第8話 世界一可愛い後輩と聖なる夜
「はあ.........」
十二月二十四日、クリスマスイブ。
街が赤と緑のイルミネーションで彩られ、恋人達が浮かれ気分で肩を寄せ合うこの聖なる日に、俺は自室のベッドの上で、天井の木目を数えるという非常に生産性の低い行為に時間を費やしていた。
二学期の期末テストも、赤点ギリギリの科目がいくちかあったことを除けば無事に終わり、待ちに待った冬休み。本来ならば、積みゲーを消化し、溜め込んだアニメやドラマを観て、食って寝ての自堕落な生活を満喫しているはずだった。
しかし、現実は非情である。俺の眼前には、分厚い数学の問題集が、まるで「俺から逃げられると思うなよ」とでも言いたげなオーラを放って鎮座している。
「あの野郎、人の冬休みを何だと思ってやがるんだ......」
元凶はもちろん一人しかいない。
時は遡り十二月の頭。もともと受ける予定すらなかった秋の模試の結果が返ってきたのだ。勝手に買われた言葉とは言え、俺なりに真面目に取り組んだつもりだった。櫻田のスパルタ指導のお蔭もあって、自分でも驚くほどに問題が解けるようにはなっていたのだ。
しかし。
「57.6かあ......」
五月の偏差値と比較すれば、それはもう奇跡的な伸びと言って良いだろう。俺自身、解き終わった時には内心ガッツポーズをしたし、櫻田も「まあ、私の指導があれば当然の結果ですけどね!」とドヤ顔をしつつも、どこか満足げだった。
とはいえ、櫻田が担任に啖呵を切った時に用いた数字は『60』。
2.4ポイントの差は看過して貰えず、俺の冬休みの課題は見事に五倍......とはならなかった。さすがに担任も鬼ではなかったようで、冬休みの宿題は他のクラスメイトと同じ量で、『次にもう一度同程度の成績を取れたら春休み中の追加課題は免除にしてやる』と言ってくれた。
が、正直数分たりとも勉強したくない俺にとっては、その提案は決して甘いものじゃなかった。現に、あれだけ増加していた数学力は日に日に単調減少している。
『というわけでセンパイ! 私の冬休みを、センパイの学力向上のために捧げてあげます! 光栄に想ってくださいね!』
終業式の日、満面の笑みでそう告げた櫻田の顔を思い出して、俺は再び深いため息をついた。俺の冬休みは、こうして『世界一可愛い後輩』によってジャックされることが決定したのである。
まあ、あいつもあいつなりに責任を感じてそう提案してきた部分もあるのだろうが......はあ、なんだかなあ。
ピンポーン
感傷に浸っていると、玄関のチャイムが鳴った。ふと壁がけの時計を観ると、その時刻は午後一時。約束の時間だ。
俺は重い腰を上げて玄関に向かい、ドアを開ける。そこに立っていたのは、白いダッフルコートに身を包み、赤いマフラーを巻いた、いかにも女の子な冬の装いをした櫻田だった。
「こんにちは、センパイ。......って、うわ、まだパジャマですか。だらしないですねえ」
「うるせえ。人の家の格好にいちいち文句つけんな。てかお前、なんだその格好は。今日の夜は彼氏とデートか?」
「ふふん、残念でした。今日のデート相手は、この私に劣らず世界一可愛いうちの弟と、それから......まあ、仕方なくセンパイも、って感じですかね」
そう言いながら、にひひ、と寒さで赤らむ顔に笑みを浮かべた櫻田の手には、大きな紙袋が握られていた。中からは、ほんのりと甘い香りが漂ってくる。
「なんだそれ」
あえて言葉にはツッコまずに話を続ける。すると、櫻田は持ち手をそれぞれ両手に掴むと、ぱかりと中が見えるように広げた。
「クリスマスケーキですよ。昨日の夜、翔太と一緒に作ったんです。センパイの分も、一応持ってきてあげました。感謝してくださいね」
「へえ、それは嬉しい......って、おい。今日って勉強するんじゃなかったのか?」
