第7話 世界一可愛い後輩が俺にだけ構ってくる理由(仮)
「......だから私は、今日を以てこの性格を捨てようと思ったんです」
「なっ......!?」
彼女が淡々と紡いだ言葉に、思わず声を漏らしてしまう。話の腰を折りたくはなかったが、そんなことを考える前に口が勝手に動く。
こいつは、今自分が言った言葉の意味を解っているのだろうか。
この性格を、捨てる?
それはつまり、あの鬱陶しいくらいにやかましくて、腹が立つほどに自信家で、それでいて時々妙に鋭くて、俺の日常を嵐のようにかき乱す、あの『櫻田詩乃』がいなくなる、ということ。
櫻田の性格が、彼女自身が言った昔のようになったら、きっと............
...............きっと、何が起こるんだ?
全く、想像がつかなった。
いや、想像しようとして、脳がそれを拒絶している、と言った方が正しいのかもしれない。
勿論、彼女の性格が一夜にして変わってしまうことも想像に難い。しかしそれ以上に、それによる環境の変化が、どうも見当が付かないのだ。
昼休みになれば、当たり前のように俺の席にやってきては行われる小言もなくなる。放課後になれば、「センパイ、暇ですよね?」の一言で、俺の予定を無視して面倒事に引きずり込むこともなくなる。意味もなくパシリにされ、理不尽に金を巻き上げられ、それでいて時々、本当にごく稀に、俺のことを心配してくれることも、全部。
全部、なくなる。
それは、平穏な日常が戻ってくるということだ。俺が本来望んでいたはずの、静かで、誰にも干渉されない、空気のような高校生活。留年した俺にとって、それこそが最も波風の立たない過ごし方のはずだった。
それなのに。
どうして俺は、その変化を、心の奥底から明確に拒絶しているのだろうか。まるで、自分の体の一部をもぎ取られるかのような、途方もない喪失感を予感している。
だが、今の二人の関係が何で、それがどう変化してしまうのか、ということすら分かっていないのに、なぜ俺はそんなことを思ったりしたのだろうか。
彼女は.........彼女は俺にとって、一体どんな存在なんだ.........?
友達? うーん、何だかしっくりこない。男友達とは違うし、かといって、一般的な男女の友人関係ともかけ離れている。
ただの後輩? いや、それも違う。彼女は何故か自ら敬語を使用しているが、年齢が一つ違うだけで、もはや『後輩』ですらないのだ。
くるくるくるくると、頭の中ではそんな考えが渦巻く。一向に答えの出ないそんな問いは、俺の思考を深くに沈めた。
そんな俺のとなりに座る櫻田は、俯いたままピクリとも動かない。まるで、俺からの判決を待つ被告人のように。その姿が、やけに小さく、儚く見えた。
「.........先輩。ちょっと聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
不意に、沈黙を破ったのは櫻田の方だった。向こうから話題を振られるというのは、正直願ってもないことだった。俺は黙って首肯する。
「先輩は先ほど、『俺は櫻田の何なんだ』と聴きましたよね。それに対して、私はまともな解答ができませんでした。そんな私がこう聞くのもどうかとは思うんですけど......」
彼女は一度言葉を切り、すうっと小さな息を吸った。そして、先ほどよりも少しだけ芯のある、けれど震えを各仕切れていない声で、俺に問いかける。
「.........私は、先輩にとって何ですか?」
「...............」
そんな言葉に、思わず言葉が詰まる。心臓を鷲掴みにされたかのような衝撃だった。
それは、まさに今、俺が自問自答していたことそのものだったのだから。
俺にとっての、櫻田詩乃。その存在を定義する言葉を、俺は持ち合わせていなかった。
俺がだんまりのままでいると、櫻田は自嘲するかのように、ふっと息を漏らした。その乾いた笑いが、やけに哀しく響く。
「......答えられない、ですよね。だって、先輩にとっての私なんて、きっと『面倒で鬱陶しいだけの後輩』でしょうから。......でも、その口からはそんなこと言えないでしょう?」
「いや、それは.........違う」
思わず、否定の言葉が口をついて出た。
違う、それだけじゃない。もっと、何か別のものが.........
