第9話 世界一可愛い後輩と熱冷めぬ日
年が明け、一月も既に四日が過ぎた。冬休みも残すところあと数日となったその日、俺は珍しく、手持ち無沙汰な午前中を過ごしていた。
あれからというもの、俺の冬休みは完全に櫻田によって支配されていた。クリスマスの翌日からは宣言通り、毎日毎日俺の家に押しかけてきては、鬼教官よろしく数学の指導が繰り広げられた。
本当、元日くらいは来ないと思ってたんだけどなあ。
そんな櫻田のスパルタ指導は苛烈を極めた。少しでも集中力が切れようものなら「センパイ、まさかもう根を上げたんですか? 情けないですねえ」と煽られ、同じ間違いを繰り返そうものなら「この問題、三日前にやったばかりですケド」とつつかれる。その度にもうやめたい、という思考が頭をよぎったが、不思議と、本気で投げ出そうとは思わなかった。
それはきっと、彼女がただ厳しいだけではなかったからだろう。俺が本当に理解できずにいると、彼女は呆れた顔をしながらも、手渡してくれたノートを適当に使い、分かるまで根気強く教えてくれた。その横顔は真剣そのもので、俺が問題を解けた時には、自分のことのように「やればできるじゃないですか」と、少しだけ嬉しそうに微笑むのだ。
......なんだろう、思い返すとDV彼女に手懐けられるようなだけな気がしてならない。
しかし、そんな日々を過ごすうちに、俺の数学に対する苦手意識はいつの間にか薄れていた。むしろ、解けなかった問題が解けるようになる快感すら覚え始めている。......非常に揺れる天秤だった。
いや、大丈夫。『手懐けられている』と感じているうちは、まだ大丈夫だ。
今日も、午前十時には櫻田がやってくるはずだった。しかし、約束の時間を三十分過ぎても、チャイムは鳴らない。あの時間を守ることに関しては人一倍うるさい櫻田が、連絡もなしに遅刻するなんて、今日の午後からは大豪雪だろうか。
「......まあ、来ないなら来ないで好都合だけどさ」
誰に言うともなしに呟くと、右手のペンをくるりと回し、机上に広げられた問題集に再び目を落とす。集中が途切れ途切れになり、理解度もいつもより低い。しかし、その分だけ束の間の休息が訪れる。......そう思っていたのだが、なぜだか、胸のざわめきは落ち着かない。
そんな状態のまま一時間が経過し、昼近くになっても櫻田は現れなかった。メッセージアプリを確認してみても、彼女からの連絡は一切ない。
さすがに、少しおかしい。
あいつに限って寝坊なんてことは考えにくいし、何か急用ができたのなら、一言くらい連絡してくるはずだ。まさか、事故にでも遭ったんじゃ......。
嫌な予感が頭をよぎり、俺はいてもたってもいられなくなった。焦りから、無意味にスマホのロック画面を付けては消してを繰り返す。.........これ以上待っていても埒が明かない。俺はスマホと財布だけをポケットに突っ込み、家を飛び出した。
冬の乾いた空気が、肺を一気に満たして冷やす。玄関を飛び出し、自転車に跨ると、俺は無我夢中でペダルを漕いだ。
......なんで俺が、こんなに必死になってるんだ?
