第11話 世界一可愛い後輩と訳アリ先輩①
バレンタインデーという、世の浮かれ人共のための一大イベントから数日が過ぎた日曜日。俺は約束通り、櫻田と共に駅の改札前に立っていた。
あの日、水族館の帰りに半ば勢いで取り付けられた次の約束。正直、あの時はどうかしていたとしか思えない。普段の俺なら「なんで俺がお前と休日にまで」とかなんとか、適当な理由をつけて断っていたはずだ。
だが、夕日を背にした彼女の、何かを決意したような強い瞳に射抜かれた瞬間、俺の口は「ああ」という肯定の音しか発することができなかった。我ながらチョロいなあ。
「センパイ、何ニヤニヤしてるんですか。気持ち悪いですよ」
「ニヤニヤなんてしてねえよ。ただ、自分の意思の弱さを嘆いていただけで」
「ふうん、世界一可愛い後輩とデートできるのが嬉しくて仕方ないって素直に言えば、私も精一杯サービスしてあげるんですケド?」
「馬鹿言え、誰がそんなことを」
そんな軽口を叩きながらも、俺はチラリと櫻田を一瞥する。
今日の櫻田は、白いニットワンピースに、キャメル色のショート丈のコートを羽織っている。どこのファッション誌から抜け出してきたんだと言いたくなるような、完璧なまでの『デート服』。対する俺は、いつものパーカーにジーンズという、代わり映えのしない格好だ。隣に並ぶと、俺が彼女の荷物持ちにしか見えないだろうことが容易に想像できて、少しだけ気まずい。
「それで? 今日はどこに連れてかれるんだ、俺は。言っとくけど、あんまり歩き回るのはごめんだからな」
「人聞きの悪いこと言いますね。今日は映画ですよ、映画。この前センパイが『最近観たいやつがある』ってボヤいてたじゃないですか。私がわざわざ調べて、チケットも取っておいてあげたんですよ」
そう言って、櫻田はスマホの画面を見せてくる。そこには、確かに俺が観たいと言っていたアクション映画の予約完了画面が表示されていた。
確かに観たいとは思っていたが、櫻田にそんなことを零しただろうか。自分でも覚えていないそんな些細な一言を覚えてくれていたことは、素直に嬉しい。
が、しかし。自分の口はそこまで素直ではなく。
「......まあ、それなら文句はないけど」
「素直に『ありがとう』って言えないんですか、この人は」
「はいはい、どうもありがとうございます、世界一可愛い後輩サマ」
「ふふん、よろしい」
満足げに頷く櫻田に先導され、俺たちは映画館へと向かった。
以前よりは幾分かマシになったとはいえ、やはり二人きりで休日に出かけるというのはどうにも慣れない。特に、前回の一件以来、俺たちは互いにどこかぎこちない空気をまとっていた。それは、相手を異性として、明確に意識してしまったが故の、甘酸っぱくも厄介な壁だった。
映画が始まると、その気まずさは少しだけ和らいだ。大音量の爆発音や、スクリーンで繰り広げられるド派手なアクションに集中していれば、隣にいる櫻田の存在を少しだけ忘れることができたからだ。
......そう、思っていたのだが。
不意に、俺の右手に柔らかな感触が触れた。ドリンクホルダーに置かれたポップコーンを取ろうとした櫻田の手が、俺の手に重なったのだ。
「あっ......」
「......っ」
暗がりでも分かる、びくりと肩を揺らし慌てて手を引っ込める櫻田の姿。その一瞬の接触が、まるでスローモーションのように感じられた。触れた部分から、彼女の熱がじわりと伝わってくる。彼女の顔は詳しく見えなかったが、若干、その頬は赤みがかっているように思えた。
俺の馬鹿な脳は単純なもので、それからというもの、映画の内容は全然頭に入ってこなかった。俺の意識はすべて、わずか数センチ横にある櫻田の存在に、そして、未だに感触の残る右手に、吸い寄せられていたのだ。
映画が終わり、明るいロビーに出ると、お互いに目を合わせることができず、無言のまま映画館を後にした。
「......あの、センパイ。ちょっと、お茶でもしませんか?」
そんな先に沈黙を破ったのは櫻田だった。
「......ああ、そうしようか」
俺たちは近くのカフェに入り、向かい合って席に着く。依然として気まずい沈黙が、テーブルの上を漂っていた。
「......映画、面白かったですね」
「まあ、ほどほどにな」
「センパイ、途中から全然ポップコーン食べてませんでしたけど、もしかして、嫌いな味でしたか?」
「ちげえよ。......ただ、映画に集中してただけだ」
嘘だった。本当はそれどころじゃなかっただけ。もしかしたら、彼女もそれくらいは察しているかもしれない。
