刻印
ミラが呼ばれたのは、廊下の端で誰かが笑った直後だった。
笑い声は軽い。合格者の部屋にある、寒さをごまかすための笑いだ。けれど、その背後で空気が一度だけ沈んだ。
不知火カナメが、何も言わずに視線を動かした。
それだけで十分だった。
次の瞬間、灰色の制服の男が一歩前に出る。
カナメに一度だけ目を向け、許可を確かめるように頷いてから、ミラへ視線を戻した。
「ミラ・ルミエールさん。手続きの確認です。少しだけ、お時間をいただけますか。申し訳ありません」
申し訳ないと言いながら、足はもう次の角を曲がっている。断る余地のある頼み方ではなかった。ミラは袖口を握りしめ、遅れないように歩いた。背中に、カナメの気配だけがついてくる。追っては来ない。見ているだけだ。
扉には紙が貼られていた。
収容管理係。
男が扉を開ける。部屋はやけに明るい。机の上の紙束は角が揃い、インク壺の蓋も閉じられている。ここでは怒鳴り声も威圧も要らない。整いすぎた机の面が、勝手に背筋を丸めさせる。
机の向こうに、女性職員が一人座っていた。
男は無言で一歩退き、立つ位置だけを決める。見張るためじゃない。手順が逃げないようにするための位置だ。
女性職員が微笑んだ。笑顔はきれいで、練習したみたいに崩れない。
彼女は書類を一枚だけ指で押さえた。空欄の箇所だけが妙に白い。
「選抜試験、合格おめでとうございます。――それで、確認なのですが。住所欄が未記入でした」
ミラの喉が一瞬、乾いた。
言い訳は出てこなかったというより、言い訳の形を身体が嫌がった。説明を始めた瞬間、自分が許しをもらう立場に回る。それが、もう嫌だった。
職員は理由を聞かなかった。聞かないほうが、話はそのまま手順として片づく。
「住所がないこと自体は罪ではありません。ですから、ここで辞退して帰ることもできます。責任は一切、発生しません。記録も残りません」
胸の奥が、ほんの少し緩む。救われた、と感じた。
その直後に気づく。救われるという感覚そのものが、自分の立ち位置を決めてしまう。救われる側は、救う側に逆らえない。
職員は次の紙を重ねた。柔らかい声のまま、硬いことを言う。
「ただ、継続参加をご希望の場合は、管理上の都合で一時収容登録が必要になります。刻印を行い、識別をさせていただきます。申し訳ありません」
「刻印……」
ミラは袖の中で手を握った。
「手背に入ります。目視で確認できる位置です」
一瞬で、いくつもの場面が頭をよぎった。露店で物を買うとき。宿の受付。通りですれ違うとき。袖がずれて、手背が見えたら。その瞬間に空気が変わる。
職員はそれを知っている顔だった。知っているからこそ、目を合わせない。
「規定ですので」
ミラは自分の指先を見た。
魔法庁で臨時雇いをしていた頃の手だ。埃を払う手。床を拭く手。魔法道具の保管棚を並べ直す手。油の膜が残る金具を布で磨き、硝子の欠けを指で確かめ、割れそうな古い杖の先をそっと布で包む手。
仕事は雑じゃない。丁寧にやった。丁寧にやらないと、壊れるのは道具じゃなくて自分だと知っていたからだ。棚の高さを揃える。札の向きを揃える。箱の角を揃える。そうしている間だけは、世界に自分の居場所がある気がした。
でも、居場所は気のせいだった。
廊下ですれ違う正式の魔法使いは、ミラを見ない。見ないまま、指示だけ落としていく。これを運んで。これを捨てて。これを拭いて。言葉は丁寧でも、視線がない。
食堂では席が空いていても、そこは空いていなかった。笑い声の輪の外側に立つと、会話は途切れないのに空気だけが少し硬くなる。入っていいと言われない。入る必要もないと言われている。ミラは盆を持ったまま壁際の端に座った。皿の音だけが、自分がここにいる証拠みたいに鳴った。
服も違った。ローブの縫い目の上等さ。徽章の光り方。杖を持つ手の余裕。
彼らは魔法を使える前から、ここにいていい人間だった。
ミラは魔法を使えても、まだ「いていい」とは言われない側だった。
成果を出せば認められる、と何度も自分に言った。けれど成果を出しても、呼ばれ方は変わらなかった。名前じゃなくて役割で呼ばれる。臨時。補助。雑務。