「もちろんしますよ? でも、今日はクリスマスイブじゃないですか。たまには息抜きも必要でしょう。というわけで、『高瀬碧唯くん、クリスマスぼっち回避大作戦』を決行します!」
「なんだそのふざけた作戦名は。俺は別にぼっちでも何でも良いよ」
「またまた強がっちゃって~。本当は、私や翔太とクリスマスパーティーができるのが嬉しくてたまらないくせに」
呆れて言葉を失った俺に対して、彼女はずかずかと家に上がり込み、慣れた足取りでリビングへと向かっていった。想定外の出来事であったが......まあ、一日くらいはそんな日があっても悪くない、か。
何より、櫻田の手作りケーキは以前食べたことがあるが、本人の性格とは真反対なまでに繊細な味でとても美味だった。それを天秤にかければ、櫻田の騒がしさもギリギリ耐えられるだろう。
「それで、翔太君は?」
櫻田を追いかけるようにしてリビングへと向かう傍らに問う。
「もうすぐだと思いますよ。あの子ったら、私がセンパイの家に行くって言ったら付いていきたいって聞かなくて。きっと、姉を一人で男の家に送り込むわけにはいかないとか思ってるんでしょう。ふふ、可愛いですよね」
「いや、お前が粗相しないか心配してるんだろ」
「む、そんなことはないです。私、家では完璧なお姉ちゃんですから」
「あー......まあ確かに、『家では』な」
そんな軽口を叩いていると、再びチャイムが鳴った。きっと翔太君だろう。
ドアホンに出ることなく返事をし、ドアを開けると、そこには少し緊張した面持ちの翔太君が立っていた。
「こ、こんにちは、高瀬さん。お邪魔します」
「ああ、久しぶり。まあ、上がってくれ」
翔太君をリビングに招き入れると、櫻田は「遅かったね」と若干口を尖らせる。
「ごめん、姉ちゃん。途中でプレゼント買うのに手間取っちゃって」
「プレゼント?」
「うん。高瀬さんと、姉ちゃんに」
そう言って翔太君が取り出したのは、二つの小さな包みだった。一つを俺に、もう一つを櫻田に手渡す。
「え、俺にまで? 弱ったな、何もお返し用意してないや」
「いえ、いつも姉がお世話になってるので......大したものじゃないですけど、受け取ってもえたら」
「そうか......それなら遠慮なく」
一瞬、翔太君の『姉がお世話になっている』という言葉に同調しそうになったが、さすがに彼の目の前で言う必要はあるまいと口を噤んだ。
包みを開けると、中から出てきたのはシンプルなデザインのマグカップだった。
「いいね、耐熱カップは持ってなかったから嬉しい。大切に使わせてもうよ」
「そうですか、それはよかったです」
どこかほっとしたようにはにかむ翔太君。一方、櫻田はというと、翔太君からのプレゼントを開けて固まっていた。
「......翔太、これ」
「うん。姉ちゃん、いつも俺たちのために頑張ってくれてるから。たまには自分のためにお金使ってほしくて」
櫻田が手にしていたのは、可愛らしい花柄のハンドクリームとリップクリームのセットだった。自分のことより、いつも家族を優先する姉を気遣った、翔太君なりのプレゼントなのだろう。
「......ありがと。嬉しい」
そう言って微笑む櫻田の顔は、いつもの自信満々なそれとは違う、本当に嬉しそうな、優しい姉の顔をしていた。こういう顔を見ると、こいつにも良いところがあるんだよな、と再認識させられる。
しかし、そんなまじまじと注いでいた視線を察知されてしまっていたようで、ふとこちらを向くと、たちまちジト目を作った。
「......センパイ、私は見世物じゃないですよ」
「はいはい、ごめんごめん」
「ほんとに謝る気あります?」
「うーん......どちらかといえば、ない」
「あ~~~、もういいです。センパイ抜きでクリスマスパーティを始めちゃうんですから」
