第2話 明らかな異変
「何かが……来てる」
とても早い時間に、さらは目を覚ました。まだ夜が終わっていないようで、空は真っ暗だ。
胸の奥が、ひどくざわついている。さらは静かに身を起こし、耳を澄ます。
……おかしい。
音はある。だが、位置がずれている。風の流れ。虫の気配。境内を覆う空気。今身体が起きたばかりで、何かの勘違いかと思ったが、魂の歪み特有の空気の冷たさが手足を伝ってくる。
すべてが、ほんのわずかに歪んでいた。
さらは即座に布団を抜け、巫女服に袖を通し、乱れた黒髪を一本にまとめ髪を縛った。社殿を出た瞬間、空気の重さが変わった。
この地に昔から棲みついている妖怪たち――本来なら、ここまで乱れるはずがないのに、さらの視線の先で、何かが荒れていた。
銀色の毛並みが夜の中で揺れる。
獣の耳がぴくりと動き、次の瞬間、地を震わせるような雄叫びが上がった。
「……異土羅」
獣の妖怪、異土羅。
力が強く、気性も荒いが、この地をずっと昔から見守り、異変があった時はこの街を一緒に守ってきた。本来はこの地の秩序を守る側の存在なのである。
その異土羅の魂が――歪んでいる。
歪むはずの無い魂が歪んでしまっているのだ。そう思った瞬間、さらの心の奥底が黒い霧に包まれる。
「異土羅! 落ち着け!」
さらが声を張る。だが、異土羅は振り向かない。理性の光が、目には無かった。
低く唸り、前脚――いや、拳を地面に叩きつける。
獣の妖怪自慢の、ふさふさとした毛に覆われた拳が、風を切った。
「っ……!」
さらはとっさに跳び退いた。拳が地面を砕いたのと同時に、衝撃が足元から伝わる。
異土羅はとても速い。重い体躯からは想像できないほどに、軽々な身のこなしでどんどん迫ってくる。
連続して振るわれる拳。
爪が空を裂く。
異土羅はさらの真横を猛スピードで通り過ぎていく。さらは横へ体を軽く捻ると、紙一重でかわしながら、距離を取る。
「聞きなさい、異土羅! あんたは――」
そう言いかけると、思いっきり異土羅は方向転換をする。こちらを睨み付けるのと同時にこちらに突進してくる。
「なっ……!!」
不意を突かれてしまい、思いっきり近くにあった木にさらは叩きつけられる。
青い葉に紛れて異土羅の拳が見える。この拳はかつて一緒に守った、戦った制裁の拳。
「異土羅! その拳は……守るためにあるんでしょ!?」
だが、言葉は届かない。変わらず目の前には毛むくじゃらは拳が振りかざされ、日の出の太陽で光が反射している。
正面からの衝突は、あまりにも危険だ。さらは歯を食いしばり、足を踏み込んだ。
「……仕方ない」
さらはそう言うのと同時に手を結ぶと、二回程深呼吸をし、呼吸を整えた。
これは祓いではない。鎮めるための術。
「鎮静術――」
異土羅の拳が、目前まで迫る。
「入明の開!!」
声が夜を切り裂いた。瞬間、空気が反転し、肩がおもりを乗せているように重苦しくなる。
見えない力が異土羅を包み、その巨体が、糸を切られたように崩れ落ちた。
どさり。
異土羅はその場に倒れ、荒い呼吸だけを残して動かなくなった。それを見た時、ふと思ってしまった。この歪みは本来起こることがないようなもの。もしかして陽菜の……
「”魂の上書き“のせい……」
「もしかしたら、そうかもしれないな」
思考を張り巡らせると同時に、後ろから凍るような声がした。
「……何の用、三嶋」
「そう警戒をしなくていい。ただの善意さ」
嘘とも言えないが信用も出来ない。さらは目を見張ったが三嶋には敵対の意思はないようだ。
「やっぱり知っていたのね」
「当たり前さ、私は魂の妖怪だからね。分からないはずはない」
「そうだったわね」
昔、三嶋と戦った事がある。三嶋はとても大きな悪事を働き、この街は大混乱に陥った。その場で鎮静化させ、境界の外へ放り出したはずなのだがなぜかここにいる。
「何故ここに戻って来れた?」
「まあ、縁巡りってやつだよ。一度結ばれた縁は帰ってくる」
「あっそ…真面目な回答を求めた私が馬鹿だった」
さらが真面目に聞いた言葉は呆気なく冗談で返されてしまい、さらは体の奥底から大きなため息を吐いた。
だが、さらはふと疑問に思ってしまった。
陽菜の多少な違和感に気づいたのはここ最近だ。こんなすぐに周りの妖怪にも魂の歪みが起こるとは考えにくい。
しかも、異土羅は陽菜とは会ったことがないのだ。会って陽菜の魂に影響され、異土羅に魂の歪みが起こった…なら考えられるが、その可能性も無いとなると……。
「三嶋! 今すぐ異土羅を霊核視で見て!!」
「はあ? 何で急に……」
「いいから!」
「あれ消耗激しいんだが……」
さらの本気の目付きを見て三嶋は「妖怪使いが荒い巫女だなぁ」と言って仕方ないと言っているような様子だ。
三嶋は一旦目を瞑る。先程の戦いが嘘だったかのように森は太陽に当てられながら静寂を保った。
3秒経つと、三嶋は目を思いっきり開け、目力を込めながら異土羅を見つめる。
「くっ……」
三嶋は少し体制を崩して地面に手をついた。消耗が激しいからだろう。
三嶋は驚いたように口をあんぐりと開ける。次の瞬間、何かを悟ったように、口元を歪めて笑った。
「一部だけ……欠けているな」




