫女として……」
それは忠告でも、警告でもない。ただ「事実」を置いていっただけの声だった。
「判断を見誤らない方がいい」
さらの喉が、かすかに鳴る。異土羅はしばらく自分の胸に手を当てて地面を見つめていた。
呼び止めようとした瞬間には、異土羅の気配はすでに無くなっていた。
――元凶は、陽菜。
その言葉が、胸の奥で何度も反響する。魂が欠けた元凶が陽菜など考えたこともなかった。なぜなら、陽菜は魂を操る事も奪う事も出来ない。人間の本質とはそういうものである。
だが、異土羅が嘘を言うとは思えない。あんな冷たい態度だが、さらと共に街を守り続けた存在でもある。
さらは少し考えた後に「完全な嘘ではない」と理解した。
その場に立ち尽くしていると、足音が近づいてくる。
「さら」
三嶋だった。息を切らす様子もなく、だが明らかに急いで来た気配が服の乱れから漂っていた。
「三嶋! 異土羅が!」
お腹から声を出し、上ずる。だが三嶋は冷静に即座に、低く、強く言った。
「知っているから落ち着け!」
その一言で、さらの肩から力が抜ける。三嶋はこの状況を、すでに把握していた。
三嶋はさらが買い物へ行った後に祈祷師の鈴から聞いた内容を淡々と話した。
鈴の屋敷には月光の書という書物があるという事を聞いたことをさらに言う。
「月光の書? それが何?」
「月光の書は過去の魂の存在を記録している書物。そして、それで陽菜の魂の歪みが治るかもしれない」
その瞬間、さらの胸は暖かさに包まれる。ほんの小さな、でも確かな希望。
「本当!?」
「ああ、陽菜の魂の歪みの原因はーー魂の上書きだからな」
「魂の上書きってあの禁忌の術!?」
思わず声が大きくなる。世界の理を無視し、魂を重ねる禁忌。裁定の巫女が最も忌避すべきもの。
昔は良くそれが横行していて、巫女が何とか禁忌の術にした事によって使われなくなった術、とさらは伝えられていた。
「そうだ。だが、意図的にやられた訳ではないようなんだ。簡単にいうなら、自然に魂が張り付いてしまった状態だな」
「なるほどね。でも、どうやって月光の書を貸してもらうの? ダメって言われたんでしょ?」
三嶋が鈴に「月光の書を貸してくれ」と言った問いに対して鈴は「絶対にそれはダメです」と、全否定したそうだ。さらの問いに、三嶋は一拍置く。
次に三嶋が喋った言葉は想像と違かった。
「祭りの夜に月光の書を盗む」
「なっ……!」
思考が止まる。巫女が聞いていい言葉じゃない。だが、三嶋の目には覚悟と感じさせる程に熱かった。
「陽菜を助けるためだ。それに、バレないようにやるよ」
そうして三嶋は立ち上がる。まるで、もう迷う余地など残されていないかのようだった。
「ちょ、ちょっと……」
確かに、さらは陽菜のためなら何でもするつもりでいた。だが、まさか盗みを犯す事になるとは考えもしなかった。
「お前は祭りを陽菜達と楽しんで来い。灰野の思いもあるんだ」
灰野の顔が、脳裏に浮かぶ。今日、灰野は回復の為に昏睡状態になったのだ。だが、灰野は街が大好きなのだ。だからさらにあんな頼みをした。
さらは覚悟を決めた。治せる方法なら試せるだけ試したい。
「そうね……今は癪だけど頼るしかない。お願い三嶋」
「ああ」
それだけを残し、三嶋は闇の中へと消えていった。
*
夜が深まり、街は祭りの色に染まる。提灯の柔らかな光。屋台から漂う甘い匂い。太鼓の音が、心臓の鼓動と重なる。
その中で、陽菜と赤水鬼は美しい着物を身に纏っていた。
「さら! 見てみて可愛いでしょ!」
「うん……似合ってる」
笑顔で答えながら、さらは胸が締め付けられる。異土羅の言葉がさらの声を詰まらせているのだ。この笑顔を、裁つことなどできるはずがない。
「どうだどうだー」
「赤水鬼も似合ってるじゃない」
