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次は、元気な日に

白い霧がまだ屋根の上に漂っていた。


瓦の割れ目から冷たい風が吹き上がる。レンは膝の震えを止められず、息を吸うたび胸の奥が痛んだ。さっきまで確かに死ぬと思っていたのに、まだ世界が続いている。


ミレイユ・ラングレーは剣を下げない。

下げないが、呼吸が荒い。魔力を絞り出しすぎた時の熱が、喉の奥に残っている。


黒い影が笑った。


「執行官序列第四位。さすがだ。……でもさ」


レンは息を呑む。

その声は軽いのに、場の重さだけが増す。


影が月明かりの下へ一歩出た。


黒と白の執事服。

襟元はきっちり閉じられ、手袋まで汚れ一つない。

華美ではないのに目を引く。精密で、利口で、隙がない。

戦場にいるはずなのに、どこか仕事の途中で立ち寄ったような整い方だった。


その男は、ゆっくりと手を広げた。

まるで舞台に上がる役者みたいに。


「魔王軍干部、ノクス・ヴァルド」


名を聞いた瞬間、ミレイユの表情が凍った。

驚きが一拍遅れて、眼の奥まで沈む。


「魔王軍……干部……」


理解が追いつかないという顔だった。

魔王軍の干部が、ここにいる。しかも、狙いは封筒だ。


なぜ今夜、この場所に。


偶然ではない。

この建物の内部事情、封筒の存在、動線、警備の薄い瞬間。

それを知らなければ、ここに現れられない。


ミレイユの背筋に冷たいものが走った。


内部に、穴がある。

いや、穴では足りない。誰かが通している。


魔法庁の上層部まで手が届いているのか。

あるいは上層部の誰かが、既に絡んでいるのか。


ミレイユは唇を噛む。

息が荒いのに、頭だけが冷える。危機感が別の種類に変わっていく。


だが考える時間はない。

今ここで封筒を奪われれば、取り返す手段が消える。

それどころか、封筒が魔王軍の手に渡った瞬間に終わる。

なら、奪い返せないならせめて壊す。燃やす。

最悪でも、誰の手にも残さない。


ミレイユは答えない。答える代わりに、詠唱に入った。短い。速い。連射できる形。


「《穿光》!」


白い槍が走る。鋭い。屋根の上の空気が白く焼ける。


ノクスは避けない。

片手を前に出し、指を鳴らす。


「《黒雷壁》」


黒い稲妻が板の形に広がった。空気が割れ、焦げた匂いが立つ。

白い槍が壁に刺さり、霧になって散る。


ミレイユは間を置かず、もう一度。


「《穿光》!」


もう一本。もう一本。

白い槍が連続で生まれ、屋根を裂く音が重なる。


「《黒雷壁》」


黒い板が再び広がる。

白が刺さり、砕ける。白い破片が霧になって飛ぶ。


ミレイユは止めない。

喉を焼きながらでも、腕が痺れても、続ける。

撃てば撃つほど、黒い影の動きが鈍るはずだと信じるように。


「《穿光》!」

「《穿光》!」


白が走るたび、黒が立つ。

黒雷壁が受け止め、白が散る。


何度目かで、ミレイユの肩が僅かに沈んだ。

息が一瞬、遅れる。呼吸の奥で、何かが空っぽになる感覚。


削れない。

壁が、薄くならない。


ミレイユは歯を食いしばる。

それでも撃つ。撃つしかない。


「《穿光》!」


白い槍が走る。

だが今度は、さっきまでの芯がない。光が薄い。槍が軽い。

刺すというより、押すだけの白だ。


ノクスは、同じように指を鳴らした。


「《黒雷壁》」


黒い板が立つ。

薄い白は、ぶつかった瞬間に潰れた。

轟音すら小さい。白い霧が、力なく散る。


ミレイユの喉が鳴る。

もう一本を作ろうとして、魔力が来ない。息が入らない。


「……っ」


膝が僅かに揺れる。

立て直そうとしても、身体の内側が空っぽだ。魔力も体力も、もう底が見えている。


ノクスが歩いた。

走らない。急がない。処理しに行く足取りだ。


「もう終わりだよ」


ミレイユは剣を持ち上げた。刃に白い光を戻そうとする。

白が点きかけて、すぐ消える。


ノクスは掌を開いた。

掌の中心に、黒い球が生まれる。


拳大。内部で稲妻が暴れている。音が遅れて来る。空気が震え、耳の奥が痛い。

レンの肌が、熱でも冷えでもない感覚で粟立った。


「《黒死砲》」


ゼロ距離だった。


黒い球がミレイユの胸元に叩き込まれ、次の瞬間、爆発ではなく圧が広がった。

白マントが裂け、身体が宙に浮き、背中から瓦へ叩きつけられる。


屋根が砕けた。

破片が舞い、粉塵が白い髪に絡む。


「……っ、ぐ……!」


ミレイユは起き上がろうとして、肩が落ちた。腕が動かない。膝が滑る。

