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073話 Feat.ユリ

 部屋の扉が、ゆっくりと開いた気配があった。


 筆を運ぶ手は止めず、視線だけをそちらへ向ける。入り口にはスレスの姿があった。昨日とは異なり、彼女は目を擦ることもなく、背筋を伸ばしてこちらを見つめている。わずかな緊張を纏いながらも、その佇まいには不思議な穏やかさがあった。


「ユリ様は、何のために魔法陣を描いているのですか?」


 静かな問いかけと共に、彼女はそっと魔法陣の縁へと視線を落とした。床に広がる線は、昨日よりさらに精緻さを増している。中央を軸に渦を巻く螺旋と、それを支えるように張り巡らされた補助線。そこに込められた意味を、彼女が理解しているとは思えぬ。


「貴様のためだと言ったであろう」


 貴様のため“だけ”ではない。だが、その言葉に虚偽はなかった。


「……だけじゃないですよね」


 続いた一言に、我は思わず筆を止め、彼女の方へと視線を向けた。


「……何故そう思う?」


 我は声を落としながら問うた。返答を促すのではなく、ただ、その意図を見極めたかった。


 スレスは一拍置いてから、小さく笑った。だが、それは茶化すようなものではない。自身の内にある曖昧な感覚を、言葉にするための間だった。


「何となく、そうなのかなって。……今までのユリ様は、力を押し付けるような話はしてこなかったので」


 我は視線を逸らさず、彼女の顔を見つめた。


 その目には怯えはなかった。ただ、言葉にするには輪郭の曖昧なものを、慎重に掬い上げようとする意志があった。


「これまで我は、貴様に何かを強いたことがあったであろうか?」


 今回も強制したつもりはない。


「はい。でも……たぶん、今回のことは、少し違って見えるんです」


 我は沈黙したまま、手元の筆を見下ろした。墨はすでに乾きかけていたが、その先端にはまだ、わずかな黒が滲んでいた。


「力を与えるだけなら、きっと、あのときすぐにそうされていたと思います」


 そう言った彼女は、魔法陣の中心を見つめていた。その空白――まだ触れられていない、唯一の“核”。


 我は一つ、ため息をついた。もはや否とは言えぬと、静かに悟った。


「……我が描くものは、貴様のため。だが、それだけではない」


 それがどういう意味を持つのか、どこまでを言葉にすべきか。そうした逡巡が、胸の奥をかすめていく。だが、言葉は静かに口をついて出た。


「それでも、貴様の願いを裏切るものではない」


 スレスは、わずかに目を伏せた。


「はい、わかっています」


 その声に、無理はなかった。押し込めるようなものも、強がりの色もない。

 ただ、受け入れようとする者の、まっすぐな返事だった。


「……ならば、それでよい」


 我は再び視線を落とし、魔法陣の縁へと筆を戻す。


「ユリ様は、何をしたいのですか?」


 再び向けられた問いは、今度こそ真正面から我を射抜いていた。


 その声音に、迷いはなかった。ただの疑問ではない。己がこれから捧げようとするものに、納得を得ようとする意志。そのために、我という存在の奥底を見定めようとしている。


「……それを知って、何になる」


 口をついて出た声は、かすかに低かった。


 我が何を欲しているかなど、語るべきものではない。ましてや、これから眷属となる者にとっては、知ってよいこととも思えぬ。


 願いは、時として重しとなる。むやみやたらに語り、背負わせるものではない。


「私はっ!! 

 ユリ様に拾っていただきましたっ!!

 そんな貴女に恩を返したいと思うのはっ!!

 力になりたいと思うのはっ!!

 そんなに変なことでしょうかっ!?」


 言葉の端々が、震えていた。


 感情に押し出されるようなその声は、決して整ってはいなかった。けれど、その不格好な叫びこそが、今の彼女の本心だった。


 我は何も言わず、その姿を見つめていた。


 スレスの頬は紅潮し、拳は強く握られていた。目尻には、わずかに涙の光が浮かんでいる。だが、それでも彼女は逃げず、顔を上げていた。


 恩に報いたい。力になりたい。


 それが、どれほど人を縛る願いであるか、我は知っている。今の我がそうであるからだ。

 その願いが、時として誰かの手綱になり、己の足枷にもなり得るということも。命すら掛けられてしまうことを、我は理解している。


 それでも。


「変ではない」


 ようやく返した言葉は、短く、静かだった。


「だが……貴様がその想いを背負い、歩むというのならば、我は否とは言わぬ」


 我はゆっくりと歩み寄り、魔法陣の中心――その“核”の前に立つ。


「ただし、忘れるな。眷属とは、我が与えるものではない。貴様が選ぶものだ」


 スレスは口を結んだまま、強く頷いた。その瞳の奥にある光は、昨日よりも遥かに強く、確かだった


「話してやろう。我が、これより成す所業を」


 その覚悟に気圧され、我は未来の眷属に語ってやることにした。

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