そういって赤水鬼の髪を優しく撫でる。楽しそうに跳ねる姿が、やけに眩しい。
「でも、さらもすっごい似合ってる!」
「あまりこういう服は着ないから…なんか新鮮ね」
さらも「祭りに行くなら着物に着替えないと!」と少し強引に着物を着させられた。いつも着ている巫女装束ではない服に、少し恥ずかしかったが陽菜の為なら仕方が無い。
“裁定の巫女”じゃなく、“天月さら”である時間。これからは無くなってしまうかもしれない時間。
「すっごい食べ物がいっぱいあるー!」
「そうだね、凄いたくさんあるねー!」
屋台の明かりの向こうに、笑い声が弾ける。さらは一歩、祭りの中へ踏み出す。
「これ、ください!」
赤水鬼が祭りのすぐ右の屋台に吸い寄せられ、勝手に注文をしている。
「はぁ」
いつも通りの様子の赤水鬼にため息を吐きながら、さらは黙って財布を取り出す。
――その瞬間だった。
背後で、空気が一瞬だけ“冷えた”。祭りの喧騒の中、明らかに異質な気配。さらは反射的に振り返る。
提灯の影の下。白い毛並みの狐が一匹、屋根の縁に座っていた。
月明かりを弾くような金の瞳。そして、揺れる尾は――一本ではない。
「ごめん、ちょっと行ってくる!」
すぐお金を払い、そう言い残して走り出す。さらは息を呑む。
(九尾……いや、八?)
狐は楽しそうに、喉を鳴らした。
「さすがだね、裁定の巫女。こんな騒がしい夜でも、気づくとは」
次の瞬間、狐の姿がぶれる。分身――いや、尾がほどけるように、白い影が三つに増えた。
さらは即座に袖から札を抜く。
「この祭り会場で、あなたを呼んだ覚えはない。騒ぎを起こすつもりなら――」
言い終わる前に、影が迫る。反射で札を投げる。結界が一瞬だけ展開され、狐の影を弾いた。
「へえ……」
狐は距離を取って着地し、感心したように尻尾を揺らす。
「でも、斬らないんだ」
その言葉に、さらの指が止まる。確かに。本気なら、今ので“裁定”していた。
「……今日は、祭りだから」
さらは低く答える。
「それに――」
一瞬、陽菜と赤水鬼の方を見る。楽しそうに喋っている様子を見てさらは少し微笑む。
「今は、巫女じゃない」
狐は、その様子を面白そうに眺めてから、くすりと笑った。
「噂に聞く面白い巫女だ」
「あと、あなたに聞きたい事があるんだけど」
「なんだ?」
異土羅の言葉が脳裏に浮かぶ。それを振り払い、息をゆっくりと吐いた。
「……魂が欠けている事に関して何か知ってるんじゃないの?」
「ほう……」
揺れていた白い尻尾が動きをピタリと止めた。
「それはまた今度……な」
次の瞬間、狐の姿は夜に溶けた。まるで、最初から存在しなかったかのように。だが、さらの胸にははっきりと残っていた。
――見られている。
――試されている。
その様子に少し怒りを感じる。正直さらは黒幕は九尾だと睨んでいたからだ。
「さらー! これ美味しいよ!」
陽菜の声が、現実へ引き戻す。さらは深く息を吸い、笑顔を作って振り返った。
「今行く」
さらは静かに三嶋の事を思い浮かべる。今頃、屋敷のついている頃だろう。
屋台の灯りの下に戻ると、赤水鬼が両手いっぱいに串を持っていた。
「さら! これも! あとこれも!」
「……食べすぎ」
そう言いながらも、さらは一つ受け取る。甘辛い匂いが鼻をくすぐった。
陽菜は頬を緩めながら、ゆっくりと歩いている。
「ね、さら。来年も一緒に来ようね」
何気ない言葉。それだけで、胸がきゅっと締め付けられた。
「……そうだね」
嘘ではない。でも、約束とも言えなかった。太鼓の音が鳴り、夜空に花火が咲く。一瞬、世界が光に包まれる。
その中で、さらは確かに笑った。
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