頬を膨らませながらそう言うと、櫻田は脇目も振らずに、宣言通りパーティの準備を始める。口ではこう言っているが、まあ、その大半はただの照れ隠しのようなものだろう。
テーブルの上には、櫻田と翔太君が作ってくれたという、見事なデコレーションの施されたクリスマスケーキ。それに加えて、俺が慌てて買い置きのポテチやジュースを並べる。お世辞にも豪華とは言えないが、三人で囲むには十分すぎるパーティーの準備が整った。
「......さて、それでは」
櫻田がすっとグラスを持ち音頭を取るので、それに乗っかるようにして俺と翔太君もグラスを持った。
「「「メリークリスマス!」」」
カチンと、互いのグラスを軽く合わせる。
早速、目の前の、切り分けられたケーキにフォークを入れ、口に運ぶ。ふわふわとしたスポンジに、絶妙な甘さ加減の生クリーム。うん、やっぱり美味しい。翔太君の料理の腕も、あの夏の日から比べると格段に上がっているらしい。
「どうですセンパイ、美味しいでしょう?」
「ああ、美味い。店で売ってるやつみたいだ」
「そうでしょうそうでしょう。なんたって私たちが丹精込めて作ったんですから」
「翔太君も、随分料理が上手になったみたいだね」
「俺は......ただ姉ちゃんに教えてもらった通りにやっただけですから」
「またまたあ、調子の良いこと言っちゃって」
そう言いながらも、櫻田はいつも以上に優しい表情を浮かべる。
そんな和やかな会話をしながら、パーティーは進んでいく。
学校での話、翔太君の中学での話、最近ハマっているゲームの話。普段、俺が誰かとこんなに気兼ねなく話すことなんてない。留年してからというもの、人との間に無意識に壁を作ってしまっていた俺にとって、この時間は不思議と心地よかった。
櫻田は、学校にいる時のように俺をからかったりもするが、翔太君が一緒だからか、どこかその棘は丸い。まるで、猫がじゃれる時の、爪をしまった肉球のような、そんな優しさを感じた。......まあ、さすがに直接そんなことは言わないけど。
パーティが一段落し、翔太君が「ちょっとお手洗いに」と席を立ったタイミングで、櫻田がふと真面目な顔で問いかけてきた。
「......センパイ次の模試、本当に大丈夫そうですか?」
「さあな。お前の指導次第だろ」
「そんな他人事みたいに言われても......。でも、センパイが途中で投げ出したりしないっていうなら、私もちゃんと付き合ってあげます」
「まあ、櫻田がそこまで言うなら......」
「約束もしましたからね、当たり前です」
「......約束? 何かしたっけ」
「えー? 覚えてないんですかあ?」
心底ショックを受けたと言わんばかりに顔を歪める。しかし、そんなことを言われても、そんな顔をされても、覚えていないものは覚えていない。
そう、彼女も察したのだろう。小さく溜息を吐くと、目線をテーブルへと落としながら続ける。
「夏休み前の終業式の日、『もう何からも逃げない』って言ってたじゃないですか。私はちゃーんと覚えてましたよ」
そういえば、そんなことを言っていたな。恥ずかしすぎて無理矢理殺そうとした記憶が、彼女が零した一欠片の言葉によって復元される。
『これ以上、もう何からも逃げない。勉強はさることながら、お前のパシリという名の夏休みも満喫してやる!』
なんともまあ、大層なことを口走ったものだ。......いや、今思えば、あの日は酷暑だったし、きっと熱中症の症状じゃないかな。意識が朦朧としていた気がする。多分、おそらく。
とはいえ、そんなことを口走るというのも何とも格好悪く、それが言葉として音になることはなかった。
そんな俺をよそに、櫻田はまだ言葉を続ける。
「あの時のセンパイ、ちょっとだけカッコよかったですよ。ほんの、ちょっとだけですけど」
