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世界一可愛い後輩が俺にだけ構ってくる理由。  作者: 主憐茜


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第10話 世界一可愛い後輩とバレンタイン

 あれから数日。すっかり元気を取り戻した櫻田は、まるで何事もなかったかのように俺の家に押しかけてきた。まあ、風邪が治ったのは喜ばしいことだが、その復活劇はあまりにも鮮やかすぎて、逆に腹が立つレベルだった。


「いやあ、センパイのおかゆ、意外と美味しかったですよ? ちょっとだけ、見直しちゃいました」


 開口一番、そんな上から目線の評価を下してきた彼女に、俺はこめかみがピクリと動くのを感じた。


「そういう言葉は風邪がちゃんと治りきってから言うことだな。ここでぶり返したら次は大量の唐辛子入りの粥を作ってやる」

「え~、それは勘弁してほしいですねえ。まあ、センパイの看病で助かったのは事実なので、特別に今日の指導は少しだけ優しくしてあげましょう!」

「はいはい、それはどうも」


 どうせ口先だけだろうと思いながら適当に相槌を打つ。そして、その予想は悲しいかな、的中した。その日のスパルタ指導は、むしろ病み上がりとは思えないほどに苛烈さを増していた。俺の冬休みは、こうして再び彼女の支配下に置かれ、あっという間に過ぎ去っていったのであった。



 そうして、三学期が始まる。

 相変わらずの日常が戻ってきたが、一つだけ、明らかに変わったことがあった。それは、櫻田の俺に対する距離感だ。いや、物理的な距離はこれまでと何ら変わらない。休み時間になれば俺の席にやってきてはちょっかいを出し、放課後になれば半ば強制的に勉強に付き合わされる。その構図は全く同じ。


 だが、なんというか、その言動の端々に、以前にはなかった類の何かが混じるようになったのだ。

 例えば、俺が数学の問題で良い点を取った時。以前なら「私の指導のおかげですね!」とドヤ顔で言い放って終わりだったのが、最近はそれに加えて、「......まあ、センパイも、少しは頑張りましたね」なんて、ほんの少しだけ認めるような言葉を付け加えるようになった。まあ、その顔は相変わらず腹立たしいほどに偉そうだが。


 文化祭の時や、風邪を引いた時。立て続けに弱った姿を見せたせいだろうか。それとも、俺が柄にもなく優しい言葉をかけてしまったせいか。原因は定かではないが、俺たちの間には、以前とは少し違う、形容しがたい空気が流れるようになっていた。


 そんな奇妙な均衡が保たれたまま時は流れ、日付は学年末テストを数週間後に控えた二月の十四日。そう、バレンタインデーである。

 まあ、俺のような留年済みのぼっち高校生にとって、この日はただの平日と何ら変わりはない。朝から教室のそこかしこで繰り広げられる甘ったるいやり取りをBGMに、俺はいつも通り、窓の外を眺めて時間をやり過ごしていた。


「どうしたんですかセンパイ、窓の外ばかりを眺めて。クールなキャラを演出してチョコを狙ってるんですか?」


 不意に、真後ろから清々しいまでに鬱陶しい声が聞こえてきた。振り返るまでもなく、声の主を特定出来るため、そのまま適当に言葉を返す。


「ちげえよ、ただの現実逃避だよ」

「うわあ、想像より酷かった」

「......なあ、それ傷つくからやめてくれないか?」

「えへへ、嫌です。......まあでも、たしかにセンパイにチョコをあげる物好きなんてこの世界に一人しか居ないですもんねえ。落ち込む気持ちも分かりますよ」


 うんうん、と相槌を打ちながら、肩をぽんぽんと叩く。うっせえやい。......って、


「その一人って誰だよ。居るなら教えてくれよ。励まそうとするならもっとマシな嘘をつけよ......」

「......センパイが元気になってくれるんなら、教えてあげます」

「そりゃあ、元気になるだろ。自分のためにチョコを用意してくれるんだぜ? 喜ばないわけがないだろうが」

「......そうですか。それじゃあ、存分に元気になってくださいな」


 櫻田はよく分からないことを言うと、ことりと俺の机の上に何かを置いた。窓へと向けていた目線をそちらへと向けると、上品なリボンが結ばれた、いかにもなラッピングがなされた平べったい箱が目に映る。


