第1話 訳アリ先輩と世界一可愛い後輩
「センパイ、こんな問題も分からないんですかあ? そんなことでは今度のテストで赤点とっちゃいますよ?」
出された課題の問題がなかなか解けずに頭を抱えていると、不意に目の前から清々しいまでに鬱陶しい声が聞こえてきた。俺は、ずっと指で回していたペンを机に叩きつけるように置き、半ば睨みつけるようにしてその声の主の方を向いた。
しかし、そんな程度の低い威嚇は効かないと言わんばかりに、彼女は俺の言葉を受けてもなお妙にいらつく笑みを浮かべている。どの言動をとってもムカつくというのは、もはや一種の才能なのではないだろうか。と、そんなこんなで、『世界一可愛い後輩』は、通常運転で今日も健在だった。
高校一年生。うむ、とても響きのいい言葉だ。そんな言葉を聞いただけで、少し大きめの制服を纏いながら新天地で頑張る生徒の姿が容易に想像できる。しかし、そんな言葉にほんの少しの説明を加えたらどうなるだろうか。
高校一年生、十六歳。先ほどの言葉に一言の説明が加わり、より状況が想像しやすくなった。春や初夏に生まれ、周りとは一回り大きい生徒の姿。或いは、文化祭などの行事も終わり、すっかり学校にも慣れてきた生徒の姿。なるほど、こうやって説明を加えていくと、人物が想像しやすくなるみたいだ。さて、ではとっておきの情報を加えて、自己紹介を締めることとしよう。
高校一年生、十六歳、あだ名『先輩』。
............どうだろう。そんな追加の情報を聞いて、どのような人物を想像しただろうか。きっと、その答えは二つのパターンに分かれていることだろう。
一つ目。純粋な心の持ち主は、おそらくこのあだ名の理由を『先輩に見間違うほどな体つきや、同級生とは思えないどっしりとした心構え』などと考え、ほかの同級生と比べてしっかりとした人物を思い浮かべたのではないだろうか。
もしそういう人物を想像した人は、どうかこれからも、今までと変わらない、清廉潔白なそのままの生活を送ってほしい。
さて、では二つ目。きっと、俺みたいなろくでなしはあだ名の理由をこのように考えたことだろう。
『ああ、こいつダブったな』と。
とても鋭い観察眼だと思う。君は様々な視点から物事を観察できる素晴らしい人物だ。どうかこれからも、その能力を用いて人生を謳歌してもらいたい。
.........とまあ、冗談はこれくらいにしておいてだ。多分、『先輩』というあだ名から想像できる人物と言えばこの二つくらいのものだろう。
え、俺はどっちの方なのかって?
そりゃあ、どこをとってもパーフェクトと言われた俺ともなれば、『先輩』どころか『人生の先輩』なんて呼ばれたりして————
「————せ・ん・ぱ・い! 聞いてるんですか? そんなことだとまた留年して、私の方が学年が上になっちゃいますよ?」
............すみませんでした。小生、どこをとっても最底辺な高校一年生(二回目)でございます。とは思いながらも、俺とて微小ながらプライドは存在する。こう好き勝手言われてばかりではいられないと、これまでずっと一の字に結んでいた口を開く。
「あのなあ、別に俺だってやりたくて二回目の一年生をやってるわけじゃねえんだよ」
「......大抵の留年した人はそう言うと思いますケド。というか、好きで留年するってどんな状況なんです?」
「いやそういうことじゃなくてな。.........てか、お前にも前に話しただろ? 俺がこうなった理由ってのは」
「ええ、そうでしたっけ? センパイって無駄なことだけは覚えてるんですね」
「ああ言えばこう言うよなお前って」
「えへへぇ。それほどでも~」
「褒めてねえっつうの」
そう適当に返答しながら、俺は小さくため息を漏らす。
そのついでに、俺はこいつとの会話から逃れようと、ふと、外のグラウンドから聞こえてきた声々に目を向けた。そこでは、二年次の証である赤色の模様が入った体操服を着た数十人の男子生徒が、楽しそうにサッカーをプレイしている。俺はそれを、羨みや嫉妬などの感情を孕ませた眼差しで眺めた。
どうしてこんなことになったのだろうと、本当に今更ながら後悔の渦に呑まれる。
「......? 何見てるんです?」
俺の視線を追いかけるようにして、目の前に立つクラスメイト、櫻田詩乃はグラウンドに目を向けた。
すると彼女は、数秒外を眺めていたかと思うと、何かを思いついたかのようにこちらを向き、俺に対してこう提案をしてきた。
「そうだセンパイ、今日放課後時間あります?」
「......今度はいったい何を企んでいるんだよ。というか、今日はダメだ。勉強もしなけりゃならないし、積みゲーもそろそろ消化しないと部屋がやばいし」
