第4話 世界一可愛い後輩とその弟
「——さて、今日はこれくらいにしておきましょうか。お疲れさまでした、センパイ」
「.........ある程度は覚悟していたとは言え、一日四時間も数学をするのはきついなあ」
ここが他人の家だというのことも忘れて、極度の疲れに床に倒れ込むようにして仰向けに寝転がる。そんな様子を見て、櫻田はどこか同情するかのような苦笑いを浮かべた。
「どんな目をして俺を見ているんだ」とでも言ってやろうかと思っていると、俺が言葉を発するより前に、彼女は何かを思い出したかのようにして言葉を紡ぎ始めた。
「そうだセンパイ。もし良かったら私が焼いたケーキを食べません?」
「.........ケーキ?」
「はい。もうすぐお母さんの誕生日があるので、その時の練習として焼いてみたんです」
「なるほど......なら毒は盛ってなさそうだな」
「センパイ、それ私以外の女の子に言ったら最悪泣かれますからね?」
「ああ、安心してくれ。相手がお前だから言ったんだ」
「それはそれでどうかと思いますケド。............それで、どうします? 食べますか?」
「うーん、そうだな.........じゃあ、お言葉に甘えていただこうか」
「はーい。じゃあちょっと待っててくださいね」
そう言い残し、櫻田は自室を去っていった。ドアがバタンと閉まる音を聞くと同時に、俺は再び床に倒れ込み、ため息とも言えないなんとも情けない息を吐いた。
夏休みが始まってから早二週間弱。そろそろ七月も終わり、本格的な夏が訪れようとしている今日この頃。俺と櫻田は、終業式の日の約束の通り、毎日勉強会を開いているのであった。
そのスケジュールとしては、毎日朝八時に櫻田の家へと出向き、そのまま四時間、櫻田が家庭教師よろしく俺に数学を教える。そして持参した昼食を食し、午後からは櫻田のパシリになるというのが定跡と化している。
まあ、パシリとは言っても、『庭の草むしりをしてくれ』だったり『買い物の荷物持ちをしてくれ』だったりと、そこまでキツくないものが大半なので、あの質の授業をそれだけの代償で受けられるのなら、そこまで悪いものではないのではないか思い始めている。
.......授業中、間違えたり分からないところがあったら鬼のように煽ってくることを除けば、だが。
「さて、じゃあそろそろ昼飯でも食うか」
ひとしきり伸びをした俺は、おもむろに起き上がり、リュックを漁る。そして中から行きがけに買ってきたおにぎりを取り出し、包装を破き始める。櫻田お手製のケーキは、食後のデザートにでも頂くとしようか。
なんだかんだ楽しみにしているケーキを待ちながら、俺はおにぎりを頬張る。......それにしても、櫻田の帰りが遅いな。もうあいつが出て行ってから五分は経過していると思うのだが。
と、そう思った直後近くから足音がし、それが止まったと思ったら、櫻田の部屋のドアがゆっくりと開かれた。なるほど、これが噂をすれば何とやらというやつか。人影よりも先に見えたお盆の上には、ジュースとケーキが、それぞれ二つずつ乗せられていた。
「............って、あれ?」
ケーキに続いて姿を現したのは、なんと櫻田では————いや、正確には我らが『世界一可愛い後輩』、櫻田詩乃ではなかった。
まじまじと視線を受けたからだろうか。その少年は、俺に対して言葉を告げる。
「.........あ、どうも。お久しぶりです」
なんと、ケーキを運んできてくれたのは櫻田の弟、櫻田翔太君だったのだ。こうやってまともに顔を合わせるのは、翔太君の誕生日以来だろうか。
「直接会うのは翔太君の誕生日以来かな? 久しぶりだね。.........それで、櫻田————いや、お姉さんはどこに?」
「姉ちゃんならもう出ていきましたけど......あれ、何も聞いてない感じですか?」
「......聞いてねえ」
衝撃の事実に俺は一瞬思考を巡らせるが、やはり櫻田からそんなことを聞いた覚えはない。というか、ケーキを運ぶ暇すらない用事っていったい何なんだろうか。
「ごめんなさい。姉ちゃんそういうところ抜けるところがあって......」
「いやいや、翔太君が謝ることじゃないよ。それより、ほら。ケーキ食べよう?」