頭の片隅で、冷静な自分がツッコミを入れる。あいつが来なければ、俺の冬休みは平和そのもの。静かで、誰にも邪魔されず、だらけきった時間を満喫できる。そう、望んでいたはずの日常だ。
それなのに。
櫻田のいない午前中は、最初は確かに天国のように思えた。だが、時間が経つにつれて、その静けさはただの味気ない沈黙に変わり、やがて居心地の悪い空虚感へと変化していった。
あいつの甲高い声。妙にいらつくドヤ顔。人のことを見下したような物言い。その全てが、いつの間にか俺の日常の、当たり前の背景音になっていたのだと、今更ながらに気づかされる。
くそ、調子が狂う。
俺は舌打ちを一つすると、それを誤魔化すかのように、ペダルを漕ぐ足に力を込めた。
少々息を切らしながら、見慣れたアパートの前に自転車を停める。乱暴にスタンドを立て、早足で目的の部屋の前に着いた。
一つ大きな呼吸を挟む。逸る心臓を落ち着かせようとするが、どくどくと脈打つ音は一向に静かにならない。仕方が無いので、そのまま意を決すると、インターホンのボタンを押した。
ピンポーン、と間延びした音が鳴り響く。しかし、中からの反応はない。もう一度、今度は少し長く押してみる。それでも、ドアの向こうは静まり返ったままだった。
まさか、留守なのか? そう思いかけた時、ガチャリ、と微かな音がして、軋む音とともに、ドアがゆっくりと開いた。
隙間から顔を覗かせたのは翔太君だった。パジャマ姿のまま、心なしか顔色が悪く見える。
「高瀬さん......どうしてここに」
「いや、櫻田が来ないから、何かあったのかと思って。もしかして、出かけてるのか?」
俺の問いに、翔太君は気まずそうに視線を彷徨わせた。
「あの......姉ちゃんなら、いますけど......その、熱を出しちゃって。昨日の夜から、ずっと......」
「熱? 櫻田が?」
予想外の言葉に、俺は思わず聞き返した。あの健康優良児の塊みたいな櫻田が?
「はい。でも、移しちゃうから高瀬さんには連絡をするなって姉ちゃんが......」
弱々しくそう告げる翔太君の目は、しかし、明らかに助けを求めていた。姉を一人で看ている不安が、その表情にありありと浮かんでいる。......ったく、あいつもあいつだ。昨日まで散々俺の部屋に居座っておいて、何が『移しちゃうから』だよ。移るならもうとっくに移ってるっての。
「馬鹿言え、そんな状態で放っておけるか。入れてくれ」
俺が少し強い口調で言うと、翔太君は一瞬びくりと肩を揺らしたが、やがて覚悟を決めたようにこくりと頷き、「......どうぞ」と俺を中に招き入れた。
家の中は、前に来た時とはまた違った静けさが漂っていた。翔太君に対して適当に礼を告げると、櫻田の部屋の前まで移動した。
ドアをノックするのは少し躊躇われたが、それも今更だろうと、コンコンコンと、力を抜いて木製のドアを叩く。冷たい家の中には、乾いた音がより大きく響いた気がした。
「櫻田、俺だ」
「せん、ぱい......? どうしてそこに?」
ドアの向こうから、乾いた咳の音が聞こえた。そして、普段のはっきりと通った声音とは似ても似つかない、か細い声が響く。
「......かえって、ください.........」
ドアのハンドルレバーを握った瞬間に、彼女はそう続けた。そこまで言われるとさすがに勝手に部屋へと入り込むのは躊躇してしまう。とはいえ。
「何でそこまで拒むんだよ」
「......こんな情けない姿、センパイに、見られたく、ないです......」
「何言ってるんだよ。病人なんだから情けなくて当たり前だろ。ほら、入るぞ?」
「う、うつりますから...............! センパイが、今以上に馬鹿になったら、私、責任取れませんよ......」
この軽口......こいつ、さては元気だな?
