空欄
宿舎へ続く廊下は、石の冷たさがそのまま空気になっていた。吹き抜けの天井に声が跳ね返り、咳ひとつで列が一瞬だけ固まる。
机が二つ。
ひとつは番号札と紙束。もうひとつは支給品。
支給品の木箱には赤い封蝋がいくつも押され、側面に墨文字がある。
――魔法庁特別支給。
封蝋だけがやけに真新しく、木箱の角だけがやけに擦れている。箱の下には、乾ききった藁が少し落ちていた。
壁には紙が一枚、釘で打ちつけられている。
「勇者捜索隊 試行運用につき
支給は既定枠内とする」
紙の端が湿気で反っている。誰かが指で押さえた跡が残って、汚れだけが増えていた。
「――番号札を受け取って。呼ばれた者から前へ」
不知火カナメの声は大きくないのに、廊下の奥まで届く。彼女は机の上の紙束を、話し終えるたびに指先で揃え直した。角がぴしりと揃うたび、列の背中もわずかに揃う。
「次。ユリウス」
呼ばれた男が進み出る。胸元の留め具に、見慣れない紋。金属は磨かれすぎて灯りを跳ね返す。紙を受け取る指は角に触れない。紙が鳴らない。
係官が淡々と読み上げる。
「登録番号、出身、住所、家族……記入欄は空けないように、今夜中に提出」
ユリウスは短く頷き、受領印を押して退いた。退くときも人と肩を触れない。列の隙間を測るように、足を置く場所だけを選んで動く。
「次。ガイ」
ガイが出た。肩幅が広い。革鎧の継ぎ目は荒いのに、紐だけは結び直されている。
「遅れたら?」
係官が紙を差し出す。
「支給が止まります」
ガイの喉が動いた。舌打ちが出かけて、飲み込まれる。目だけが机の下の箱を一度見た。
「次。レン」
名前を呼ばれて、レンの足が半拍遅れる。身体が呼ばれることに慣れていない。
机の上の紙が目に刺さる。
氏名。年齢。出身地。住所。家族。
レンの指が止まったのは、「住所」だった。
白い二文字が、灯りを吸って、厩舎の暗さに似て見えた。
村が焼けたあと、城門の外で凍えた夜があった。朝になっても門は開かず、開いても守衛は同じ言葉を繰り返した。住所。家族。紹介。
言葉の順番だけが正しく、レンの身体だけが間違っているように扱われた。
寝床を得たのは、宿屋の裏の馬屋だった。昼は藁を替え、糞を運び、桶を洗い、馬の脚の泥を落とす。夜は藁の上。毛布は薄く、身体は馬の体温を探して丸まった。働けば銅貨と、冷めたパンがひとつ。住所は要らなかった。名も要らなかった。
「……レン?」
係官の声で現実が戻る。
「今夜中に提出。空欄があると支給が止まる。分かるな?」
レンは頷いた。頷くしかない。
「次。ミラ」
小柄な女が進み出る。杖を抱えている。声は細いというより、空気に吸われる。
係官が紙を見て眉を寄せた。
「住所、書けるか?」
ミラの指が杖の柄を握り直す。白くなった指先が、すぐに元に戻らない。口が動くのに音が出ない。
列の後ろで小さな笑いが起きた。
「また空欄かよ」
レンの足が半歩前に出る。ミラと笑い声の間に、ほんの少しだけ風の壁ができる。
ミラはレンを見て、いったん目を開き、すぐ伏せた。耳まで赤くなる。息を吸い直して、ようやく言う。
「……書けます」
係官はそれ以上聞かず、受領札を押し付けるように渡した。列は止まらない。止まったのはミラの指先だけだった。杖の柄に残る握り跡が薄くならない。
「次。フィオナ」
フィオナが進み出る。杖を抱える腕がわずかに硬い。
係官が声を落とした。
「賢者様は……別室の鍵を」
机の下から小さな鍵束が出てくる。札には「特別室」とだけある。周囲の目が一瞬だけ集まり、すぐ逸れる。見るのは簡単だが、見続けると自分が損をする。
フィオナは鍵を見たまま、息をひとつ短く吐いた。指先が鍵に近づき、途中で止まり、紙のほうへ戻る。
「……不要です。皆と同じで」
係官が困った顔でカナメを見る。カナメは首を振るだけで、余計な言葉を足さない。その代わり、係官の台帳を引き寄せ、ページの端を二回叩いてから戻した。係官は黙って鍵を引っ込める。
「魔法庁の登録番号、派遣履歴。参加理由は?」
係官が問い、フィオナは一度だけ呼吸を整える。
「……魔法庁の指示です」
言葉は揃っている。揃いすぎて、皺がない。
「不知火カナメ」
最後にカナメが呼ばれる。彼女は紙を受け取らず、係官の紙束ごと取り、素早く目を走らせる。
「提出は今夜。……呼ばれた者だけ、残って」
語尾が短い。カナメはそれ以上続けず、紙束の端を揃え直した。
列の何人かが、誰に言われたか確かめるように周囲を見る。だが前は動き始めていて、動いた者に合わせて残りも動く。
支給品の箱が開けられる。
封蝋が割れ、木箱の蓋がきしむ。中から出てきた毛布は薄い。縁がほつれ、ところどころ色が違う。短剣は数が足りない。薬は欠けている。包帯は湿っている。
ガイが箱の側面の文字を見て、もう一度中を見た。
「……特別支給って書いてあったろ」
係官が台帳をぱらぱらめくる。指先が慣れている。
「ええ。特別です」
「どこが」
係官は台帳から目を離さない。