だが、その『何か』を言葉にできない俺に、彼女は静かに首を横に振った。
「無理しなくてもいいんですよ、先輩」
「.........」
「私、先輩をいじったり、からかったりするのがすごく楽しかったんです。先輩が困った顔をしたり、呆れた顔をしたりするのを見るのが、いつの間にか私の日常になっていて。少なくとも、学校にいる間だけは、私の望む『櫻田詩乃』で居れるような気がして。
でも、今日、あの二人を見て、ふと、気づいたんです」
彼女の声が、震え始める。その肩も、小刻みに揺れていた。
「私がしていることって、結局、あの子たちが私にしてきたことと同じなんじゃないかって。弱い立場の人間を見つけて、それをいじって、自分の優位性を示して、楽しんでいる。......そんなの、最低じゃないですか。私が一番嫌いだった人間と、同じじゃないですか......!」
「櫻田......」
ああ、そうか。こいつは、そんなことを一人で苦しんでいたのか。
自分を変えたいと願って作り上げた鎧は、ただでさえ違和感だらけだったのに。あまつさえ、それを誰かに肯定されて、自分が嫌っていたはずの相手とそっくりだと気づいてしまった。
こんなに苦しいことがあるだろうか。
「私が文句を言う資格なんて、なかったんですよね。だから、もうやめようって。こんな偽物の自分で、誰かを傷つけるくらいなら、昔の、誰にも迷惑をかけない自分に戻った方が良いって......そう思ったんです」
降り始めの雨粒のように、一滴、また一滴と零される彼女の胸の内。
彼女がなぜ俺に構ってきたのか。その理由の一つは、過去の自分を乗り越えるために創り出した『新しい自分』を維持するため。だが皮肉なことに、その行動こそが、彼女自身を深く傷つける刃になっていた。
偽物の自分。彼女はそう言った。
その言葉が、俺の胸に妙に引っかかった。本当に、そうだろうか。
「......なあ、櫻田」
「......はい」
「俺は、そんなことは無いと思う」
俺が放った言葉は、自分でも驚くほど、力強く、そしてはっきりと響いた。俯いていた櫻田が、弾かれたように顔を上げる。その潤んだ瞳が、西に傾き始めた陽光を反射してきらめきながら、まっすぐに俺を捉えた。
「お前がやっていることとあいつらがやっていたことは、全然違うだろう」
「で、でも私......先輩に酷いことばかりして......パシリにしたり、馬鹿にしたり......」
「まあ、それについては否定しないけどさ。......悪いところばかりを見ていても仕方が無いと思うぞ」
「え......?」
「サッカーに誘ってくれたり、壊滅的な成績だった数学を教えてくれたり。そういう『優しさ』は、紛れもなく櫻田の良いところだと思う」
「そ、それは......本気で落ち込んでいる先輩の顔なんて見ても面白くないですし、それに、補習なんてことになったら私の相手をしてくれる人がいなくなっちゃうじゃないですか。......結局、全部自分のためなんですよ」
「それなら、今日はどうだ? 俺が二年のフロアに行きたくないって顔してるのを、ちゃんと察してくれた。......そして、さっきだって、あいつらにあんなこと言われてる俺を見て、俺のために、怒ってくれたじゃないか。お前はさまた否定するかもしれないけどさ。正直、一切の出任せだとしたら、あんな咄嗟に口からは出ないだろ」
俺は、一息にそこまで言うと、改めて彼女の目を見据えた。
「あいつらとお前は、全然違う。あいつらは、ただ何も知らない相手を見下して、一方的に傷つけて笑ってただけだ。でもお前は、ちゃんと俺を見て、俺のことを分かった上でからかって、そして......時には、助けてくれた。俺が本当に嫌がる一線は、お前、一度だって越えなかったじゃないか」
そうだ。こいつの絡みはいつだって、うざくて面倒くさかったけど、不思議と、本気で嫌だと思ったことは一度もなかった。それはきっと、こいつの行動の根底にある、不器用で分かりにくい優しさみたいなものを、俺がどこかで無意識に感じ取っていたからだ。
「私が......先輩を、分かってる......?」
「ああ。俺が思うに、だけどな。......だから、お前は偽物なんかじゃない。明るくてうるさいお前も、家で弟の面倒を見る優しいお前も、今みたいに泣きそうになってるお前も、全部含めて、『櫻田詩乃』なんだろ」
俺の言葉に、櫻田の瞳から堰を切ったようにぽろり、と一筋の涙がこぼれ落ちた。彼女は慌ててそれを手の甲で拭うが、次から次へと溢れ出してくる雫を、止めることはできないようだった。