更新面談のたびに、同じ笑顔があった。理解していると言いながら、何も変わらない笑顔。言い方は柔らかいのに、内容はいつも同じだった。枠がない。規定です。申し訳ありません。どれだけ床を磨いても、その先の扉は開かなかった。
その差は、努力の差じゃない。階段の段数そのものだった。
だから今回だけは、違うはずだと思った。
勇者探索。国が大々的に掲げた仕事。自分の魔法が、ようやく役に立つかもしれない舞台。見つけたら、名前が残る。称えられる。代償だって返ってくるはずだ。宿舎が粗末なのは、今はまだ成果がないからだ。成果を出したら、きっと。
ミラは息を吸って、笑顔を作らずに言った。
「刻印しても、探索隊に参加できますか」
「はい。資格には影響しません」
答えが早すぎて、逆に怖かった。怖いのに、ミラは頷いた。頷くしかなかった。
「……じゃあ、お願いします」
職員は一度だけ目を伏せる。
「ご協力ありがとうございます。申し訳ありません」
灰色制服の男が小さな木箱を開けた。中には金属の印が一つ。指輪にも見えるし、烙印にも見える。火はないのに、刃物みたいな冷たい光だけがあった。
「失礼します」
金属が手背に触れた瞬間、ミラの肩が跳ねた。
痛みは鋭くない。じわりと、皮膚の内側を押し広げられる感じ。熱ではなく、冷えが染みる。
数息のあと、紋が浮いた。暗い線が、整いすぎるほど整って手背に収まる。
ミラは袖を引き上げたまま、ほんの二秒だけそれを見た。二秒で十分だった。見たくないのに、見ないと現実にならない。現実にしたくないのに、現実にしないと前に進めない。
袖を下ろす手が少し震えた。ミラは震えを袖の中に押し込んだ。
「手続きは以上です。ご協力ありがとうございました。本当に、申し訳ありません」
謝罪は最後まできれいだった。きれいすぎて、ミラは何も言えなかった。
廊下に出ると、さっきの笑い声はもう戻っていた。合格者たちは自分の武器の話をしている。どこで祝杯をあげるか、みたいな話も混じる。ミラはその輪の外側を、袖口を握ったまま通り過ぎた。
すれ違いざま、清掃の老人がちらりと見た。ミラの袖がほんの少しずれ、刻印の端が覗いた、その瞬間だけ。
老人は何も言わない。言わないまま、視線だけをすっと別へ移した。
それが一番堪えた。
ミラは袖を引き、手背を完全に隠した。隠しながら、自分に言い聞かせた。
大丈夫。見つければ、変わる。変わるはずだ。
その言い聞かせが、祈りみたいに薄くなっていくのを感じながら、ミラは宿舎のほうへ戻った。
レンが呼ばれたのは、その少しあとだった。
名ではなく、肩を軽く叩かれた。振り向くと、さっきの灰色制服の男が視線でこちらを示す。レンは反射的に自分の胸のあたりを押さえた。
住所欄。空欄。あの白さが頭に浮かぶ。
次は俺か。
歩き出した瞬間、廊下の陰に人影があった。壁の暗がりに、最初から置かれていたみたいに立っている影だ。
不知火カナメだった。
カナメは制服の男にだけ短く目を向ける。言葉はない。けれど、あれは指示だった。
制服の男は一度だけ頷き、すぐに踵を返して廊下の奥へ去った。足音はすぐ消える。気配も消える。そこに残ったのは、レンとカナメだけだった。
深い色の上着。体に沿うように整っていて、動くための服だと一目でわかる。髪は利落のいい単馬尾で、結び目がきっちり締まっている。仕事の邪魔を一切許さない髪型なのに、耳元の短い髪が一房だけ落ちていて、本人はそれを直そうともしない。
手袋は白じゃない。汚れが目立たない色。それでも妙に清潔だった。紙と印だけを触って生きている手の清潔さだ。
カナメはレンの前で足を止める。視線が先に向かったのは顔じゃない。レンはそれを見てしまう。手だ。紙を押さえる手。判を押す手。名簿の上で人を動かす手。
カナメは上着の内側から一枚の通行札を出し、レンの前に差し出した。そのまま渡さない。手首をわずかに返して、札の角を指先で一度だけ叩く。
「これ、持っていきなさい」
コツ、という小さな音がした。合図みたいに、耳に残る音だった。