「……欠けてるところが」
「ふざけんな」
「台帳上は……揃ってます」
言いながら係官は目を上げない。上げないまま、受領欄に印を押す。
ユリウスが封蝋の欠片を拾い、縁を指先でなぞった。
割れ目がやけに真っすぐで、欠片の角が四角い。乱暴に割ったなら、蝋はもっと潰れて、こんな形には残らない。
――一度、剥がして戻した。そういう割れ方だ。
カナメは台帳のページ番号だけを確認して、係官に戻した。
「欠品は別紙で。受領印を」
係官は頷き、別紙を引っ張り出す。別紙に逃がせば逃がすほど、台帳だけは完璧になる。
レンは薄い毛布を受け取り、縁のほつれを見つけると、指先で糸を拾った。
爪で引っかけて、目立たないほうへ押し込む。直すというより「これ以上ほどけないようにする」手つきだった。
こういう小さな手入れが明日の暖かさを決めた。馬屋で覚えた。
宿舎の部屋は八人用だった。木枠の寝台が並び、床板の冷たさが足裏から上がってくる。
ガイが壁際に毛布を投げるように置いた。
「……腹が減った。これで明日まで持つかよ」
ユリウスが淡々と返す。
「持たせるしかない」
レンは寝台を整えた。毛布の端を揃え、荷物を足元に寄せ、通路になる場所を空ける。夜中に誰かが立つとき躓かないために。馬屋で覚えた。
フィオナがそれを見て、目を瞬かせた。
「……慣れてるんですね。そういう、整え方」
レンは「農作業だ」と言いかけて、喉の奥で止めた。農、と言えば村が出る。村、と言えば焼けた匂いがついてくる。
フィオナの目がほんの少し柔らかくなり、レンは視線を外した。柔らかい目は、受け取ると後で痛い。
ミラは端の寝台に座っている。毛布を膝に抱え、背中を丸める。レンが近づくと肩がわずかに縮む。だが逃げはしない。
「……さっき、ありがとう」
声は小さい。でも消えない。
レンは頷くだけにする。
その頃には、廊下の突き当たりに置かれた配給鍋の列も一巡していた。
石の器に注がれたのは、白っぽい粥――麦と豆を煮たものだ。湯気は出ている。量も出ている。
ただ、匂いが薄い。あったかい「何か」の匂いしかしない。
ガイが器を覗き込み、眉をひそめた。
「なあ。「支給」ってさ、どこまでが支給なんだ? 箱? 紙? 封蝋? 空気?」
「台帳に載っている範囲だ」
ユリウスが即答する。
ガイは匙を一口。すぐ二口。三口目で、目だけが遠くなる。
「……やべえ。腹は満たされるのに、心が満たされねえ」
ミラも恐る恐る口をつけた。熱さに目を瞬いて、それから小さく息を吐く。
「……あったかい、ですね」
褒めてはいない。逃げ道のある言い方だった。
レンは器を持つ指の位置をずらした。熱い器を落とさない持ち方。馬屋で覚えた。
ひと口。塩気はある。旨味はない。
ガイが台帳の方向を睨んだまま言う。
「で、これも台帳上は「うまい」のか?」
ユリウスは器を置き、淡々と答えた。
「量は出る。――味は出ない」
フィオナが、ごく小さく笑った。笑いというより、鼻で息を抜いただけだ。
「……台帳は正直ですね」
ガイが匙を振って抗議する。
「正直なら、味なしって書いとけよ!」
誰も反論できず、結局、器は空になった。
腹は確かに満ちる。満ちるからこそ、文句が言いにくい――その感じだけが、部屋に残った。
ユリウスがレンの懐の辺りを一度だけ見た。視線はすぐ戻る。
「……欄が空いたままだと、厄介だ」
レンは登録紙を出した。氏名、年齢、出身地は書ける。村の名前は書けない。住所は白いまま。
白い空欄が、薄い毛布より冷たく見えた。
夜半。扉の隙間から廊下の灯りが細く差し込む。
靴音が止まり、鍵の金属がかすかに擦れる。紙束が動く音。台帳のページをめくる音。声が来る前に、準備が整う音がした。
「――ミラ。提出」
声は低い。係官の声ではない。
ミラの呼吸が止まる。毛布の下で指が杖を探し、握る。握った指先が白くなる。
レンの身体が動きかけ、止まる。床板が鳴らない距離を、足裏が測る。
扉が開く。廊下の冷気が一瞬だけ流れ込む。
そこに立っていたのはカナメだった。白い手袋。右手に紙束。左手に小さな札。札の角がぴしりと揃っている。
カナメはミラの顔を見ない。紙の位置だけを見て、言う。
「提出。……空欄は後で」
言い切らず、紙束の端を揃え直す。揃えた指先が一度止まり、次に札を差し出した。
ミラが立ち上がる。足が震えているのに転ばない。唇を噛み、声を絞る。
「……はい」
ミラが扉を出る瞬間、レンはほんの少しだけ前へ出た。音が鳴らない程度に。ミラが一瞬だけ振り返り、目だけで何か言いかけて、言葉にならずに消える。
扉が閉まる。紙の角が鳴らない閉まり方だった。
廊下の灯りが遠ざかる。靴音も紙束の音も、規則正しく消えていく。
ガイが低く呟いた。
「……戻ってくんのか」
ユリウスは答えない。フィオナは天井を見たまま動かない。息が浅い。
レンは登録紙の白い欄を見下ろす。白はそこにあり続ける。
その夜、誰も「大丈夫」とは言わなかった。




