燃える村
火の匂いは、最初だけ甘い。
藁と木と、冬の間に溜め込んだ乾いた干し草が焦げる匂いは、どこか台所の匂いに似ている。――似ているからこそ、気づくのが遅れる。
犬が吠えた。
いつもなら鬱陶しいだけの吠え声が、その夜は鐘みたいに鳴った。吠え声の向こうで、家畜が短く鳴いて、すぐ黙った。黙る速さが嫌だった。何かが、もう噛みついている。
母が俺を起こした。
暗闇の中で、声は低く、急いでいるのに丁寧だった。
「レン。起きて。息、吸わないで。煙が来てる」
息を吸うなと言われると、人は余計に息を吸いたくなる。
俺は喉の奥で咳を飲み込んで、母の腕に引かれるまま外へ出た。
夜の空気が冷たい。
足の裏の土が湿っていて、裸足の指先から冷えが登ってくる。草が濡れていて、肌に張りつく。その小さな不快感が、妙に現実だった。現実のまま、世界が壊れるのが怖かった。
門の方角が明るい。
明るさが増えるたび、影も増える。影は人の形をしていて、歩き方が村人じゃない。慣れている。火にも、泣き声にも、死にも。
――魔王軍。
この言葉を、俺はその夜はまだ知らなかった。
ただ、影の連中の動きが、村の誰とも違うことだけは分かった。怯えていない。ためらっていない。働くみたいに殺している。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ。
叫び声の後ろで、金属が擦れる音がした。剣を抜く音だ。俺の村でそんな音を聞くことは、ほとんどなかった。だから異物として耳に残った。異物は、あとで思い出す。
母が俺を抱え込む。
胸の鼓動が速い。怖いからではなく、決めた人間の鼓動だ。人は「決める」ときが一番速くなる。
「レン。約束して。生きて」
その言葉で、俺は初めて「死」を想像した。
死は冷たいものだと思っていた。でも母の声は温かい。温かい声で言われると、死は急に現実になる。
そのときだった。
丘の上が白く光った。
火の赤ではない。月の白でもない。目を閉じても残る白――目の奥を焼く白。
光の中心に、誰かが立っていた。
白いマント。
風にほどける長い髪。細い肩。杖を握ってる。
白いマントが風を受け、裾だけがひどく揺れていた。布は引っ張られているのに、彼女の身体は動かない。
子どもの俺でも分かった。あれは村人じゃない。村の「現実」とは別の世界の人間だ。
(助けてくれる)
希望が立ち上がるのは、いつも速い。
速い希望ほど、裏切られるのも速い。
丘の上の誰かの背後で、低い声がした。
「……前に出るな」
命令の声だった。怒りでも優しさでもなく「手順」として出された声。
手順。あの夜から俺が嫌いになった種類の言葉だ。
「見れば迷う。迷えば死ぬ。……遠距離で終わらせろ」
白いマントの人影が、杖を持ち上げた。
肩が震えている。震えは、寒さじゃない。 怖さだ。
怖いのに――魔法陣は淡々と回り始める。
(やめろ、そんな大きいの――)
俺が叫ぼうとした時、母が俺を抱えて地面に押し倒した。
母の髪が顔に張りつく。煙と汗と、いつもの石鹸の匂い。
それが最後の「家」の匂いになった。
白い光が落ちる。
爆風が先に来た。
音は遅れてくる。
光は皮膚で見る。耳を塞いでも逃げられない。
視界が戻った時、世界は静かだった。
静かすぎて、逆に怖い。火が燃える音も、人の呻きも、一瞬どこか遠くに押しやられていた。
母が立っていた。
俺の前に。庇うように。
背中に、白い余熱が貼りついている。
「……レン」
口の形が見えた。声はほとんど聞こえなかった。耳が壊れたのかもしれない。
それでも、母の呼び方は分かった。いつもの呼び方だった。
次の瞬間、母の膝が崩れた。
崩れるのはゆっくりで、疲れて座るみたいだった。
土は冷たくて、母の手は動かなかった。
俺は母の肩を掴んだ。
温かいはずの肩が、ぬるい。ぬるいのに冷たくなっていく。
丘の上を見る。
白いマントの影がいた。
杖を落としかけて、両手で抱え直している。泣きそうな顔をしている――泣いていいのに、泣けない顔だ。
俺は、その顔をちゃんと見られなかった。
煙と涙と光の残像で輪郭が歪む。
でも「白い影」だけは、目に焼きついた。
影は、俺を見なかった。
見たら終わるからだ。そういう目をしていた。
そして――走って逃げた。
救いに来たはずの人間が逃げる。
逃げる背中が、やけに小さい。
俺は泥の中で拳を握った。
爪が掌に食い込み、遅れて痛い。痛いのに涙が出ない。
涙の代わりに、胸の奥で何かが乾いていく。
乾いたものは、燃えやすい。
「……魔王軍」
俺はそう呟いた。
本当の敵の顔なんて知らなかった。
でも憎む対象がないと、俺は母の死の上に立っていられなかった。
その夜、村は燃えた。
残ったのは――復讐だけだ。
そして、もう一つ。
「白い影」の背中が、俺の中で勝手に敵の形を取っていく。
あの名前も知らない少女が、いつか俺の前に現れる気がした。




