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【初稿】失われた記憶、消えない愛。取り返す記憶、紡がれる愛。  作者: 言ノ悠
第五章 〜「街での地位と愛を与える君」〜
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070話

 

 鍵をひねる音が、静かに響いた。


 扉の内部に組み込まれた錠が外れ、重たく分厚い木扉が、ゆっくりと内側へ開いていく。油が差されたばかりなのか、音は最小限で、それでも確かな重みが、建物の年季と格を物語っていた。


 俺は、一歩踏み出した。


 屋敷の中に、正式に“住む者”として足を踏み入れるのは、これが初めてだ。


 広い玄関土間には、日差しが斜めに差し込んでいた。昨日の見学時と同じ場所なのに、不思議と空気が変わって感じられる。外と遮断された空間が、淡く温かい気配をまとっていた。


 玄関から続く廊下の奥には、陽光に照らされた魔導灯の明かりがぼんやりと浮かんでいる。石と木が組み合わされた床は、革靴越しにわずかな軋みを伝えてきた。


「ふむ……やはり悪くない」


 ユリが玄関先に立ち、軽く腕を組んで周囲を見渡す。その横顔は真剣そのもので、軽率な期待などとは無縁のものだった。


「空気が良くないですね。しばらく換気をしないと」


 レイが壁の窓をすべて開け放ち、空気の流れをつくっていく。黙々と作業を進める姿に、俺も思わずつられて動き出した。


 廊下を進みながら、昨日の記憶をひとつずつなぞるように各部屋を見てまわる。


 右手にある応接にも使えそうな広間は、背の高い窓から午後の光が差し込み、古びた木の床に柔らかな影を落としていた。家具はないが、壁の木枠や梁には良質な木材が使われており、そこかしこに簡素な彫刻が施されている。余計な飾りはない。それでも、時間の重みと手入れの丁寧さが、この空間に落ち着きを与えていた。


 その奥には書斎と思しき部屋があり、空になった書棚と重厚な机が静かに佇んでいる。使われた形跡はないが、ここだけ妙に“人の気配”が残っていた。かつて誰かが、ここで長い時間を過ごしていたのだろうか。


 さらに進むと、水回りの小部屋と物置。水場は簡素な石造りで、掃除が行き届いている。流しの傍らには、昨日レイが確認していた地下への階段扉があるはずだ。


 裏手の扉を開くと、外には小ぢんまりとした中庭が広がっていた。石畳の間に低木が並び、中央には水を湛えた噴水が据えられている。動きはないが、水面は澄んでいた。壁沿いの小屋、畑に転用できそうな空き地……どれも記憶にある通りだ。


 ユリが言っていた。「良い土だ」と。


 その意味が、今になって少し分かった気がした。


 再び屋敷の中に戻り、手すりに手を添えて階段を上る。硬い木材で作られたその階段は、踏みしめるたびにわずかな音を返す。二階の廊下は広く、天井も高かった。


 並んだ部屋の扉を一つ開けると、南向きの寝室が現れた。窓から射し込む陽が床に広がり、空っぽの室内を穏やかに照らしていた。


 何もない。ただ広いだけの部屋。


 それでも、不思議と落ち着いた。


 壁の厚み、外気を遮る静けさ。ここで眠る自分を想像するのは、意外と簡単だった。


 背後で、床板の軋む音がした。


「色々と用意する必要がありそうですね」


 振り返るまでもなく、その足音の主が誰かは分かっていた。やがて、レイが静かに近づいてきて、俺の隣に立った。


「そうだな。家具は何も無いからな」


 そう口にしてから、目を巡らせる。椅子や机、寝具に食器。すぐに思いつくだけでも、揃えなければならない物は山ほどある。


「ユリ、スレスをこちらの屋敷に連れてきてください」


 レイは、通りがかったユリに静かに声をかけた。


「うむ、わかった」


 ユリは頷くと、そのまま屋敷を出ていった。


「旦那様は家具類を並べるのを手伝ってください。今ある物だけでも、並べてしまいましょう」


 俺に向けられた視線は、すでに次の段取りを見据えていた。

 レイは何の迷いもなく”アイテムボックス”を起動し、足元に使えそうな家具類をひとつずつ取り出していく。


 まず取り出されたのは、小ぶりな折りたたみ式の机と椅子だった。野営の際に使っていたものだ。

 木材と金属を組み合わせた簡素な造りだが、耐久性は悪くない。二人がかりで一つずつ運び、屋敷一階の広間の片隅に並べた。


「……意外と収まりは悪くないな」


 天井が高いためか、簡素な家具でも窮屈には見えない。

 次いで食器類。こちらも冒険時に持ち歩いていたものだが、数は限られている。レイが手際よく包みを解き、台所と思しき部屋の棚へ収めていく。


「これは陶器……これは木製ですね。用途別に分けて収納します」


 レイの手は止まることなく、陶器皿や木椀、金属製のカトラリーが次々と仕分けられていった。棚板に布を敷き、音が立たないように並べる動きには、几帳面な気質がにじんでいた。


 俺はその間に、水場の傍にあった古い棚を拭いて位置を変える。おそらく調味料や雑具を置くのにちょうどいい。

 屋敷の中に物が配置されていくたびに、どこか無機質だった空間に、わずかながら“人の暮らし”の気配が宿っていくのを感じた。


「後は何かあるか?」


「寝床がないですね。寝袋はあるのですが」


 レイが振り返りながら、わずかに首をかしげた。俺もすぐに同意した。


「寝台が欲しいよな」


 寝袋ならあるが、床に敷くだけでは背中に板の感触が残る。広さがあるぶん、余計に空虚で落ち着かない気がする。


「買うしかないな」


「そうですね。最低限、三つは欲しいです」


「街に出るか」


「ユリが帰ってきたら、色々と買い足しに行きましょう。どれだけ買えるかはわかりませんが」


 部屋の片隅に腰を下ろしながら、ふと考える。

 家具を買うならセレアス商会に行ってみよう。竜素材の買取の件もあるからな。


 やがて、ユリがスレスを抱えて戻ってきた。どうやら今日も屋根伝いにここまで来たらしい。

 昨日は道が分からないと言っていたはずだが、今日は迷った様子はまるでない。


 その後、俺はレイと共に街へと買い出しに出かけた。寝具や生活用品を揃えるために、あちこちの店を回り、ひとつずつ必要なものを見定めていく。


 こうして俺たちは──この世界、この時代で、確かに“住む場所”を手に入れたのだった。

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