積みゲーはともかく、勉強なんぞは家でやる気もなく真っ赤な嘘であるのだが、正直、櫻田の企みに付き合うぐらいなら嘘つきにでもなったほうがましだ。
ある日は『ちょっと出かけよう』とショッピングモールに荷物持ちとして連れ出され、おまけに夕食まで奢らされた。
ある日は『ちょっと力を貸して』と半ば強制的に櫻田の家まで連行され、櫻田の弟の誕生日を一緒に祝った。それはまあいいのだが、その道中でプレゼント代として五千円がなくなったのはどうも腑に落ちない。
思い出し始めたらきりがないが、こいつはことあるごとに俺を面倒ごとに巻き込む。最初の内は構ってくれること自体が嬉しかったから言われるがままにしていたのだが、その頻度の高さや内容から、最近では今日のように断る事が増えていった。
「せんぱーい、最近なんだか付き合い悪くないですー?」
「いやそうは言うがな櫻田。ちょっとは自分が今まで俺に対してしてきたことを考えてもみてくれないか————」
「.........サッカー」
「あ? 急にどうしたんだよ」
「今日はただサッカーをしたいなと、そう思っていただけです」
普段の様子からは考えられないような湿っぽい声を出す櫻田に、俺は思わず当惑してしまう。もしかしてこいつ.........
「......もしかしてお前、俺に気を遣ってくれてるのか?」
「それ、私の口から言わせます? .........まあ、一ミリくらいは心配してますケド」
「櫻田.........」
なんだなんだ。一体どういう風の吹き回しなんだ? 一周回って気味が悪くなってしまうほどの櫻田の態度に、もはや俺は当惑を通り越して冷静になっていた。こいつのことだ。このまま『素直で可愛い後輩』なんかになるはずがない。どこかに罠が張ってあるはずだ。いったいどこだ......?
「でもまあ、いいんです。センパイが忙しいのならまたの機会ということで」
「え? ああいや、少しくらいなら時間は作れる、けど......」
この言葉を紡いだ瞬間、俺はやってしまったと心の底から感じた。これ以上に言葉を取り消したいと思ったときは一度たりともないし、この先もそう多くはないだろう。
そして、そんな俺の予想というのは悲しいことに当たってしまっていたようで。櫻田はにやりというオノマトペでは表現しきれないような、これまた後にも先にも類を見ないような満面の笑みを浮かべた。
「え、ということは、センパイは積みゲーよりも私との時間を優先してくれるってことですよね? うれしいなあ!」
わざとらしく声を張る櫻田。先ほどまでの湿っぽい態度をどこへやったのかと聞きたいほどに、いつもの調子へと戻っていた。
こうなることくらい分かっていただろうがと十数秒前の俺を叱責するも、時すでに遅し。くそう、いつもと違う様子にまんまと乗せられてしまった。
......というわけで、今後とも俺は彼女の使いっパシリとなることが決定してしまった。
「あ、でもセンパイを心配してるっていうのは嘘ではないですよ」
「いや、別によく分からないところでフォローしなくてもいいから。もう全部諦めてるから」
「む、諦めてるってどういうことなんですか! まるで私が迷惑を掛けているみたいな言い方しないでください」
「うん、そう言ってるのよ」
「まったく、世界一可愛い私から心配してもらえたからってそこまで照れなくてもいいのに」
「いやだから——」
「と・に・か・く! 放課後、一緒にサッカーしましょうね!」
そう言うと、櫻田は俺の返事も待たずに自分の席へと帰って行ってしまった。台風のようにやってきて台風のように去っていく、そんないつも通りの櫻田であったが、今日はまた一段と大きな被害を残して去っていった。
そして、休息という休息もとれないままに、午後の授業が始まろうとしていた。
時は変わって放課後。光の散乱により紅潮し始めた空の下で、俺と櫻田のサッカーは始まろうとしていた。フィールドは俺たちが通う高校から自転車で十数分の距離にあるグラウンド。ボールは櫻田の弟が小学生の時に使っていたサッカーボールを櫻田が用意してくれた。正直、弩が付くほどの素人である俺たちにとっては役不足感が否めない代物だ。
「なあ、櫻田」
「どうしましたー?」
「.........これ、誰が何をやったら勝ちなんだ?」
数メートル離れている相手に声が届くように、少し声を張り上げて言葉のキャッチボールを行う。というか、このグラウンドにはサッカーゴールもないんだが。PKすらできないじゃないか。
櫻田も細かいことは考えていなかったのだろう。適当に言葉を濁したかと思うと、その言葉から十秒ほど経ったくらいで、突然サッカーボールを蹴り、俺の下へと寄越してきた。俺はそのボールをしばらく見つめてから、再び櫻田の下へと返した。素人である我々は碌なワンオンワンのやり方も知らないので、結局やることとなればパスの出し合いとなるわけで。
