封筒
札一枚で、今夜は通れる。
レンは胸の内側に押し込んだ通行札の角が、歩くたびに肋骨を叩くのを感じていた。湿った紙は妙に体温に馴染み、馴染むほどに不快になる。
(……忘れるな、今日は「搬入」だ。剣士じゃない。運び屋だ。)
魔法庁の裏手。夜番の交代が済み、廊下の足音が間延びする時刻。カナメが言った通り、正面から入らず、搬入の手順に紛れ込む。
レンは肩に、布で巻いた木箱を担いでいた。中身は空だ。空なのに、重い。空欄と同じで、空っぽほど人を押し潰す。
裏口の前で、門番があくびを噛み殺した。
「搬入……? こんな時間にか」
レンは通行札を差し出す。赤い印が、灯りに濡れて鈍く光る。門番の視線が、紙からレンの顔に移る。移った瞬間、何かが止まる。
(顔で見られたら終わりだ)
しかし門番は、顔ではなく紙を見た。紙が正しければ、顔は不要。
「……受領印は?」
「台帳は、地下文書区のほうで」
レンは、カナメの言い回しを真似た。言葉の形を整えると、嘘が嘘に見えにくくなる。門番は「ふうん」とだけ言って、裏口の鍵を回した。
「行け。箱は落とすなよ。あと……お前、名は?」
レンの喉が一瞬、固くなる。
「レンです」
「……姓は」
「空欄です」
レンは笑いそうになった。笑えないのに、喉の奥が勝手にひきつる。
門番は真顔で頷いた。
「そうか。じゃあ、落とすなよ、レン・空欄」
そのまま何事もなく通された。レンは背中で笑いを噛み潰す。独りで肩を震わせると不審に見えるから、歩幅だけで笑う。
(……この場所、真面目すぎて怖い)
廊下は白い。白すぎて、誰の影も薄くなる。壁の角に貼られた注意書きが目に入る。
『夜間搬入は必ず二名以上で。単独の場合は監査局の許可印を添付』
(添付、してある。監査局の許可印ってやつが)
レンは説明のつかない怒りを覚えた。二名以上で、というのは安全のためだろう。だがこの国では「安全」の意味が、いつも歪む。守られるのは人ではなく、手順だ。
地下へ降りる階段は、息が冷える。湿った石の匂いと、紙と古いインクの匂いが混ざる。レンは、五年前の煙と同じ種類の匂いだと思った。燃えていないのに、喉が焼ける。
文書区は、夜でも灯りが消えない。
扉の前に、薄い鎖が掛かっている。鍵穴はなく、代わりに小さな魔道具が鎖に噛みつくように付いていた。結界型の封印具だ。カナメの言う「結界型」ってやつは、だいたいこういう顔をしている。
レンは木箱を床に置き、手袋を外した。剣の柄に手をかける。汗で滑らないように、といつも思うのに、汗はいつも裏切る。
(壊せ、と言われたわけじゃない。回収だ)
レンは、自分に言い聞かせた。言い聞かせるとき、すでに正しいことは分かっている。分かっているのに、身体が正しさに追いつかないから言う。
剣を抜き、鞘を床に寝かせる。刃を封印具の継ぎ目に当てる。力を入れれば、音が出る。音が出れば、誰かが来る。来れば、終わる。
(音を出さずに壊す方法は――)
ない。
レンは少しだけ笑った。現実はいつも親切じゃない。
次の瞬間、レンは刃を振り下ろした。
乾いた金属音。封印具が砕ける。鎖が緩む――その瞬間。
廊下の灯りが、いっせいに白く跳ねた。
壁の魔導灯が、昼のように点く。床の模様が浮かび、天井の継ぎ目まで白くあぶり出される。暗闇が「ここにいました」と告白したみたいに、レンの影が床に貼りつく。
(……そう来る)
レンは舌打ちを飲み込んだ。飲み込んだぶん、喉が苦い。
「侵入者!」
遠くから声がする。足音。複数。だが、慌て方がそろっている。手順に沿った慌て方だ。
レンは暇がないと悟り、扉を押し開けた。
部屋の中は、書類の匂いで満ちていた。棚、棚、棚。机。封筒が積まれた箱。――そして、中央の机に、ひとつだけ異質なもの。
黒い封筒。封蝋が赤い。カナメが言った「開けるな」のやつだ。
(見つけた)
レンは封筒を掴み、懐へ押し込んだ。
扉の向こうで、足音が止まった。止まってから、声がする。
「開けろ。魔法庁治安課だ」
レンは、扉に手を置いたまま、深く息を吸った。肺が冷え、心臓が反応する。剣の柄が、彼の掌に戻る。
(治安課か。)
レンは扉を押し、廊下へ出た。
廊下に、三人。どれもローブの裾が床を掃く。手には杖。走ってきた息だけが荒いのに、顔は揃って「仕事の顔」だった。
「侵入者だ!」
叫び声は手順通りだった。
その声が、レンの胸元の通行札を見たところで――一拍止まる。
「……侵入者、のはずだ」
言い直す声が、少しだけ弱い。
レンは笑いそうになって、喉の奥で止めた。ここで笑ったら、後が面倒になる。
「止まれ! 札を見せろ!」
先頭が叫ぶ。
レンは胸から札を抜かない。ただ、布越しに軽く押さえた。見せれば済むのか?