喉が鳴るだけで、息が入らない。


そして白環が、糸が切れたみたいにほどけて消えた。

レンの足首の重さも同時に抜ける。自由になったはずなのに、身体は痛みで重い。


ノクスは倒れたミレイユを一瞥しただけで、視線をレンへ移した。

最初から狙いはそこにしかない。


レンは反射で胸元を押さえた。

封筒の角が掌に刺さる。


「……来るな!」


ノクスが笑う。


「君のおかげで、執行官さんが軽くなった」


レンが剣を上げるより早く、ノクスの手が封筒の縁を掴んだ。

紐が擦れて鳴る。封筒が引き抜かれる。胸の重さが消え、代わりに寒気が刺さった。


「返せ……!」


レンは手を伸ばす。空を掴む。指先が痺れて、力が入らない。


ノクスは屋根の縁へ跳び、夜へ上がった。

黒い稲妻が背中で広がり、翼みたいに風を裂く。


レンは追おうとして、一歩で膝が崩れた。

肺が痛い。肋が軋む。視界が白くなる。


追えない。


上空でノクスが一度だけ振り返る。

封筒を軽く掲げ、笑って言った。


「死ぬなよ。次は、もう少し元気な日に」


黒い翼が夜へ溶けた。

封筒ごと、街の灯りの上を滑って消えていく。


残ったのは、半死の執行官と、傷だらけのレンだけだ。

ミレイユは動けない。それでも眼だけはまだ鋭い。


レンは歯を食いしばって立ち上がる。

ここにいれば次は自分が刺される。


レンは走った。

屋根の端へ。非常階段へ。闇へ。


封筒は奪われた。

だが命は残った。


――――――――――――


黒い稲妻の翼を畳み、路地の影へ降りる。

着地は静かだ。執事服の裾は乱れず、手袋も汚れていない。戦場の空気だけが、背中に薄く残っている。


封筒は懐だ。

硬い角が肋に当たる。その重さが、今夜の結果をはっきりさせる。


路地の突き当たりに、人影が一つ。

フードの奥の視線は、こちらを測るように鋭い。王国監察局の女だ。


ノクスは軽く笑って歩み寄った。


「待たせたか」


カナメは首を振る。


「封筒は」


ノクスは頷き、懐に手を当てるだけで答えた。


「ある。問題ない」


カナメは息を一つ吐いて、すぐ次を聞いた。


「レンはどうなった」


ノクスは肩をすくめる。

屋根の上の少年の目を思い出す。折れていない目。


「想像より強かった。あいつが削ってくれたから、俺はあんなに楽に封筒を取れた」


カナメの視線が僅かに動く。

ノクスは続けた。


「あいつ運がよかった。まだ逃げる余力が残っていた。あれが残ってなかったら、俺はあいつを殺すしかなかった」


カナメは表情を変えない。


「……生きてるのね」


祝福じゃない。危険が残っているかの確認だ。


ノクスは軽く笑った。


「残念そうに聞こえる」


「残念よ。死んでたら一番きれいだった」


ノクスは短く息を漏らした。


「冷たいな。生存の報告を聞いたら、普通は『よかった』の一つくらい言う」


「レンは役目を果たした。今夜はそれで終わり。レンが余計な音を出さなければね」


ノクスは一歩だけ近づき、声を落とした。


「だが、あいつは使い捨てには惜しい」


「惜しい?」


カナメが僅かに首を傾げる。

興味ではなく、価値の測定だ。


「あいつは今日、第四位の剣と魔法を真正面から受けて、折れずに残った。あれは才能だ。……いや、才能だけじゃない。根性がある」


カナメの瞳が一瞬、細くなる。


「根性。あなた、そういうのを信じるのね」


「信じてない。見たものを言ってるだけだ」


ノクスは笑って、しかし言葉は鋭い。


「君はレンを道具にする。俺は道具にされないレンを見た。違いだ」


「違う。あなたは勝手に感動する。私は勝手に失敗しない」


「感動じゃない。戦力だ」


「戦力は口を持つ」


「だから消すのか」


「消せるなら消す。死ねば口は閉じる」


「だったら、君が「消せる」と決める前に、俺が君の手を折る」


冗談みたいに言う。

でも監察局の女は、冗談として受け取らない。


カナメは小さく息を吐いた。


「分かった。殺さない。あなたが面倒だから」


「分かったらいい」


「ここで長話は危ない。あなたは封筒を運ぶ。私はレンを拾う」


「拾うって言うな」


カナメは少しだけ声を柔らかくする

「じゃあ、レンを「保管」する」


ノクスの笑みが一瞬止まる。


「君は本当に性格が悪い」


ノクスは最後に一言だけ投げ、闇へ溶けるように消えた。

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