「......なんだこれ」

「見て分かりませんか? 日頃お世話になっているセンパイへの、感謝の気持ちです。まあ、どちらかといえば私が一方的にお世話をしてあげているような気もしますケド」


 感謝の気持ち、ねえ。こいつの口からそんな殊勝な言葉が出てくるとは。明日は槍でも降るんじゃないだろうか。


「......毒とか入ってないだろうな」

「.........前にも言いましたけど、それ他の女の子に言ったら泣かれますからね」

「ん? 俺にチョコなんてくれる物好きは一人しか居ないんだろ?」

「うぬぬ......それはそうですケド......」


 軽口を叩きながらも、俺はそっと箱を手に取る。サイズの割にはずしりとした重み。中身はブラウニーか、それともガトーショコラか。どちらにせよ、手作りであることは間違いなさそうだ。


「......まあ、一応礼は言っておくよ。ありがとな」

「どういたしまして。.........それで、センパイ」

「ん?」


 櫻田は、少しだけ言い淀むように視線を泳がせた後、意を決したように俺の目を見て言った。


「今日、放課後、時間ありますか?」

「......なんだよ、また勉強会か? せっかくチョコレートを貰ったんだし、さっさと食べちゃわないと痛んじゃうかもなあ、なんて」

「違います。センパイは私を勉強マシーンか何かだと思ってるんですか?」

「うん」

「はあ、もういいです。勉強じゃなくて......その、ちょっと、付き合ってほしい場所があるんです」


 いつもの高圧的な態度とは違う、どこか控えめな誘い方。その珍しい様子に、俺は少し面食らった。


「付き合ってほしい場所?」

「はい。......ダメ、ですか?」


 じいっと俺の目を捉えて、そう問いかけてくる。普段の櫻田なら「暇ですよね? 行きますよ!」と有無を言わさず決定事項として告げてくるはずなのに。

 この、いつもと違う感じ。デジャヴだ。そうだ、文化祭の時も、サッカーに誘われた時も、こいつはこういう、妙にしおらしい態度で俺を罠に嵌めてきた。

 俺は警戒心を最大レベルに引き上げ、慎重に言葉を選ぶ。


「......どこに行くんだよ。またショッピングモールの荷物持ちとか、弟の誕生日パーティーの準備みたいなのじゃないだろうな」

「だから違いますって。今日は、そういうのじゃなくて......ええっと、水族館、です」

「は? 水族館?」


 予想外の単語に、俺は素っ頓狂な声を上げた。水族館? この俺と、櫻田が? 二人で?

 それは、どう考えても、いわゆる『デート』というやつではないのか。


「......なんでまた、水族館なんだよ」

「......前に、翔太が福引でペアチケットを当てたんです。でも、あの子はあんまり興味ないって言うし、お母さんは仕事で忙しいし。......捨てるのも、勿体ないじゃないですか」


 なるほど、そういうことか。それなら合点がいく。こいつのことだ、タダで手に入れたものを無駄にするのが嫌なだけだろう。相手が俺なのは、単に他に誘う相手がいなかったから。そうだ、そうに違いない。

 俺が勝手に納得していると、櫻田は少し俯きながら、小さな声で続けた。


「それに......センパイ、最近ずっと勉強ばっかりで、疲れてるでしょうし......たまには、息抜きも、必要かなって......」


 どこか気恥ずかしそうに、後ろ髪をちょいちょいといじりながら言う。

 その言葉に、俺は思わず息を呑んだ。

 俺を、気遣っている? この、櫻田が?

 普段の言動からは考えられない、あまりにもストレートな優しさ。その破壊力は、俺の警戒心をいとも容易く打ち砕くのに十分すぎた。


「............」


 まずい。これは、断れない。断るという選択肢が、俺の頭の中から完全に消え去ってしまった。

 俺が黙り込んでいるのを、肯定と受け取ったのだろう。櫻田はぱっと顔を上げて、嬉しそうに微笑んだ。


「じゃあ、決まりですね! 今日の放課後、一緒に行きましょう!」


 そう言うと、櫻田は嵐のように自分の席へと戻っていった。残された俺は、手の中のチョコレートの紙袋と、胸の中に芽生えた不可解な高揚感を抱えたまま、しばらく呆然とするしかなかった。




 放課後、掃除終わりに昇降口へ向かうと、櫻田は既に壁に寄りかかって待っていた。私服に着替えているわけではないが、制服の上から羽織った淡いピンク色のカーディガンと、いつもより少しだけ丁寧に整えられた髪が、これから特別な場所へ行くのだということを雄弁に物語っている。


