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071話 Feat.ユリ

 いつの間にか、ここで目覚めることに、違和感を覚えなくなっていた。


 朝は早すぎもせず、遅すぎもせず、柔らかな光が窓辺に落ちる。

 風の音が遠くに聞こえ、屋敷の中に満ちる空気は、静かで穏やかで、どこまでも澄んでいた。


 水は引かれ、火は使え、戸を開ければ、整えられた廊下が続く。

 その廊下から、美味しそうな匂いが漂ってきた。


 朝ごとに漂う香りにも、ようやく慣れてきた。

 どれほど質素なものであれ、こうして一日の始まりを感じられることが、これほどまでに心を安らげるとは思わなかった。


 家に住むとは、こういうことなのだと漠然と理解した。


  我はその匂いに釣られるように、台所へと足を運んだ。そこには、毎朝のように変わらぬ所作で動くレイの姿があった。


 火加減を確かめ、鍋の中を一瞥し、次の準備へと迷いなく手を伸ばす。その一つひとつの動きに、無駄がなく、音もない。静けさすら彼の一部であるかのようだった。


 声を掛けるべきか迷ったが、その背を見ているだけで、胸の奥にじんわりとしたものが広がっていった。

 レイはきっと、この日々に、何か大切なものを見出しているのだろう。シンと共に過ごす、こうした穏やかな朝に、言葉にはならぬ安らぎを抱いている――我には、そう思えた。


 我は、台所がよく見える位置に据えられた椅子へと腰を下ろした。この屋敷は、台所と食卓とが近く、火の音や香りまでもが、そっと居心地よく届いてくる。


 やがて、我が通ってきた廊下の奥から、足音がひとつ響いてきた。

 現れたのは、目元をわずかにこすりながら歩くシンの姿。眠気を抱えたまま、それでも確かに何かに引き寄せられるようにして、こちらへと足を運んでくる。


 恐らくは、我と同じく――あの香りに誘われたのであろう。


「……おはよう」


 そう言ってから、彼は大きなあくびをした。それから、我の隣の席に腰かけた。


「うむ、おはよう」


 我も応じるようにそう言葉を返したが、彼の姿には思わず目を細めた。


 旅の途中でも、彼が気を許した相手にだけ見せる、無防備な仕草を目にすることはあった。

 だが今のそれは、さらに一歩深いもののように見えた。警戒心の薄れではなく、単純な安心――そんな気配を纏っている。


 他人を見てわが身を直せ。そうは言うものの、ここまで眠たげに現れては、我も思わず苦笑してしまいそうになった。


「旦那様、ユリ、おはようございます」

 そう声をかけながら、レイが我らの前に歩み寄ってきた。

 片手には配膳板、そこには湯気の立つ食事が丁寧に並べられている。その瞳は、特にシンに向けられるとき、どこまでも優しく、どこまでも満ち足りていた。

 こと。こと。と軽い陶器を響かせながら、レイは我らの前に広がる木の卓に並べた。

「スレスは起きないのですか?」


 途中で、レイがふと問いかけてきた。


「起きられなさそうだ。今日も朝が明けるまで追い込んでいた」


 スレスは、レイに借りた本と眼鏡を手に、毎晩のように寝る間を惜しんで勉学と実践を重ねている。その姿を最も近くで見ている者として、食事の時間に無理に起こそうとは思えなかった。


