008話 Feat.レイ
「……旦那様?」
ふと、彼の息遣いが柔らかくなったのを感じた。
夜空を見上げていた私は、ふと息をとめる。
そして静かに身を起こし、隣で眠る彼の顔をそっと覗き込んだ。
さっきまであれほど揺れていた瞳は、瞼の下に隠れてしまっていた。
私はそれを少し残念に感じた。彼の瞳の色や形も大好きだから。
目端から耳に掛けて残っている涙の跡。
私の手は自然と彼の耳元に伸びていた。
さらりと撫でる。単に触れたかっただけ。
「……記憶が無いのに、泣いてくださるのですね」
きっと聞こえないだろうと思いながら、昔から今の今まで、何ひとつ変わっていなかった、私が大好きな部分を口に出した。
こうやって、他者の想いに寄り添って、涙して、受け止めようと足掻く心こそが、私が存在し続ける価値となった彼の根幹だ。
そんな彼が酷く愛おしくて、そして、大好きだ。
彼の顔に触れた手を、灰色の髪に絡ませた。
いつも通りの慣れた手つきだと、自嘲気味な笑みが零れてしまった。
私は私自身が呆れるくらいに旦那様が好きだ。
それは、かつて宇宙の王だったからとか、そんな単純なもので証明することはできない。
五十億年もの間、私は何度か命を絶とうとした。
それ程には長過ぎる孤独だった。
その度に、私は自分の気持ちをひとつずつ、言葉にならない激情で証明した。
何故、彼が好きなのか。
何故、彼が大好きなのか。
何故、彼を愛しているのか。
なぜ、私は彼の目覚めを待っているのだろうか。
なぜ、私は永遠にも思えるこの時を過ごしているのだろうか。
彼が眠りについて、ちょうど十億年と少しが過ぎた頃だろうか。私は彼の瞳にも似た夜空を、彼が眠る施設の近くで発見することができた。
それはそう、いま私たちの上に広がっている、黒に極めて近い紺色のステンドグラスのことだ。
彼の瞳とまるで同じ印象を受けた。散りばめられた星々のような瞳と、そこにある深い自我を私に思い出させてくれた。
苦しくなるたびに、私はこの地に足を運んだ。
ここから見える夜空は、動いている彼の在り方を、色鮮やかに思い出させてくれたから。
だから私は、終わることのない時を、想いと共に生き続けてこられた。
「……ん」
突然、彼が身動ぎをした。
私は少し驚いて、手の動きを止めた。
恐る恐る彼の様子を覗き込んで、未だ目覚めていないことを確認した。
でも、彼が起きなければ、旅の準備を完全に終えられない。
それが分かっていても、私は彼を起こそうとは思えなかった。
それはきっと、旅立ちの準備のほとんどが五十億年の中で終わっているから、かもしれない。
私は再び、彼の灰色の髪を、手櫛で軽く梳いた。
「……あっ」
気が付いたら、空がオレンジ色になっていた。
軽く梳いていたつもりが、ずっと触れ続けていたらしい。
私にとって、彼は私が存在する理由そのもの。だから、触れ続けていたことも、朝が来ていたことも、少しも不思議ではなかった。
「んっ……、レイ?」
彼の意識は、夜空を裂いた朝陽によって、ゆっくりと引き戻されていった。
ステンドグラスの空は消え、彼の瞳の中に色鮮やかに映っていた。星空のような瞳が、私の姿を捉えていた。
すこし、名残惜しかった。
……けれど、私が五十億年の間、待ち続けていたものだ。
「あれ……朝?」
寝ぼけ眼を擦りながら、彼は辺りを見渡した。
「って!? ご、ごめんな。ずっと、周りを見張っててくれてたんだろ?」
その現実に彼は驚いていた。
その反応すらも、たまらなく愛おしかった。
ああ、私はやっぱり、この人の存在が生きる意味なんだろう。
「気にしないでください。大好きですよ」
私は自分の気持ちを伝えた。
たとえ彼が何も覚えていないとしても、
私が彼を愛しているのは変わらない。
好きという気持ちは変わらない。
そんな程度で私の感情は揺るがない。
何千回、
何万回、
何億回、
何度も何度も証明して、
私は永い時を存在してきた。
だから、私はどんな彼であっても、未来永劫に愛し続けることができる。
そんな確信がある。確証がある。保障できる。保証できる。
「旅の準備をしましょう。
陽がてっぺんに登るまでに、旅を始めましょう」
彼ともう一度、この世界を、彼が救ったこの宇宙を、一緒に旅することを夢見ていました。
この夢が叶う。
この想いを抱えて、夢の中に手放すことなんて、今の私にできるはずもなかったんだ。