「遅いですよ、センパイ。私を待たせるなんて、いい度胸ですね」

「うるせえ。ただでさえ浮いてんのに掃除までサボれるかっての」


 いつも通りの憎まれ口を叩いてくるが、その表情はどこかそわそわとしていて、落ち着きがないように見えた。


 俺たちは並んで駅へと向かう。道中、特に会話はなかった。何を話せばいいのか、お互いに分からなかったのだ。隣を歩く櫻田の、シャンプーの甘い香りが風に乗ってふわりと鼻腔をくすぐる。そのたびに、心臓が妙な音を立てるのが自分でも分かった。

 電車に揺られること十数分。目的の駅に着き、そこからさらに十分ほど歩くと、海沿いに建てられた巨大なガラス張りの建物が見えてきた。


「結構でかいんだな」

「そうですね。私も、来るのは初めてです」


 チケットカウンターで、櫻田は鞄から取り出したペアチケットを渡す。係員のお姉さんは、暖かな目線で俺たちを見て「ごゆっくりどうぞ」と言った。その視線が、なんだか俺たちをカップルだと認識しているようで、気恥ずかしかった。

 エントランスを抜けると、目の前に広がるのは、天井まで届くかのような巨大な水槽だった。色とりどりの魚たちが、青い光の中で悠然と泳いでいる。その幻想的な光景に、俺も櫻田も、思わず「おお......」と感嘆の声を漏らした。


「すごいですね......!」


 目をキラキラと輝かせ、水槽に顔を近づける櫻田。その横顔は、普段の憎らしさが嘘のように、無邪気で、歳相応の少女の顔をしていた。俺は、そんな微笑ましい彼女の姿から、しばらく目を離すことができなかった。

 俺たちは、順路に沿って館内をゆっくりと歩き始めた。

 薄暗い照明の中、水槽の青い光だけが俺たちを照らす。すぐ隣を歩く櫻田の肩が、時折、ふと俺の腕に触れる。そのたびに、俺の心臓は馬鹿みたいに跳ね上がった。


「あ、見てくださいセンパイ! あの魚、変な顔してますよ」

「お前ほどじゃないだろ」

「ふうん......センパイはそんな変な顔を見てニヤニヤしてたんですね?」

「気づかれてたのか。......綺麗なカウンターを食らってしまった」


 クラゲが漂う幻想的なエリア、カラフルなサンゴ礁のコーナー、ペンギンたちがよちよちと歩く姿に癒やされ、アシカのショーでは、その賢さに二人で拍手を送った。

 いつもの軽口を叩き合いながらも、その雰囲気は普段とは全く違っていた。学校にいる時のような、棘のあるやり取りではない。もっと、穏やかで、自然体で、そして......楽しい。

 俺は、自分が心の底からこの時間を楽しんでいることに気づき、少しだけ戸惑った。


 一通り館内を回り終え、出口近くのカフェで休憩することにした。俺はコーヒーを、櫻田はイルカの形をしたクッキーが乗ったパフェを注文する。


「......楽しかった、ですね」


 パフェを一口食べ、幸せそうに目を細めながら、櫻田がぽつりと言った。


「......ああ。まあ、悪くなかった」


 素直に「楽しかった」と言うのが気恥ずかしくて、俺はそんな捻くれた返事しかできなかった。だが、櫻田はそんな俺の心中を見透かしたように、くすくすと笑う。


「またまたあ。センパイ、ペンギンのコーナーではしゃいでたくせに」

「はしゃいでねえよ。ただ、生態に興味があっただけだ」

「はいはい、そういうことにしておきます」

「元からそういう意味しか無いっての」


 そう反論するも、櫻田はそんな言葉を無視して言葉を続ける。


「......あ、そうだセンパイ、今日あげたやつ、まだ食べてないでしょう? よかったら、今、ここで食べませんか?」

「え、ここでか?」

「はい。味の感想、聞きたいですし」

 

 そう言われて、特別渋る理由もなかった俺は、綺麗に包装された箱を取り出し、できるだけそれを傷つけないよう剥がすと、蓋を開けた。中には、綺麗に切り分けられたチョコレートブラウニーがぎっしりと詰まっている。ナッツがたっぷりと入っていて、とても美味そうだ。