いやまあ、どう考えても最後の空元気なんだろうけど。言葉のキレもよろしくないし。
「お前に移されて馬鹿になるなら本望だぞ、俺は。というか、これ以上馬鹿になりようがないから安心しろ」
「冗談は......もういい、ですから。......帰って.........」
ううむ、なかなかに頑固だな。さすがに問答を繰り返しても埒が明かないだろうと、彼女の許可を得ないままに内開きのドアを、ガチャリと音を立てながら開ける。
部屋の中はカーテンが閉め切られて薄暗く、微かに薬の匂いがした。ベッドがこんもりと盛り上がっており、俺たちの気配に気づいたのか、布団がもぞりと動く。
俺はゆっくりとベッドに近づいた。布団の隙間から、真っ赤な顔をした櫻田が、潤んだ瞳でこちらを睨んでいる。その瞳は熱のせいか、それとも不法侵入者である俺たちへの怒りか。
「......なんで、勝手に入ってくるんですか......」
くしゃくしゃに跳ねてしまっている髪を必死に手ぐしで直しながら恨み節を口にする。しかし、全く覇気の無いその言葉にひるむわけもなく。
「お前が意地を張るからだろうが。......それにしても、凄く顔色悪いけど、熱は大丈夫なのか?」
重そうな瞼に、赤みがかった頬、乱れた呼吸を見て、思わず、手を伸ばして彼女の額に触れようとする。それは、ぱしり、と力なく払いのけられた。だが、その触れた一瞬だけでも、まるで湯湯婆かのような熱さが伝わってくる。
「......あの、ほんとに、移りますから......触らないでください......」
普段の威勢はどこへやら。その弱りきった姿に、俺は思わず言葉を失った。まさか、こいつがこんな風になるなんて。
ふと枕元を見ると、空になったペットボトルが転がっている。
「スポーツドリンクでも持ってきてやるから、ちょっと待ってろ」
まあ、とは言ってもこの家のものを拝借するわけだけど。リビングへと顔を出し、翔太君にスポーツドリンクと、ついでに額に貼るための冷却シートの場所を教えて貰った。それを持って、再び櫻田の部屋へと帰る。
「ほら、持ってきてやったぞ......って、すまん、寝てたか」
「いえ、大丈夫です......」
暗がりの中で気づかなかったが、俺がそう声を出すと彼女は重い瞼をゆっくりと開けた。
「......まあ、勝手に押しかけたことは謝るけどさ。俺にも少しくらいはお前の役に立たせてくれよ」
「センパイ......? ――ひゃっ」
思わず恥ずかしい一言を何気なく告げてしまったことに気づき、その照れ隠しをするかのように、これまた枕元にあったタオルで顔の汗を軽く拭い、額に冷却シートを貼った。
彼女の口からは小さく可愛い声が漏れた。普段ならすかさずからかってやるところだが、今はそんな気にもなれない。
「ほら、水分も取れ」
「......ありあとう、ございます」
ペットボトルを差し出すと、それを両手で丁寧に受け取った。しかし、震える手ではなかなかペットボトルのキャップを開けられず、開けられたとしても、不安定な手の動きは見ていられなかった。
「ああもう、ほら、貸してみろ」
櫻田からペットボトルを奪い取る。......というか、起き上がっているのも辛そうだな。
「......ちょっと失礼」
そう言いながら彼女の背中へと手を回すと、汗で蒸れた背中を支える。そして、彼女の乾いた下唇へと飲み口を当てると、小さく傾けて櫻田の喉へとスポーツドリンクを流し込む。
少しずつこくこくと喉を鳴らすその姿は、まるで小動物のようだった。
「.........ありがとう、ございます」
ぽつりと、小さく零す。
「飯はちゃんと食ってるか?」
「......今日は、朝から食べてない、ですね」
朝からか。ううむ、食欲がないのかもしれないが、あまりよろしくないな。俺は再び櫻田へと声をかけると、リビングへと移動した。
「翔太君、キッチン借りて良いかな」
「え、ええ。良いですけど......もしかして姉ちゃんのですか?」
「ああ、さすがに朝昼抜くのはちょっと良くないかと思って、簡単に粥でも」
「あ、あの! ......俺も、手伝っても良いですか?」
そんな積極的な言葉から、以前の翔太君とは大違いだと少し笑みがこぼれる。もちろん断る理由もないだろうと、それを受け入れて、二人でキッチンへと向かった。
冷蔵庫の中身を確認し、冷凍ご飯、卵、ネギ、既製品のだしつゆを取り出し、櫻田が完全に寝てしまわないように、さっさと調理を進める。
土鍋でことことと炊いた、ふっくらとした卵がゆ。仕上げに翔太君が切っておいてくれた青ネギを散らし、少し蒸らしたら完成だ。それにしても、指を負傷したことがあるとは思えない翔太君の包丁さばきには驚かされた。......まあ、ただネギを切っただけと言えばそれまでだけど、成長していることには違いない。