そして俺は、彼女が最初に投げかけてきた、あの質問に答える時が来たと悟った。
こんなキザなセリフ、柄にもないことは分かってる。でも、今、こいつに掛けるべき言葉は、これしかない。
「さっき、『私は先輩にとって何ですか?』って聞いたよな。.........そんなの、決まってるだろ」
俺は、少しだけ意地悪く笑って、わざとらしく間を置いた。
「お前、いっつも自分で言ってたじゃないか」
彼女がしゃくり上げながら、息を呑むのが分かった。
「お前は、俺にとって『世界一可愛い後輩』だよ」
その言葉が、夕暮れのグラウンドに静かに溶けていく。
櫻田は、大きく目を見開いたまま、しばらく固まっていた。その表情は、驚きと、困惑と、それから......ほんの少しの安堵が入り混じったような、複雑な色をしていた。
やがて、彼女の唇がゆっくりと、震えながら動く。
「先輩............」
勢いのままに言ってしまったが、何とも気まずい。このまましんみりした空気で終わってしまうのだろうか。気恥ずかしさで死んでしまいそうだ。
そう思った、次の瞬間だった。
「.........そう......ですよね! 私はセンパイによって、『世界一可愛い後輩』なのです! いやあ、私としたことが、すっかり忘れてしまっていました。危ない危ない」
ぱん、と効果音がつきそうな勢いで、彼女はまだ濡れている自分の両頬を力強く叩いた。そして、いつもの、あの妙にいらつく満面の笑みを浮かべて、高らかに宣言する。
しかし、それはやはり創られたものなのだろう。口角がふるふると震えてしまっている。だが、そんな野暮なことは言わない。彼女がそうしたいと創ったのなら、それがきっと正解なのだ。
むしろ、今に限っては、彼女のペースに乗ってあげようとすら感じる。無理矢理に声色を明るくして、告げる。
「......ほんとにね、しっかりしてくれよ? 俺の世界一可愛い後輩サン」
「だーれが『センパイの』世界一可愛い後輩ですか! 私はその名の通り、世界で、一番可愛いんですよ!」
「はいはい、さいですか」
まったく、調子の良い奴だ。もはや、さっきまでしゃくり上げて泣いていた櫻田は見る影もなかった。けれど、そんないつもの調子に戻った彼女に、俺の口元は自然と緩んでいた。
ああ、そうだ。こいつはこうでなくっちゃ。鬱陶しいくらいが、ちょうどいい。
すっと立ち上がった櫻田が、俺に向かって手を差し伸べる。
「さあ、センパイ。もういい時間ですし帰りましょう! 今日の文化祭は散々でしたけど......まあ、お互いに意外な一面も見れましたし、よしとしましょう!」
「意外な、ね。まあそういうことにしてやるか」
「あ、でもセンパイがよく分からないところで格好つけるのはいつものことでしたね」
「お前なあ、黙って聞いてりゃもう元通りかよ。大体櫻田は――」
「――ほら、さっさと行きますよ!」
「おいっ――!」
差し伸べるだけだった手がさらに俺の方に伸ばされ、遂には俺の前腕を力強く掴むと、ぐいっと引っ張り上げた。仄かに温かく汗ばんだ、生々しい感触を無理矢理に味わわされた。
二人並んで、外部の人間がいなくなり人影の少なくなった校舎へと戻っていく。夕陽が俺たちの影を長く伸ばしていた。気づけば、スマートフォンにはクラスメイトからのメッセージが数件届いていた。
『片付けにも来なくて大丈夫だから』って、これ絶対怒ってるよな。また明日土下座でもして謝ろう。......櫻田にはバレないように。
「.........あの、センパイ」
昇降口へと向かう途中、俺がそんな風にスマホに夢中になっていると、少し先を歩く櫻田は不意に振り向き、小さな声で呼びかけてきた。
「さっきは、その.........ありがとうございました」
ぼそりと呟かれた言葉は、本当に小さくて、夕暮れの喧騒にかき消されてしまいそうだった。いつもの自信満々な声色とは違う、素直な響きに、俺は少しだけ心臓が跳ねるのを感じる。
「......まあ、別に大したことじゃねえよ」
俺は少し視線を逸らし、ぶっきらぼうに返すのが精一杯だった。
本当は、全然大したことじゃなくなんてなかった。俺にとっても、きっと彼女にとっても。
俺と櫻田の、訳の分からない関係。その答えが、ほんの少しだけ、見えたような気がした。
『世界一可愛い後輩』が俺にだけ構ってくる理由。
その答えはまだ、正直こうだと断定出来るようなものじゃあないかもしれない。
それでも、今はそれでいい。この面倒くさい日常がもう少しだけ続くのなら、悪くない。
そんなことを思った、文化祭の終わりだった。