そんな他愛ない会話を続けているうちに、少しずついつもの調子が戻ってきた。俺がコーヒーを啜り、櫻田がショートケーキを幸せそうに頬張る。その光景は、もはや見慣れたものになっていた。
「......前も聞きましたけど、センパイって、これからどうしたいとかあるんですか?」
不意に、櫻田がフォークを置いて尋ねてきた。
「これから?」
「はい。ちゃんと卒業したら、何をしたいのかなって」
「......さあな。まだ、何も考えてねえよ」
バレンタインの日にされたのと同じ質問。あの時と変わらず、俺には明確な答えがなかった。留年した俺にとって、未来なんてものは、靄のかかった不確かなものでしかない。
それにしても、櫻田はなぜそんなにも俺の将来が気になるのだろうか。謙遜でも何でも無く、面白いものでもないだろうに。
「そうですか......」
櫻田は少し寂しそうに呟くと、「でも、私、応援しますから」と続けた。
「センパイが何をしたいって思っても、私がちゃんと、そこまで辿り着けるように手伝ってあげます。世界一可愛い後輩として、当然の責務ですからね!」
いつものように胸を張り、自信満々に言い放つ。だが、その言葉には、以前にはなかった温かみが宿っているように感じられた。
「......そりゃどうも」
照れ隠しにそっぽを向きながらそう答えるのが、今の俺にできる精一杯だった。
それからは、駅で別れるまで穏やかな時間が流れた。
「それじゃあ、また明日」
「ああ」
小さく手を振って改札の向こうに消えていく櫻田の後ろ姿を見送りながら、俺は、この関係がずっと続けばいいのに、なんて柄にもないことを心のどこかで考えていた。
この時の俺は、まだ知らなかったのだ。平穏に見えた日常が、すぐそこまで来ている大きな亀裂に気づかぬまま、薄氷の上を歩いているに過ぎなかったということを。
週が明けた月曜日の昼休み。俺は担任に呼び出され、進路指導室にいた。
「高瀬、ちょっといいか」
昼飯のパンを齧り始めたところで声をかけられ、俺は渋々立ち上がった。櫻田には「また何かやらかしたんですかあ?」とジト目で言われたが、どうせこの前の小テストの点数のことだろう。
「まあ、座れ」
促されるままにパイプ椅子に腰を下ろすと、担任は数枚の紙をぺらぺらとめくりながら、真剣な眼差しで俺を見つめてきた。そのただならぬ雰囲気に、俺は少しだけ身構える。
「三学期も始まって一ヶ月が経ったわけだが、来年度以降のこと、少しは考えているか?」
「来年度、ですか......?」
言葉もなく、こくりと深く頷く。
「お前はこのまま、うちで卒業を目指すつもりか? それも一つの立派な道だ。だが、俺はお前に、他の選択肢もあるということを知っておいてほしい」
担任は、机の上に数枚のパンフレットを広げた。そこには、高卒認定試験の案内や、通信制高校、加えて名を聞いたことがある近隣の私立高校の名前が並んでいる。
しかし、まだ詳細を察することはできなくて。
「ええっと......それはつまり、どういうことですか?」
「高瀬の今の学力、特に櫻田に指導してもらってからの数学の伸びは目を見張るものがある。だが正直、他の科目はからきしだろう。なんとか赤点は回避しているだけ、というのが山のようにある」
「まあ、それは......」
何も否定できず、曖昧な言葉を返すしなかった。
「それに加えて......知ってるか、お前」
担任は、脇に置いてあったA4のわら半紙を俺の目の前に置く。そこには、『櫻田詩乃』の名前があり、小さく心臓が跳ねる。
「本当はあまり他人に見せてはいけないものなんだが、高瀬には緊張感を持って貰いたくてな。......もちろん、具体的な数値は載せていないが」
彼が指さした折れ線グラフは、左から右に行くにつれて、単調減少を記している。この推移がこの状況で明かされたということは、それがつまりどういうことなのか。その程度のことは、俺でも理解出来てしまって。
「これ、もしかしてあいつの成績推移ですか......?」
「ああ、そうだ。入学当初は学年トップ30をキープしていたが、夏から徐々に点数を下げていって、今や学年順位の中央を行ったり来たりしている。......この前の数学Ⅰに至っては、僅差ではあるが、お前の方が点数が上だったぞ」
「えっ......」
そういえば、俺の点数を見て珍しく何も言わないなと思っていたら、まさか、そんなことが起こっていただなんて。
「......まあ、もちろん、全部が全部高瀬のせいだ、なんて言うつもりはない。だけど、一因ではあると思うんだ」