「るっせえ」
「からかいじゃなく、こればかりは私の本心なんですケド......まあ、それはいいです。だから、私も本気で付き合ってるんです。センパイが逃げないって言うなら、私も、センパイを逃がしませんから」
まっすぐな瞳で、そう告げられる。その視線に、俺はなぜか目を逸らすことができなかった。
こいつは、ただ俺をからかって遊んでいるだけじゃない。俺が自分自身と向き合うのを、本気で手伝おうとしてくれている。その事実が、ずしりと重く、それでいて温かく、俺の胸に響いた。
「まあ良いさ。現状維持と言わず、今度こそ偏差値60を取ってお前も、担任もぎゃふんと言わせてやるよ」
「へえ、大きく出ましたね。その言葉忘れないでくださいよ?」
そう言って笑う櫻田の顔は、いつもの憎たらしい笑顔のはずなのに、今日だけは、なぜか少しだけ、輝いて見えた。外から射し込む、淡いクリスマスのイルミネーションのせいか、それとも。
やがて翔太君が戻ってきて、パーティーは再開された。
その後も、くだらないテレビ番組を見て笑ったり、三人でスマホの対戦ゲームで盛り上がったりと、穏やかな時間は過ぎていく。
外がすっかり暗くなり、名残惜しそうに櫻田と翔太君が帰り支度を始めた時だった。
「あ、そうだセンパイ。これ、私からのクリスマスプレゼントです」
そう言って櫻田が差し出したのは、ラッピングされた数冊のノートだった。
「なんだこれ。問題集か?」
「違いますよ。私特製の、秘伝の数学ノートです!」
「秘伝のノート?」
「はい。まあ、秘伝とは言っても、私が今までに使ってた、ただの数学の要点をまとめたノートなんですけどね。教科書より分かりやすくまとめてあるはずなので、理解の助けにはなると思いますよ」
「......そんなもの、貰っちゃってもいいのか?」
「まあ、私にはもう必要ないですし。それに、これは『投資』ですから」
「投資?」
「はい、ここでセンパイに無事進級してもらわないと、来年、私が誰で遊んだらいいか分からなくなっちゃいますからね!」
けらけらと、悪びれもなく実に楽しそうに笑う。
まあ、そんなことだろうとは思ったけど。もしかしたら、さっきまでのしおらしい雰囲気は、聖なる夜が見せた幻だったのかもしれない。
だが、そのノートを受け取った時、ずしりとした重みと共に、確かな温かさが手のひらに伝わってきた。ラッピングを解き中を見ると、そこにはびっしりと書き込まれた文字や図。丁寧に引かれたマーカー。これが、一夜漬けでできるものではないことは、一目見ただけで分かった。
「......まあ、櫻田がそこまで言うなら使ってやるよ」
「はい、是非そうしてください。......それじゃあ、明日も来ますから」
「え、明日も来るのかよ!?」
「当たり前じゃないですか。私の大事な冬休みを、センパイのために使ってあげてるんですから。明日からはビシバシ行きますよ! 覚悟してくださいね!」
そう言って、嵐のように櫻田と翔太君は帰って行った。
一人になったリビングは、急に静かになり、少しだけ寂しく感じた。テーブルの上には、結局余ったままの一切れのケーキと、空になったジュースのペットボトル。そして、俺の手元には、一つのマグカップと、三冊のノート。
俺は、櫻田からもらったノートを、改めてパラパラとめくってみる。家事の隙間を縫って、綺麗に作り上げられたノートを眺めていると、彼女が見えないところで、ちゃんと努力しているやつなんだと再確認させられる。
「......やってやろうじゃねえか」
俺はノートを閉じ、後片付けをすると、自室へと向かい早速机に向かった。
聖なる夜は、まだ終わらない。俺の冬休みは、今日、本当の意味で始まったのかもしれない。
世界一可愛くて、世界一厄介な後輩との、長くて短い冬休みが。