札には赤い印がある。雑務搬運。臨時通行。言葉だけ見れば、ただの雑用許可だ。けれど印があるというだけで、門は開く。
レンは札を受け取らずに聞いた。
「不知火。俺、あの部屋に呼ばれるんだろ」
カナメは眉ひとつ動かさない。
「手順どおりね」
「俺も刻印か」
カナメは、そうなるともならないとも言わない。顎をほんの少し上げ、収容管理係の扉のほうを見る。
「住所がない人間は、あそこに行く。規定だから」
淡々と言うのに、嫌なほど現実的だった。
レンの喉が鳴る。馬屋の藁の匂いがよぎる。雇い主の前で、住所がないなら無理だと言われた日々がよぎる。あの笑いには悪意がなかった。悪意がないから、余計に残る。
レンは札を指で弾いた。
「じゃあ、これは何だ。慈善か」
カナメの口元がわずかに動く。笑いではない。興味の形。
「取引」
レンは札を受け取った。紙の縁が硬い。丁寧に扱われすぎた紙は、逆に冷たい。
「代償は」
「住所を用意してあげる。私の権限で、一時的に登録できる枠がある」
言い切り方が軽い。軽いのに、そこに人の人生がぶら下がっている。
レンは目を細めた。
「で、俺がやることは」
カナメは半歩だけ近づく。威圧じゃない。距離の穴を塞ぐ近づき方だ。レンは反射で一歩退きかけて、踏みとどまる。
「今夜。魔法庁の地下。文書処理区で封筒を一つ回収する」
「回収って言い方にしても、やってることは盗みだろ」
カナメは短く首を振った。
「盗むんじゃない。回収だ。」
「言い換えただけだ」
カナメは札の角を指先でまた叩く。
「聞き分けなさい。私はあそこを知ってる。顔も名前も通ってる。私が動けば、必ず誰かの記憶に残る」
カナメはそこで一度だけ、目線を廊下の奥へ流した。魔法庁の紋章がある方向。嫌悪でも恐怖でもない。確認だけでできた目だった。
「でも、あんたは違う。あんたを知ってるやつがいない。」
レンの指に力が入る。札がきしみそうになるのを、掌の中で抑え込む。
「見られたら終わりだろ」
「終わらない。封筒が無いと気づいても、誰が持ち出したか分からない。分からなければ、追及もできない。そして、あんたの実力では逃げられる。私は試験を見て確信した。見つかったら終わりじゃない。抜けて帰ってこれる」
カナメは淡々と続ける。
「それに、あそこは責任が重い場所。失くしたと分かった瞬間、当番は首が飛ぶ。だから最初にやるのは報告じゃない。隠す。なかったことにする。そういう手順が、もう出来上がってる」
レンは鼻で息を吐いた。
「汚い話だな」
「現実の話」
カナメはそこで初めて、小さな懐中時計を取り出した。蓋を開け、針を一瞥する。焦っている素振りはない。けれど、時間の主導権は自分にあると見せる動きだった。蓋を閉じる音が乾いて響く。
「子の刻前。裏の搬入口に来なさい。入口に印を残しておく。封筒は絶対に開けるな」
「中身が気になるから開けるんだろ」
カナメは肩をすくめない。代わりに声を少しだけ落とす。
「気になっても開けるな。開けた瞬間、あんたはただの泥棒になる」
レンは鼻で笑う。
「今でも十分そうだろ」
カナメはその笑いを受け流し、最後に一つだけ置いた。
「生きたいなら、私の言う通りにしなさい」
背を向けたカナメの単馬尾が揺れ、落ちていた短い髪が頬に触れて、そのまま戻った。直さない。直さないまま、陰の奥へ消える。
レンは通行札を握りしめた。
掌に汗が滲み、紙の端がじわりと湿る。赤い印の部分だけが妙に固く、そこだけは濡れない。濡れないまま、押しつけてくる。
レンは収容管理係の扉を見た。
さっきミラが出てきた時、袖を引いて手背を隠していた。隠す動きが、やけに必死だった。必死に隠すほど、隠したい印なのだ。
俺は、何を隠せばいい。
今夜、封筒を回収する。封筒を渡す。
その先に何があるのか、俺はまだ知らない。知らないのに、もう戻れない予感だけがある。
湿った通行札が掌に貼りついた。
剥がそうとすると、紙が少しだけ皮膚を引っ張った。
まるで、先に爪を立ててきたのは札のほうだと言わんばかりに。