「......それは、自分でもそう思います。いっつも放課後は俺の勉強に付き合ってくれて、家では家事に追われてるだろうし」
「なるほどな。......まあ、そんなこんなで、ここから先、高瀬にはいくつかの選択肢がある」
彼は、軽く握った手をすっと持ち上げ、人差し指から順にピンと伸ばしていく。
「一つ目は、うちでこのまま卒業を目指すこと。だが、学年が上がるにつれて内容は少しずつ複雑になるし、俺たちもある程度のサポートしかしてやれない。櫻田に頼り切りってわけにもいかないだろうから、その場合は高瀬が一人で勉強をする習慣を付ける必要があるだろう」
「二つ目が、サポートが手厚い私立高校に来年度から転入すること。......俺が見ていたのだと、この明和高校とかは良さそうだった」
「そして三つ目が......これはもし高瀬が大学に行きたい場合の話だが、うちをやめて、塾に通って高卒認定を目指す、という手もある」
俺は、パンフレットに目を落としたまま、何も言えなかった。
「要は、この陽星高校だけがお前の道じゃないってことだ。お前が一度つまづいたからといって、人生が終わるわけじゃない。むしろ、ここからどう巻き返すかが大事なんだ。俺は、その手助けをしたいと思ってる」
担任の言葉は、熱意に満ちていた。俺のことを、本気で心配してくれているのが伝わってくる。
「......ありがとうございます」
何か言葉を返さなければと思い、俺は、ようやくそれだけを口にした。
「留年した以上、ここでちゃんと卒業するのが、親に対する筋だとは思うんです。でも......正直、自分で全教科の勉強をできるかって聞かれたら頷けないし、これ以上櫻田に迷惑をかけてしまうのもどうかと思ってるんです。
だから、今先生が提示してくれた案も、ちょっと考えてみようと思います」
これ以上話を長引かせたくないため担任には言わないが、加えて、同級生はみんな年下で。教室にいても、どこか浮いているような感覚。向けられる視線の中には、同情や好奇の色が混じっている。そんな環境が、息苦しいと感じることが、確かにある。
それもまた、陽星を離れる一つの要因となりそうだった。
「そうか......。まあ、無理にとは言わん。だが、少し考えてみてくれ。お前の人生なんだからな。ここを出て、新しい場所でやり直すというのも、前向きな選択肢だと俺は思うぞ」
「はい、ありがとうございます」
そう俺が返した時だった。
進路指導室の半開きになったドアの向こうに、一瞬、見慣れた姿が見えた気がした。だが、それはすぐに視界から消え、俺は気のせいかと思い直した。
彼が準備してくれた成績表やパンフレットの耳を揃えて両手に持つと、ドアの前で一度振り返り、「失礼します」とだけ言うと、進路指導室を後にした。
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お昼休み、急にセンパイが連れ出されてしまった。一人じゃあ暇だったから、先生とセンパイの後を付けた。彼らが向かった先は、進路指導室。......進路指導室?
何やら、いつものような砕けた雰囲気じゃないことに内心驚きながら、廊下の角に身を潜めた私は、部屋から漏れ出てきた彼らの会話を聞いて、自分の耳を疑った。
『来年度以降のこと』
『他の選択肢』
『迷惑』
『ここを出て、新しい場所で』
『ちょっと考えてみる』
断片的に聞こえてくる言葉が、私の頭の中で最悪のシナリオを組み立てていく。
センパイが、この学校を、辞める?
私の、そばから、いなくなる?
バレンタインの日に感じた不安が、一気に現実味を帯びて彼女に襲いかかった。文化祭の日に、自分を過去の悪夢から救い出してくれた、あの温かい手が。風邪で弱っていた自分を、優しく介抱してくれた、あの不器用な手が。今、自分から離れていこうとしている。
くぐもった声で、断片的にしか聞き取れなかったからこそ、私の中の妄想は加速していってしまう。
――私が、迷惑だから?
――私が、センパイの足手まといになっているから?
ぐるぐると、黒い思考が渦を巻く。血の気が引き、指先が急速に冷えていくのを感じた。立っているのがやっとで、壁に手をつかなければ、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。
ダメだ。いなくならないで。
行かないで、センパイ。
けれど、その声は、喉の奥で詰まって、音になることはなかった。
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