「搬入だ」
レンは短く言った。
自分でも腹が立つくらい、言葉がうまくいく。カナメの口調が、まだ舌に残っている。
「搬入……? ここへ?」
先頭の男が、思わず言い返す。
その瞬間、二人目が慌てて取り繕うように杖を前へ出した。
「口を閉じろ。確認が先だ。確認が」
確認。確認。
この国では、剣より強い呪文だ。
レンは一歩だけ前へ出た。
札を見せる距離に見せかけて、踏み込みの距離にする。
先頭の男の目が、それを拾った。
札じゃない。顔でもない。レンの足、膝、肩の高さ、重心だ。
「……来るぞ」
呟く声は小さい。だが、三人の空気が一段固くなる。
先頭の男は、すぐに詠唱へ切り替えた。速い。言葉が短い。拘束系だ。
レンは舌打ちを飲み込み、間に入る。
剣は振らない。刃の腹で杖を叩き、詠唱の「柱」を折る。
杖が床を転がる音が、白い廊下にやけに響いた。
二人目が慌てて詠唱を繋ごうとする。焦って言葉が噛む。
レンは足を払った。ローブが絡まり、二人目が尻餅をつく。
「ぐっ……!」
三人目が後退しながら手を上げる。結界の準備。
レンは刃先を指先へ向け、触れない距離で止めた。
「やめろ」
低い声は、杖より速い。
三人目の手が止まる。止まると、途端に「自分が止められている」ことに気づいて、顔色が変わる。
先頭の男が壁にもたれながら叫んだ。
「何が目的だ!」
レンは答えたくなかった。
だが、沈黙は「怪しい」に分類される。ここは分類される前に分類してやる。
「回収だ」
言った瞬間、三人の顔がまた止まった。
回収。便利な言葉だ。何でも入る。人の良心まで入って、蓋が閉まる。
「回収……文書区の何をだ」
レンは答えない。答えない代わりに、剣を下ろさない。
剣の下がらない理由は、だいたい質問のほうにある。
そのとき、先頭の男が懐へ手を突っ込んだ。杖じゃない。小さな筒。合図用の魔道具。
レンの背筋が硬くなる。
(それは、やめろ)
レンが踏み込むより早く、男は筒を床に叩きつけた。
ぱちん、と乾いた音。
廊下の白が、さらに白くなる。
壁が光る。床が光る。天井まで明るい。闇が逃げ場を失って、形を消す。
先頭の男は、息を切らしながら笑った。負けると分かっている笑いだ。
「……お前の顔は知らん。だが――」
男は白い廊下を見回し、言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「――今夜ここに「誰か」がいたことは残せる。札があってもな」
レンは歯を食いしばった。
この国では、剣で切れるものより、記録で切られるもののほうが多い。
遠くから足音が近づく。今の三人とは違う。
一つだけだ。だが急いでいない。急ぐ必要がない足音だ。
レンは剣を逆手に持ち替えた。走るための持ち方。
胸の封筒が、紙とは思えない重さで跳ねる。
レンは封筒の位置を胸の内で確かめた。そこにある。あることが、怖い。失うより怖い。
レンは駆けた。
白い廊下を、影のないまま走る。