俺がそう言うと、翔太君は少々苦めの笑いを浮かべながら「そうですね」と返答し、長方形のテーブルに、ジュースとケーキを配膳する。
そして、彼は俺と対面になるように座った。うーん、面と向かって話すのは初めてだからなんだか緊張するな。.........ま、それは向こうも同じか。
「「いただきます」」
俺は小さめのフォークを手に取り、早速ケーキの先端を切って口へと運ぶ。割とノーマルなショートケーキではあるが、丁寧に作られたものだというのが食べてすぐに分かった。クリームの塗り方にはムラがなく、くどくならないように量が調整して入れられている。そして、スポンジの間の層にあるクリームにはイチゴの味がつけられていて、それもいいアクセントとなっていた。
「......どうですか? お味の方は」
翔太君は、恐る恐るといった様子でそう問うてきた。......まあ、ここで嘘や冗談を言う必要もあるまいと、俺は正直な感想を述べる。
「うん、おいしい。......って、お姉さんに伝えておいてくれないかな」
「それはよかった。それを聞いたら姉ちゃん喜びますよ」
その後、会話を交わすことがないままに、二人黙々とケーキを食べ続ける。半分くらい食べ進んだところで、さすがに気まずいと感じた俺は、先ほどから気になっていたことを聞いて話題を作ることにした。
「そう言えば、お姉さんはなんの用事で?」
「うーん、実は僕も詳しくは聞いていないんですよね......」
「そうか......」
少なくとも、俺を荷物持ちとして連れて行っていない時点で買い物などではないということは分かるのだが、如何せんプライベートでの交流はそこまでないため、予測すら仕様がない。
「...............あの、高瀬さん。ちょっと聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「ん? どうしたの?」
俺からの質問が不発に終わったことに気を使ってか、会話を続行させるべく、今度は翔太君から質問が飛んでくる。
「た、大したことじゃないんですけど............姉ちゃん、学校ではどんな感じなんですか?」
「どんな感じ............? うーん、そうだなあ」
かなり悩んだ。ここで本当のことを言うべきか否か。
正直、溜まりに溜まった愚痴を消化したい気持ちは山々だが、果たしてそれを実行したとて、誰が幸せになるというのか。少なくとも、それは翔太君に対してすることではなかろう。
まあ、ただの世間話なんだ。これでまた気まずい雰囲気になっても嫌だし、些か不本意ではあるけれど、ここはほんの少しばかり櫻田の顔を立ててやろうではないか。
「何と言っていいかわからないけど、とても楽しそうに過ごしてはいるよ。もう少しテンションを下げてほしいくらいだ」
「そうですか、ありがとうございます。なんだか少し安心しました」
「......? というと?」
「あ、いえ......別に大したことはないんです」
彼は口ではそう言うが、そう誤魔化した後にも、何かを言いたげに身体を少々ソワソワさせる。呑み込んだ言葉は櫻田に口止めでもされているのだろうか。
うまく隠してくれたのなら話は別だが、こうも中途半端に隠されると、続きが気になって仕方がない。
「お姉さんには秘密にしておくから話してもいいよ」
結局、俺は何か悪い入れ知恵をするかのように翔太君にそう囁いた。それでもなお、彼の口は数秒の間閉ざされたままであった。あいつ、弟には相当慕われてるんだな。
しかしその五秒程度後。結局、彼の口は開かれる。
「.........実はうち母子家庭で、母さんがほぼ一日中仕事で居ないんですよ。だから、僕の面倒は姉ちゃんがほとんど見てくれているんです。そんなことがあるので、姉ちゃんが羽を伸ばす時間が少しでもあればいいなと思って」
「ほう、翔太君は姉想いで偉いな」
「い、いやいや。そんなことはないですよ。実際、僕はまだアルバイトもできないですし、何も助けにはなれません。家事も僕の気づかないうちにやっちゃいますし......」
「......あいつにもそんな一面があるんだな」