 丁寧にも付けてくれていたプラスチック製のフォークで、それを一つ口に運ぶ。濃厚なチョコレートの風味と、ナッツの香ばしい食感が口いっぱいに広がる。甘さも絶妙で、俺好みの味だった。


「......美味い」


 思わず、素直な感想が漏れ出る。


「ホントですか!? よかった......」


 櫻田は、心底ほっとしたように、ぱあっと顔を輝かせた。その笑顔は、これまで見たどの笑顔よりも、ずっと愛らしく見えた。


「というか、櫻田あれだけケーキ作るの上手いんだし、そんなに心配することないだろうに」

「まあ、それはそうなんですケド.........でもやっぱり、一年に一回ですし、せっかくなら美味しいのを作りたいじゃないですか。それに、チョコレートは作るの初めてですし」


 少し俯き気味で、恥ずかしそうに告げる。

 俺のためだけに作ってくれた。その事実が、ずしりとした重みを持って、俺の胸に響いた。

 ただの義理じゃない。福引で当たったチケットの消化でもない。

 こいつは、俺のために、この一日を計画してくれたんだ。

 そのことに気づいた瞬間、俺の胸は、これまで感じたことのない種類の感情で満たされた。それは、喜びとも、照れ臭さとも、そして、何か別の、もっと温かくて甘い感情がごちゃ混ぜになったような、不思議な感覚だった。

 俺が言葉もなくブラウニーを食べ進めていると、櫻田がふと、真剣な顔で俺を見つめてきた。


「......あの、センパイ」

「なんだ?」

「センパイって、卒業したら、どうするんですか?」

「卒業? ......まだ、何も考えてねえよ。つーか、まずはちゃんと進級して、卒業できるかどうかだろ」

「......そう、ですよね。でも、もし、ちゃんと卒業できたら......この街、出ていっちゃうんですか?」


 その問いには、どこか不安げな響きがあった。

 俺は、櫻田の質問の意図が分からず、少し戸惑いながら答える。


「さあな。......実家暮らしも楽でいいけど、一人暮らしってのも、まあ、憧れなくはない。大学に行くなら、県外の大学を選ぶかもしれないしな」


 俺がそう答えると、櫻田は目に見えてしょんぼりとした顔になった。


「............そう、ですか」


 小さな、消え入りそうな声。

 その時、俺は初めて気づいた。俺たちがこうして過ごせる時間には、限りがあるということに。俺が留年したことで生まれた、この奇妙で、けれどかけがえのない一年間。それも、いつかは終わりが来る。

 その後のことを、俺は何も考えていなかった。だが、櫻田は、もしかしたら......。

 沈黙が、気まずく流れる。

 その空気を断ち切るように、櫻田が顔を上げて、無理に作ったような明るい声で言った。


「......な、なんて! まだ気にするには早すぎますよね! まずはセンパイが無事に進級、いえ、ちゃんと卒業できるかが問題なんですから! 私が、責任もって卒業させてあげますからね!」


 いつもの調子に戻ろうとしているが、その笑顔はどこかぎこちなかった。

 俺は、そんな彼女にかけるべき言葉を見つけられないまま、ただ、残りのコーヒーを啜った。その味は、ブラウニーの後に飲んだせいか、少しだけ、苦く感じられた。

 水族館を出ると、外はすっかり夕暮れに染まっていた。海風が、少しだけ冷たい。

 帰り道、俺たちはまた、無言だった。けれど、行きの時とは違う、何か重たい空気が二人の間に漂っている。

 駅の改札で、別れの時が来た。


「......じゃあな。今日は、その......ありがとう」

「......はい。こちらこそ」


 ぎこちない挨拶を交わす。

 そんな状態のまま、俺が背を向けて歩き出そうとした、その時だった。


「......あの、センパイ!」


 呼び止められて、振り返る。

 櫻田は、夕日を背にして、何かを決意したような、強い瞳で俺を見ていた。


「次の日曜日! また、どこか、出かけませんか!?」


 それは、今日のデートの延長を告げる、彼女にしてはあまりにもまっすぐな誘いだった。

 俺は、その勢いに気圧されて、ただ頷くことしかできなかった。

 こうして、俺のバレンタインデーは、次のデートの約束という、予想だにしない形で幕を閉じたのだった。

 心の中に残る、甘くて、少しだけほろ苦い余韻と共に。

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