しかも、それもただボールを蹴って相手の下に返すだけの至極単調なものだから、すぐに飽きてしまう。お互いが数回蹴りあったところで、急に櫻田は動きを止め、ボールを持ってこちらへと近づいてきた。
「ええっと.........先輩、楽しいですか?」
苦笑いを浮かべながら言葉を紡ぐ櫻田。その様子を見ていると、どうやら、その質問の答えは既に分かっているようだった。けれど、何故だか俺は、いつもの調子のままに彼女の言葉を否定することはできなくて。
もしかしたら俺は、形式的にでも櫻田が気を遣ってくれたことが嬉しかったのかもしれない。
我ながらチョロすぎると感じながらも、どうも自らの感情を曲げることはできそうになかった。故に俺は、依然として自らを嘲るような笑みを浮かべる櫻田に、いつもとは違った、ほんの少しだけ優しい言葉を返す。
「もはや面白い面白くない以前の問題だと思うんだが。......まあ、それはそうとして、俺を気遣ってくれたことだけは感謝してるよ」
「...............な、なんですかそれ。そんなに褒めたって何も出ないですよ?」
あまり褒められ慣れていないのか、照れ隠しをするかのように目を背ける櫻田。図らずともこいつの意外な弱点を発見してしまった。成る程、これは使えるぞ。
「ま、まあ。世界一可愛い後輩としては? 外見だけでなく中身も可愛くなくてはならないわけですから? 何の救いのないセンパイの相手をすることぐらいは当然のことですよ!」
こいつがここまで取り乱すというのは、出会ってから数か月の付き合いの中でもかなり珍しい。動画にでも収めてやりたかったがさすがにキレられそうだったので止めた。
「......そういやさ、お前のいつも言ってる『世界一可愛い後輩』って何なんだ?」
しかしながら、いつまでも照れられていても面倒くさいので、櫻田を現実世界へと引き戻すべく、そんな前々から気になっていた質問をする。
こいつは事あるごとに自らを『世界一可愛い後輩』と称するが、今までその言葉の真意を聞いたことがなく気になっていたところだったので丁度いい。
するとそんな言葉を受けた櫻田は、分かりやすく咳払いをしてから、いつものような口調で答える。
「何って、言葉通りの意味ですよお。センパイにとって、私は『世界一可愛い後輩』なんですから!」
さも当たり前の事象かのようにそんなこと言うのだが、果たしてその自信は何処から湧いてくるのだろうか。まあ、容姿は悪いどころかかなり良い方だと思うけどさ。
というか、そもそもそれ答えになってねえし。.........と思ったけど、まあ、別にいいかそれで。
「......というか、私のことはいいんですよ。私が可愛いことなんて周知の事実ですし。それより、私のことを教えたんだから先輩のことも教えてくださいよ」
これ以上詮索されたくないのだろうか。櫻田は、少しだけ声のトーンを落とし、話題の転換を行った。
「待て待て、色々とツッコミどころがあるんだが。つーか、俺のことってなんだよ。何聞かれてもしょうもない返答しかできんぞ」
「そんなことないですよお? センパイって面白いですし。............色んな意味で」
「おい待てこら」
「——それで、センパイってなんで留年したんですか?」
「無視するなよ......というか、その話前にもしたよな? 確か俺たちが会って割とすぐのころに」
それもそうだし、このやり取り、今日の昼休みにやらなかっただろうか。
「そうでしたっけ? まあ、でもあの時の私はセンパイに対しての興味大してなかったですし、覚えてないですねえ」
「何だよ。今なら少し興味あるかのような言い方するなよ」
「いや、普通に考えて全く興味のない人にここまで突っかかります?」
............確かにそうかもしれない。まさかこいつに言い負かされる日が来るとは。
いや待てよ? とはいえ突っかかるとは言ってもほとんどがパシリのためだったような気がすもするし、それとこれとはまた話が別なような......
「......今は別にそんなことどうだっていいんですよ! それよりほら、早く教えてください」
............まあ、色々気になるところもあるが、今日はこいつにほんの少しだけ世話になったし、少しくらいなら話に乗ってやってもいいかな。
「はあ、しゃあねえな。つまらん話だが話してやるよ。立ったままっていうのもなんだから、適当に座ろうぜ」
俺はそう言うと、櫻田とともに荷物を置いていたベンチへと向かい、適当に腰を下ろした。その十数秒後、腹を決めると、俺は自分の高校生活について語りだした。