「ええ。本当に世話になりっぱなしです」
翔太君の言うことが本当ならば、彼女が自分の時間を過ごせるのは、ほとんど学校だけということになる。そう考えれば、彼女が俺みたいなやつで憂さ晴らしをするのも、納得はできないが理解はできる。まあ、できればやめて欲しくはあるが。
.........しっかし、何であいつはそんなに一人で抱え込んでいるんだろうか。いつから現在のような立場となってしまったのかは分からないが、少しくらい弟を頼っても、罰は当たらないだろうに。
というわけで、櫻田の負担もとい俺の負担を軽減するために、翔太君に、普段の櫻田の家事の様子についてを聞き出す。
「家事——って言っても、どんなことをやってるの?」
「僕の担当は毎日の洗濯とお風呂掃除なんですけど、それ以外はすべて姉ちゃんです。朝昼晩のご飯がメインで、残りの細かいところは二人でやっていくって形だったんですけど、いつの間にか姉ちゃんに任せっきりに.........」
申し訳なさそうに微笑する翔太君。
なるほど、項目だけの比重で考えると、少々櫻田の負担が大きいぐらいだが、朝昼晩のご飯の担当が櫻田というのは、高校にも通う彼女にとってかなりの負担だろう。
「なあ、翔太君」
「はい、なんでしょうか」
「部外者が口をはさむのは少し違うかもしれないけどさ、君はお姉さんの負担、もう少し減らしてあげたいと思わない?」
「そりゃあ、思いますけど......僕、絶望的に料理ができないんですよね」
「絶望的って.........そうやって言葉に逃げるのは簡単だよ。例えば?」
「その.........一回料理に挑戦したときに、包丁で一本だけやっちゃったことがあって」
そう言いながら、翔太君は左手の小指をピンと立たせた。まさか.........
「一本ってまさか、小指のことじゃないだろうね」
「そのまさかです」
料理中に包丁で左小指を切断って.........確かに、絶望的に料理ができない人なのかもしれないな翔太君って.........。
半分呆れてしまったが、まだだ。俺はその程度では引き下がらないぞ!
「ま、まあ。確かにそれはもうちょっと慣らしていく必要があるけど、別に、包丁の扱いが上手いから料理ができるってわけでもないだろう?」
「それはそうかもしれませんけど......ごめんなさい。僕、やっぱり怖いです。また、指を切り落としちゃわないか心配で。それで、また姉ちゃんに心配をかけないか心配で.........」
まあ、翔太君の気持ちももっともだろう。普通、包丁で指を切り落とすなんてことをしてしまっては、それがトラウマとなりそれ以降包丁なんぞ持つことはできない。加えて、ただでさえ忙しい櫻田にこれ以上迷惑を掛けたくないという気持ちも、十分に理解できる。だけど。
「綺麗ごとかもしれないけどさ、やっぱり、逃げてたって何も始まらないと思うよ。失敗は誰にでもある。ましてや一回目だろう? そんなもの、失敗してなんぼだ」
自分のことを棚に上げて、よくそんなことを言えたな、と心の中でツッコミを入れる。
「君のお姉さんだって、最初は失敗だらけだっただろうよ。包丁さばき、火加減、味付け。考えたらきりがないけど、どう? そんな料理たちに心当たりはない?」
「......あります」
「そっか。多分、彼女は俺が想像できないようないろいろなことを失敗してきてると思う。......けど、君のお姉さんは諦めなかった。何でだと思う?」
「............僕や、母さんがいるから?」
「うん、きっとそうだと思う。まあ、主に、君の存在があったからだろうね」
「............」
「まあ、ここまで言っておいてなんだけど、俺は櫻田家の事情については何にも知らないし、ああだこうだ言える立場ではないことは分かってる。だから、強制するつもりはないし、君の意見を第一に尊重する。
その上で、だ。......どうだ、翔太君。もう一度だけ、包丁を握ってみる気はないかい?」
彼は、そんな俺の問いかけに対して、ただ深く頷いた。よし、いい返事だ。
半ば強引に説得してしまったことに対して、ほんの少しだけの罪悪感を覚えながら、俺は翔太君とともにキッチンへと向かった。
ガチャ!
