007話
「旦那様、どうかされたのですか?」
俺が視線を向けていた反対側から、レイが姿を現した。彼女はとても怪訝そうな顔をしていた。
「……いや。何か、いた気がしてな」
特に隠す理由もない。
素直にそう答えた俺を、レイはしばらく見つめていた。
「音、ですか?
……それとも、実際に気配が?」
気の所為だと一笑することもなく、少し考えた様子で、彼女は口を開いた。
「どっちも、だな。
最初は草を踏んだような、そんな音がした。
それから、火の向こう側に誰かが居たように見えたんだ」
むしろ、俺の方が、気の所為だと思ってしまっていた。
だから、自信を持って"そこにいた"とは言えなかった。
レイは小さく息を吐いて、俺の隣に腰を下ろした。
焚き火の光が彼女の瞳に映る。その目には、思い出すような遠い光が浮かんでいた。
「この地は、人々や神々が足を踏み入れなくなってから、既に長い時が過ぎ去っています」
「前も言ってたよな」
「……はい。
今の様子を見ても、全く想像できないとは思いますが、ここは大都市の中心だったのですよ」
「大都市……か」
「どんな都市だったかと言いますと、本当に多くの人々の営みが栄え、多くの神々が気軽に降臨する街並みを持っていました」
ここまでレイに話をされても、今俺が座っているこの地が大都市だったなんて、全く信じられない。
それほどまでに、周囲には大自然が広がっている。人工物なんて、俺が眠っていたあの施設だけだ。
「そこまで栄えた都市を、旦那様と様々な惑星を旅してきた私も、数える程しか知りません」
レイの昔話に出てくる俺は、さらっととんでもないことをしている。
別の惑星に行くだなんて、そんな発想が普通はそもそも出てこないだろ。そもそも、別の惑星を認識することが難しいだろ。
……でも、そんな発想が出てくるから、俺はきっと宇宙を統べる王だったのだろう。
そんな俺やレイが、数える程しか知らないほどに栄えた都市が、今や全くと言っていいほどに見る影がない。
「恐らくは、その都市の残響だと思います。
人々の想いや、そこに縛られた怨念は、そんな大都市が無くなるほどの年月が経っても、色褪せないのでしょう」
「想いや怨念……か」
大都市が何年前に無くなったのか、俺は知らない。
そんなことを聞くこと自体が野暮だと思う。
だがしかし、それが無くなってもなお、大地に残り続ける鮮烈な感情を、俺は美しいと思ってしまった。
「旦那様は、やっぱり旦那様ですね」
大きな葉に置かれていた肉を、レイは再び火にかけながら、顔を覗き込んできた。
「……どういうことだ?」
言葉の意味がわからずに、俺は怪訝な顔をしていたと思う。
「そのままの意味ですよ。
記憶を失っているのかもしれませんが、貴方の考え方は、昔の旦那様と全くと言っていいほど同じです」
レイはとても嬉しそうな顔をしていた。
火の光に照らされたその笑みは、静かに、けれど確かに、誇らしげに見えた。
「旦那様、軽く塩は振ってみたので、まずはそれだけでいきましょう」
そして、火にかけていた骨付き肉を渡してきた。
「ありがとう」
大きな骨付き肉だった。何処からかぶりつくか悩むくらいには。
悩んだ結果、目の前の身が最も多そうな場所に、自分の歯を突き立てた。
一口かじった瞬間、声にならない感嘆がこぼれた。
肉は塩を振ってもなお、少し臭みがあった。
でも、塩を振ることによって、それも大きく緩和されていた。
それよりも凄いのは、口に入った瞬間に、少しだけ芯を残して、さらりと溶けてしまったことだ。
美味かった。
俺たちは肉を食べ進めた。あまり会話は無かったように思う。食べるのに夢中になっていた。
気が付けば、あの巨体の大半を、俺たちは平らげていた。
お腹が空いていたとは思っていなかったから、そこまで食べることができたことに、俺は逆に驚いた。
やがて炎は潰えて、肉が焼かれた香ばしい匂いだけが、周囲に充満していた。
夜の静寂が、香ばしい匂いで色塗られている気がした。
「旦那様、一緒に来てもらえますか?」
レイは急に手を引いてきた。
「あ、あぁ……」
本当に突然のことで、身体の方が先に動いた気がする。
彼女の手を振り払う理由など、俺にはひとつもなかった。
やがて、闇が深くなる森の方角へと連れられた。
その先にあったのは、少しだけ丘になった草原であった。
周囲には夜の静寂だけが広がって、何故か、俺の目は闇の中でも全てを見失わなかった。どうやら、ある程度は夜目が効くらしい。
レイもまた、一度も戸惑ったり、立ち止まることもなかった。
「……旦那様っ!
ここで横になりましょう!」
丘の上まで手を引いたと思ったら、俺の手を離して、草原の上にごろりと仰向けになった。
なんだか彼女は楽しそうで、俺は特に疑問も持たずに、その隣に仰向けになった。
「……あっ」
レイが俺をここに連れてきた理由がわかった。
夜空の深い青に、幾千幾億もの様々な光が灯っていた。
全てが微妙に違う色合いを含み、まるで、透明度の高い宝石が、夜空という画用紙にぶちまけられたかのようだった。
そんな非常識な輝きたちは、そこに在るべき存在なのだと強く主張していた。
「……この空を、私は貴方に見せたかった」
隣の人はただ満足気に呟いた。
ほら凄いだろ、と言うわけでもなく、ただ共有したかったのだと、理解することができた。
「旦那様……?」
俺は一度離れてしまった手を、自分から手繰り寄せた。
「……ありがとな」
気が付いたら、瞳に広がった暗色で鮮やかな画用紙は、いくつかに分割されて、目の端から耳に向かって、一筋の滴が伝っていた。
「……いえ」
彼女の方から、鼻をすする音が聞こえた。
もしかしたら、俺の顔を見たのかもしれない。でも、そんなのは俺にはわからない。
胸が苦しかった。だから、息をする為に強く空を吸った。
やがて、瞳に広がった複数の画用紙たちは、一枚ずつ消えていった。