 自らが拾ったから、というだけではあるまい。……思った以上に、我はあの娘に肩入れしてしまっているのかもしれぬ。


 器がすべて並び終えると、レイはそっと手を合わせた。


「いただきます」


 その声に続くようにして、我とシンもそれぞれ小さく手を合わせた。

 食卓を囲むのは三人だけ。それでも、この空間は不思議と寂しくなかった。


 焼きたての穀物パンに、温かい野菜の煮込み。

 特別なものではないが、湯気の立ちのぼる香りは心をほどき、口に運べば、ほどよい塩気と滋味が広がっていく。


 シンはぼんやりとした目のまま、パンをちぎって口に運んでいる。

 その姿をレイは横目で確認しながら、自身の分をゆっくりと食べ進めていた。


 言葉は多くなかった。だが、それで足りていた。

 眠気とぬくもりの中で、ほんのわずかに交わる視線や手の動きだけが、この場を静かに満たしていた。


 我は、パンの切れ端を口に運びながら、ふと目の前のふたりを見つめた。

 こうして同じ食卓を囲むことが、これほど自然なものになるとは、かつての我には想像もできなかった。


 ……幸せだ。だからこそ、我は彼らに恩を返さねばならない。幸せが大きくなればなるほど、我のやるべきことが酷く浮き彫りになるのを感じた。


 しばらくのあいだ、静かな朝食の時間が続いた。

 誰もが自分の器に向き合い、必要以上の言葉は交わさない。だが、それは決して気まずさではなく、ただ穏やかで、心地のよい沈黙だった。

 器が空になっていくのを見届けながら、レイがふと口を開いた。


「それと……もう一つ、お伝えしておくことがあります」


 その声は普段と変わらぬ平坦な調子だったが、わずかに間を置いてから続けられた。


「昨夕、ギルドから遣いが来ました。依頼の打診です。正式なものではありませんが、数日以内に調整が入りそうです」


 我は視線を向けた。シンも、ようやく少しだけ目元に意識を戻したようだった。


「どんな内容なんだ?」


「詳細はまだ不明です。ただ、戦力としての試用を兼ねた、短期の討伐任務である可能性が高いとのことでした。規模は小さく、街の外れにて対応できるもののようです」


 シンはパンくずを指先で払うようにしながら、小さく息を吐いた。


「戦力として期待されているのはわかってはいたが、試用をされるとは思わなかったな」


「そうですね。ですが、いい機会なので実力を見せつけることにします」


 依頼の完遂だけでは、竜を討伐できるほどの力があると言われても、大半の人々は信用できないのだろう。致し方ない話だと我も思う。


「その依頼は私と旦那様で受けることにしてあります。ユリは他にやりたいことがあるのでしょう?」


 レイの言葉に、我は少しだけまばたきをした。

 ……事前にそう願い出た覚えはなかったはずだが、それでも、彼女がそう判断したことに対して、不思議と違和感はなかった。


「察しがよいな。確かに、我は今日、少しばかりやりたいことがあった」


「スレスのこと、ですね」


「うむ。彼女の世話と、他にも少し。できれば、必要な環境を整えておきたい」


 ただ眷属化させるだけであれば、それほど手間はかからぬ。

 しかし、失敗はしたくない。


 吸血鬼の眷属化は、うまく運べば、特別な儀式や力を加えずとも自然と成就する。

 だが、常に失敗の影がつきまとう。


 もし失敗すれば、眷属となるべき者は人としての理を失い、もはや理性ある存在ではなくなってしまう。

 あるいは、我が大きな傷を負う可能性すらある。


 とりわけ我が傷つくのは、眷属としようとした相手の魂が、我の魂よりも強く、大きなものであったときだ。

 そのとき、力の均衡は崩れ、我が身に深く爪痕を刻むこととなる。


 レイは静かに頷き、シンはパンを飲み下してから、ぽつりとつぶやいた。


「ユリが教えるって、すごく贅沢だよな……」


「何も教えておらん。機会を与えているだけだ。外を歩く彼女を、ひとりにするわけにもいかん」


 我がそう返すと、シンは曖昧に笑った。

 深く考えてのことではないのだろう。ただ、その表情はどこか、楽しげでもあった。


「それぞれ、予定は決まりましたね」


 レイが最後にそう締めくくると、食卓の空気がすうっと整うように感じられた。

 すべては静かに、自然と決まっていた。声高に確認する必要もないほどに、我らの間には、確かな繋がりが生まれていたのかもしれぬ。

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