ドタバタドタバタ!
いかにもそんなオノマトペが似合いそうな音を立てながら、何かが櫻田家のリビングに近づいてくる。かなり急いでいるような足音であった。
そして、それから五秒も経たぬうちにリビングのドアは開き、それと同時に、息を切らして少しだけ上ずった声が、リビングに響く。
「遅くなってごめんね翔太! 今から晩御飯作るから.........って、あれ?」
あれだけ忙しく騒がしかった動きを完全に止め、櫻田はただ、目の前に広がる料理たちを見て立ち尽くしていた。
そしてその数秒後、状況を把握すべく、彼女はそれらに対して指を差しながら口を開いた。
「.........これ、センパイが作ってくれたんですか?」
まるで、それ以外の選択肢が存在しないかのような問いかけだった。まあ、翔太君の料理スキルを考えたらそれも仕方がのないことなのかもしれないが、なんだか報われない話である。
「俺はあくまでもサポートをしただけだよ」
「ホントですかねえ............まあ、何にせよ感謝はしないといけませんね。ありがとうございます。.........翔太もね。ありがと」
櫻田は、翔太君に対して優しく自然に微笑みかける。その笑顔を少しでも俺にも向けてくれたらなあと思ってみたりするが、今日のこれの目的はそこではない。黙って見守っておこう。
「......お礼を言わないといけないのは俺の方だよ」
「え......?」
「いつも、家事を姉ちゃんに投げっぱなしにしちゃってたから。ありがとう......そして、ごめん」
そんな翔太君の言葉を受けて、彼女は黙り込んで何かを考え始めた。
しかし、その答えが出たのはたった数秒後で。
「......まあ、お母さんから色々と頼まれたのは私だしね。それに、『適材適所』って言葉もあるし。こうやって暮らしてたら、きっと翔太にしかできないことも出てくると思う。その翔太の気持ちが本当なら、その時、手を貸してね?」
「.........うん」
少し俯いたまま、翔太君は小さく頷いた。
うんうん、これで一件落着だな。
とはいえ、この姉弟水入らずの空間をずっと邪魔しているわけにもいかず、俺は無言でそそくさと部屋を出て、櫻田の部屋から荷物を拝借すると、櫻田家を去ろうとする。
と、そこで。
「高瀬さん、今日はありがとうございました! ......えと、これからも姉ちゃんのことをよろしくお願いします」
リビングのドアから顔を覗かせた翔太君は、そう告げた。俺は、ふと自然と零れた優しげな笑みを浮かべながら
「ああ、もちろん」
とだけ返すと、今度こそ櫻田家を去った。
後日。
「そういや、何であの日は帰りが遅かったんだ?」
「あ~......それはですね。そろそろ母の誕生日も近いので、プレゼント代を稼ぎに日雇いバイトを......あんまり大きな声で言わないでもらえるとありがたいです」
「誕生日プレゼントを買いたかったのなら、翔太君の時にしたように少しくらいはカンパしてやったのに」
「え? ああ、そんなこともありましたね」
「お前にとって5000円はそんなこと扱いですかそうですか」
「あっ、いやそういうことじゃなくでですね......そんな考え、頭にもなかったといいますか」
「え? あのパシリの鬼の櫻田が?」
「ものすごく不名誉な二つ名ですねそれ。.........まあ、ちょっと最近、心持ちが変わったんですよ」
「へえ、それはいいことだな。けど、櫻田の場合いいことには裏があるからいけない。何を隠してるんだお前。俺にはもう驚く余地なんてないから正直に言ってもいいんだぞ」
「............正直に、ですか? なら正直なことを言わせてもらいますケド、実は、私にもわからないんですよね」
「? どういうことだよ」
「うぅ~.........、ごめんなさい。頭の中でなんとなく浮かんでくるだけで、うまく表現できません。言葉にできるときが来たら言いますから。今日のところはちょっと、勘弁してください」
「お、おう.........」