072話 Feat.ユリ
「ユリ様、何をしてらっしゃるのですか?」
物ひとつ無い屋敷の一室で、我が床に魔法陣を描いていると、目を覚ましたらしいスレスが姿を見せた。どうやらまだ眠気が残っているのか、彼女は目元を軽く擦りながら、我のもとへ歩み寄ってくる。
「昨日も、よく励んでおったな」
この屋敷には、我とスレス、シンとレイ、それぞれに寝室が与えられている。ゆえに、我は彼女が学びに取り組む姿も、夜ごとに訓練を重ねる姿も、常に目にしてきた。
「強くなりたいですから」
拾われたその日から。前を向くと決めてから。スレスは、まるで呪いにでも取り憑かれたかのように、その言葉を繰り返し続けている。
「貴様は、さらなる力を欲しておるのか?」
筆を止め、我はゆっくりと顔を上げた。その視線をまっすぐ、スレスへと向ける。
「……何か、手があるのですか?」
わずかに緊張を滲ませた声。それでも、後ずさる気配はない。怯えながらも、彼女の瞳には渇望があった。
「我の眷属となれば、たやすく人の限界を超えられる」
そう告げながら、我は意図的に犬歯をのぞかせた。血を吸う種の証を、あからさまなまでに示してみせる。戯れにも似た仕草だったが、それでいて、我が発した言葉に虚構はひとつもない。
彼女の瞳が、我の犬歯に向けられる。
その奥に、わずかな戸惑いが浮かんでいた。
だが、恐れはなかった。
ただ、その言葉の意味を、慎重に探ろうとしているようだった。
「……眷属、というのは」
静かにそう問うたスレスに、我は答えを返さなかった。
語るだけでは伝わらぬものがある。必要なのは、言葉ではなく、覚悟である。
我は黙って、魔法陣の縁に視線を落とす。
「人でなくなっても、後悔せぬか」
呟いた言葉が空気に溶ける。
それは問いというより、もはや警告に近い響きを持っていた。
思い返すことがある。
かつて、同じ問いに頷いた者がいた。
その結末が正しかったのかは、今も判断がつかぬままだ。
だが、目の前にいるのは別の者。
我が拾い、我が与えた、この日々の中で変わり始めたひとりの少女。
スレスはしばらく何も言わず、我の顔を見ていた。
やがて、少しだけ唇を動かした。
「……なりたいです。ユリ様の眷属に」
声はかすれていたが、言葉そのものには迷いがなかった。
「力が欲しいんです。誰かに脅かされないように、自分で自分を守れるように……。
そして、もう誰かに、奪われないように」
その言葉に、我は静かに頷いた。
スレスの眼差しには、もはや迷いがなかった。
自らの手で未来を掴もうとする者の顔をしていた。
我は筆の傍に置いてあった布を手に取り、指先についた墨を丁寧に拭った。
そして、彼女の前に膝をつく。
「眷属となるには、我が意志と、吸血の行為が必要である。
それだけで変化は起こる。だが、成功するとは限らぬ」
声に含ませたのは、確かな重みだった。
我と同じ“種”になるということが、どれほどの変化を意味するのか。
それを彼女がすべて理解しているとは思わぬが、それでも、拒む理由にはならなかった。
「だからこそ、補助が必要だ。
魔術に似た術式を用いることで、転化の成功率を高める。
我が描いていた陣は、そのための下準備である」
床に広がる魔法陣は、血と魂の道を安定させるための接点であり、契約の通路でもある。
かつて学び、我が手で編み直したものであり、簡素ではあるが、効果は確かだった。
「今日すぐにとはいかぬ。
準備には幾つか段階があり、貴様の身体にも精神にも、整えるべきものがある」
スレスは、我の言葉をひとつひとつ噛みしめるように聞いていた。
そして、迷いなく頷く。
「その間、我は貴様に教える。
血の感覚と影の使い方、自らの心の守り方も」
我は立ち上がり、魔法陣の一部に指先を添える。
刻んだ線をなぞるようにして、視線を落とした。
「これは、貴様のために描いたものだ。
貴様が望んだその時にのみ、発動させる。
それまでは、ただの記号にすぎぬ」
その言葉には、わずかな虚が含まれていた。
確かに貴様のために描いたものではある。
だが、それは貴様だけのためのものではない。
スレスは何も言わず、ただ視線をこちらに向けていた。
その瞳には、問いかけも、否定もなかった。
まるで、すべてを理解しているかのような静けさがあった。
「……ユリ様は、何を目的にしてらっしゃるのですか?」
やがて彼女は、迷いのない声で問いかけた。ただ純粋に、知りたかったのだろう。
「目的など無い。我は、我がやりたいと思ったことをしているに過ぎぬ」
それが、どれほど奇異に映ろうとも。
仮に、その行いの先に死が待っていようとも。
我は、それを受け入れる。
怪異種という存在は、そもそもが形を持たぬものの結実だ。
人の強い感情や、その地に根付いた伝承といった、形なき“想い”が、この世ならざる“かたち”となって現れたもの。
我ら吸血鬼もまた、その例に漏れぬ。
そして吸血鬼化とは、半強制的に魂の強度を人の限界を超えて増幅させ、この世ならざる存在へと導くためのひとつの手段でもある。
「暫し、待っておれ。あと一日二日もすれば、この陣は出来上がる」
我は再び筆を動かした。
自分より強大な存在を、自らの眷属にする為の術式と、眷属化の成功率をあげる為の術式を描くために。