取り分け用のお椀とレンゲを盆に乗せ、三度櫻田の部屋へと戻る。
「......いいにおいです」
今度は完全に起きていた櫻田は、すんすんと匂いをかぐとそう呟く。少しでも食欲が湧いたのならよかった。
「ちょっとしんどいかもしれないけど、壁にもたれ掛かるようにして座れるか?」
そう問うと、彼女は素直にそれを聞き入れ、おもむろにむくりと身体を起こす。少し手助けをしながら、なんとか方向転換が完了した。
「一人で食べる......のは、ちょっと難しさしそうだな」
ベッドの前で膝立ちをすると、盆をベッドに置き、お椀に少量の粥を掬う。そして、ふうと息を吹きかけて冷ます。
「ちょっ......センパイ、それくらいは、自分でできます、から......」
「はいはい、強がらない。......ほら、あーん」
未だに抵抗する弱々しい櫻田の手を軽くいなすと、お椀を彼女の口元まで持って行き、小さく開かれた口にレンゲを運ぶ。
櫻田は、されるがままに、ゆっくりと粥を口に含む。もぐもぐと、力なく咀嚼する姿は、やはり普段の彼女からは想像も付かない。
数口食べたところで、櫻田がぽつりと呟いた。
「......おいしい、です」
「そうか、そりゃよかった」
素直な感想に、俺も少しだけ安堵する。
静かな部屋に、レンゲと土鍋が当たる音だけが響く。やがて、櫻田が顔を上げて、まっすぐに俺を見つめてきた。
「......なんで、ここまでしてくれるんですか」
「......お前がこうも弱ってると、調子狂うんだよ」
「............」
「それに、さっきも言っただろ? お前には何かと世話になってるからな。......数学、教えてもらってるし」
ううむ、やはり気恥ずかしい。櫻田ほどではないが、顔が火照る。俺はふと少し視線を逸らした。
すると、櫻田は自嘲するように、ふっと笑みを漏らした。
「......私、世界一可愛い後輩、失格ですね。センパイにこんなお世話になるなんて......。自己管理も、ちゃんとできてない......」
弱々しくそう言う櫻田に、俺は少し呆れたように、そして、どこか優しい声色になっているのを自覚しながら言った。
「そこに何の関係があるんだ。『世界一可愛い後輩』なら風邪引かねえってか? んなわけあるか。お前はただの人間だよ」
俺の言葉に、櫻田は大きく目を見開いた。熱で潤んだ大きな瞳から、ぽろり、と一筋の涙が静かにこぼれ落ちる。
さすがにこんなところで泣かれるのは予想外で少し驚く。
「............センパイって、ほんと......ズルいです」
そう言って、ふっと弱々しく、けれど心の底から安堵したような、そんな笑みを浮かべた。
おかゆを半分ほど食べ終え、薬を飲んだ櫻田は、安心したのか、とろんとした目で再びベッドに横になった。俺も役目は終えたと、部屋を出るために静かに立ち上がる。
その時だった。
布団の中から伸びてきた手が、俺のパーカーの裾を、きゅっと、弱々しく掴んだ。
「......もう少しだけ......ここに、いてくれませんか......?」
振り返ると、櫻田が不安そうな瞳で俺を見上げている。そのか細い声と潤んだ瞳のコンボは、反則だろう。
俺は、どうしようもなく大きく、そして深く息を吐いた。
「......仕方ねえな。お前が寝るまでだぞ」
再び床へと腰を下ろし、静かに彼女を見守る。
やがて、すうすうと穏やかな寝息が聞こえ始めた。規則正しい呼吸に合わせて、布団が小さく上下している。普段の騒がしさが嘘のような、あどけない寝顔。
俺は無意識に手を伸ばし、その額にかかった前髪をそっと払いのけた。指先に触れた肌は、やはり少し熱い。
しばらくして、俺は静かに部屋を出て、翔太君に後のことを頼んだ。
「何かあったら、今度はすぐ連絡してくれよ?」
「はい。高瀬さん、本当にありがとうございました」
深々と頭を下げる翔太君に「それじゃあ」と手を振り、俺は櫻田家を後にした。
外に出ると、いつの間にか傾き始めた太陽が空を茜色に染めていた。冬の冷たい空気が、火照った俺の頬に心地よい。
自分の心の中にも、彼女の熱が移ってしまったかのような、不思議な温かさがあることに気づく。
「......まったく、さっさと元気になってくれよな、『世界で一番可愛い後輩』サンよ」
俺は空を見上げて誰に言うともなくそう呟くと、自宅への道をゆっくりと歩き始めた。
明日からはまた、騒がしい日常が戻ってくる。それを、ほんの少しだけ楽しみにしている自分が、確かにそこにいた。