075話 Feat.ユリ
「シン、レイ、今日は協力してくれてありがとう」
我は、儀式の準備が整った部屋に足を運んでくれた二人に、感謝の言葉を述べる。
床一面に描かれた魔法陣は、薄い赤紫の光を帯び、静かに呼吸しているかのように脈打っていた。壁際には必要な触媒と器具が整然と並び、その配置に乱れはない。
今回は、スレスを眷属とする儀式だ。久方ぶりの施行ゆえ、もし彼女が暴走したときには即座に抑え込んでもらうよう、あらかじめ二人に頼んである。
だが、それは嘘だ。
協力の依頼は表向きにすぎぬ。シンをこの部屋へ呼び、この魔法陣の中心に立たせるための方便である。
いま、円の中央にはスレスとシン。扉際にはレイが控えている。名目は“万一に備えるため”だが、その実、スレスではなく、シンの退路を断つための布陣だ。すべて、我が望んだ配置である。
我はゆるやかに魔法陣の中心へ歩み寄り、スレスの背後に立った。
「では、始めるぞ」
冷たい息をひとつ吐き、ためらいなくその首筋に牙を突き立てる。
温かな血が口内に流れ込むと同時に、床の魔法陣が輝きを増し、脈動が速まる。薄い赤紫は深紅へと変わり、部屋の空気がわずかに震えた。
スレスの瞳が揺らぎ、焦点を失ったかと思えば、黒に近い赤へと染まっていく。細い指先がかすかに痙攣し、その波は全身へと広がった。呼吸は荒く、肩が大きく上下する。肌の下で血が新たな流れを形づくっていくのが、我にもはっきりと感じ取れた。
その変化は急激でありながら、どこか静謐だった。脆く頼りなかった人の匂いが、少しずつ、我らが種のものへと変わっていく。
やがて痙攣は収まり、スレスはゆっくりと瞼を開いた。
そこに宿った光は、もう人のものではなかった。
「スレス、どうだ?」
我は、完全に吸血鬼へと変わった彼女に問いかけた。
「はい、問題ありません。力が満ちあふれているかのようです」
スレスはゆっくりと手を握ったり開いたりしながら、自らの体を確かめている。
その仕草には、先ほどまでの頼りなさは微塵もなかった。
「ならば、やれそうか?」
「……はい。最後のお手伝いをさせてください」
その言葉を聞き、我は死へと繋がる最後の務めに、改めて向き合う覚悟を固めた。
スレスは静かに歩み出ると、迷いもなくシンの背後へ回った。
次の瞬間、細いはずの腕が、常人ではあり得ぬ力で彼の両肩を押さえ込む。
魔法陣の光が赤く濃くなり、その輪郭が二人を縁取る。
わずかに身をよじろうとするシンの動きは、一拍も置かず封じられた。
吸血鬼として生まれ変わったばかりのスレスが放つ力は、人の域を軽く凌駕していた。
扉際のレイが、その気配に反応して踏み出しかける。
我は即座に手を上げ、魔力を帯びた風を彼女の足元へ走らせた。
「動くな、レイ」
低く抑えた声が、室内の空気を縫い止める。
彼女の足は寸前で止まり、その視線が鋭く我を射抜いた。
「これは我が為すべきことだ。貴様の出る幕ではない」
我の言葉に応じるように、魔法陣の脈動がさらに速まる。
スレスの指先に宿る力が強まり、シンの身体は光の中心に縫いとめられたまま、微動だにしなくなった。
スレスの力が、シンの身体を寸分の隙もなく封じていた。
逃れようとする気配はわずかに感じられたが、それすらもすぐに沈んでいく。
我は静かに歩み寄り、光の中心に立つシンの正面へと回り込む。
その眼差しは揺れていた。怒りでも恐れでもない、理解できぬ何かを宿した色。
「──これで、終わる」
自らの言葉が、我の覚悟を裏打ちする。
一歩踏み込み、彼の首筋へと顔を寄せる。冷たい皮膚に頬が触れた瞬間、牙が音もなく肌を裂いた。
温かな血が口内に流れ込む。
それはスレスの時よりも濃く、重く、強靭な力の核を孕んでいる。
飲み下すたびに、全身の奥へと波紋のような力が広がっていくのがわかる。
魔法陣が脈打つたび、室内の空気が震え、紅の光が我ら三人を包み込む。
やがて、その光はシンの中へと沈み、彼の鼓動と一体になって脈動し始めた。
我は牙を離し、その変化を見届ける。
その瞬間から、彼はもう人ではなくなった。
だが次の瞬間、胸の奥底から鋭い棘のような痛みが走った。
何かが逆流する。魂の奥に触れた異質な力が、我の存在そのものを内側から軋ませ、裂いていく。
骨が悲鳴を上げ、皮膚の下で血が沸き立つ。
まず右腕が、肩口から音もなく吹き飛んだ。瞬きの間に肉が裂け、骨片と鮮血が霧のように宙を舞う。
続けざまに左脚の膝下が弾け、熱い液体が頬や首筋に降りかかった。
呼吸をするたび、肺の奥で鉄の匂いが膨れ上がる。
残った手足も容赦なく砕け、肉が破裂し、白い骨が一瞬だけ露わになってから粉のように散った。
破裂音と、魔法陣を叩く湿った音が、耳の奥で幾重にも反響する。
視界は赤と黒に霞み、意識は断続的に途切れかけていた。
それでも牙だけは離さぬよう、顎を固く閉ざす。
──このまま命は尽きるだろう。
それも、覚悟のうちだ。
「……まさか、こんな強引なことをするとはな」
肉体が全ての支えを失い、地面に崩れ落ちようとした瞬間、声と共に何かが我を支えた。
それが誰のものなのかを判別する余力すら、もはや残ってはいなかった。




