068話 Feat.ユリ
我は、彼らに恩を返す手段を得たと考えた。
彼の記憶が戻らぬのは、魂の根幹に原因があるという。
であれば──我は、吸血鬼として、吸血鬼らしく、吸血鬼たる行いをもって、彼を救えるかもしれぬ。
そう思い至った瞬間、我は迷わず行動を始めた。
「おはよう、レイ」
シンは、寝ぼけ眼をこするレイに向けて微笑んでいた。
先ほど見せていた深い陰りのある表情とは異なるが、それでもそこに確かに、彼女への愛情が宿っていた。
「……おはようございます、旦那様。お早いのですね」
ふあ、と欠伸を洩らしながら、レイは静かに身を起こす。
寝台の上でのんびりとしていた我らとは違い、彼女は迷いなくするりと床へと降り立った。
我もその背を追うように、寝台から身を滑らせる。
「レイ、今から少し時間をもらえるか?」
「? かまいませんよ?」
「今から、外でも構わぬか?」
「……外着に着替えてからでも?」
「あ、ああ、もちろんだ」
冷静な口調に、我はようやく気がついた。
どうやら思っていた以上に、我は前のめりになっていたようである。
恐らくレイは、我の様子に何らかの違和を覚えているに違いない。何も感じぬほど、彼女は間抜けではないからな。
「良いでしょう。外に出ましょうか」
レイは漆黒のドレスに身を包み、その上から同じく漆黒の外套を羽織った。
その姿は見慣れたものであったが、それでもなお、美しく様になっていると感じた。
それなりに目が肥えているはずの我ですら、そう思わされるほどである。
「というわけだ。少しの間、レイを借りる」
我は、静かにシンへと視線を向けた。
「ああ。時には、男がいない方が話しやすいこともあるだろ。ゆっくりしてきな」
レイが、貴様には話せず、我にだけ打ち明けることなどあるはずがなかろう。
シンの何気ない言葉に、思わず心の内で毒づいた。
我とレイは、部屋の外へと出た。
「……それで、何を話したいのですか?」
シンの耳には届かなくなったのを見計らうように、レイが口を開いた。
その声音には、静かな興味が滲んでいた。
わずかばかりも警戒の色を見せぬことに、我は、ほんの少しだけ驚きを覚えた。
「外で、座って話さぬか?」
「ユリがその方が良いのであれば、それでも構いませんよ」
レイは、あっさりと受け入れてくれた。
その様子には、どこまでも揺らがぬ落ち着きがあった。
我よりも、遥かに余裕があるように思えてならなかった。
自分を覚えていない彼を、それでも変わらず支え続ける彼女は、たかが一千年を生きた吸血鬼では、とてもかなわぬ存在に思えた。
我らは、宿の扉を静かに開けて、外へと出た。
朝の空気はまだ冷たく、それでも夜ほどの厳しさはなかった。
通りには人の気配もまばらで、東の空には淡い光が差し始めている。石畳の道は、うっすらと金に染まりつつあった。
その光の中を、レイと並んで歩く。沈黙は、苦ではなかった。
通りの先に、小さな建物が見えた。木枠の窓からは、温かな灯りが洩れている。
看板に描かれた、蒸気を立てるカップの意匠が、店の趣旨を無言で伝えていた。
「昨日、前を通ったときに良い香りがしていた店ですね。もう空いているようです」
我らは、その店で話をすることにした。
レイが扉の取っ手に手をかける。我はひとつ頷き、彼女の後に続いて、静けさの残る朝の店内へと足を踏み入れた。
「そういえば、金銭はあるのか?」
「昨日、眠る前に旦那様からお預かりしました」
「……それ、勝手に使ってよいのか?」
「はい、問題ありません」
店内にはまだ客の姿はなく、静けさが保たれていた。
窓際に二人掛けの小さな卓があったので、我らはそこに腰を下ろす。
木の椅子は素朴ながら手入れが行き届いており、背を預けるとわずかなきしみが返ってきた。
我らは、それぞれ飲み物を注文した。
「で、そろそろ話してくださいますか?」
飲み物も届いていない段階で、彼女は切り出した。それなりには気になっていたらしい。
「うむ。我が話したいのは、昨日見に行った屋敷のことだ」
レイはわずかに瞬きをしてから、視線を我へ向けた。
何も言わぬまま、続きを促すような沈黙が落ち着いてそこにあった。
あの屋敷を見たときの、静かな衝撃が思い出される。
高い石壁と重厚な門。
外観の堅牢さと整った庭、石畳に残るわずかな踏み跡。
そして、空気の流れすら計算されたかのような、内装の造りと音の響き。
「我は……あの屋敷、悪くないと思っている。
音の反響も素直で、日当たりも申し分ない。庭の土も適しておった。
居住地として、十分に価値があると見た」
あくまで淡々と告げたつもりであったが、我ながら、その語りにわずかな熱が帯びていたのを自覚する。
目の前のレイが、それに気づいたかどうかはわからぬ。
「何が目的ですか?」
レイはそう言った。
その漆黒の瞳に見つめられると、まるで我の内側まで見透かされているような感覚に襲われる。
「……あ、ああ。今の宿のまま生活を続けるのは、現実的ではあるまい?」
「それは、そうですね」
我は、屋敷の購入について話すなら、シンよりもレイの方が話が早いと考えていた。
物事を判断し、整理し、前に進める力において、彼女は実に頼りになる。
「本心を話す気はありませんか?」
さらに続いた彼女の言葉に、我は一瞬、言葉を失いかけた。……だが、
「スレスを、我の眷属にしようと考えておる。拾った責任があるゆえにな」
それは、真実でもあり、虚実でもある。
けれど、口にしたときの響きは、限りなく真実に近いものとなっていたはずだ。
レイは、静かに目を細めた。
その表情が、我の自信を揺さぶるための牽制であることは、すぐに察せられた。
かつて王族として、幾多の視線に晒されてきたことに、思わず感謝すら覚える。
そのとき、我らのもとに、各々の飲み物が運ばれてきた。
我は話の間を遮るように、陶器の縁に口をつける。淡く酸味のある味わいが、静かに喉を通っていった。
「それで終わりではないでしょう? 他にも話したいことがあるのでは?」
彼女もまた、飲み物にそっと口をつけながら、さらに問いを重ねてくる。
その落ち着いた調子に、つい気が緩みそうになる。我は意識して背筋を正した。
「スレスに、剣を用意してやりたい。
彼女はすでに、魔法を使えるようになっていた。剣の訓練も、続けておる」
我は、何食わぬ顔で、もうひとつの願いを口にした。
それもまた、先の話と同じく、彼女に関わることである。
「渡した本を、しっかり読んでいるようですね」
「うむ。自らの足で生きていけるよう、努めている」
だからこそ、我にできるのは──吸血鬼としての力を与えることくらいであろう。
「そうですか。それなら良かったです」
レイの声は淡々としていた。
それなりに高価な書物を貸していたはずだが、スレスに対する関心は、意外にも薄いように見える。
「レイはどうなのだ? シンとの夜の営みは」
「……人に話すことではないでしょう?」
レイは、目に見えて不快を示した。
わかりやすく嫌悪を滲ませるその様子に、我は小さく肩をすくめるしかなかった。
「……その手の話を、明るく話していた時代もありましたね」
ぼそりと、彼女はつぶやいた。
我は思わず、その顔を見やる。
レイの表情は、何か遠い記憶を手繰り寄せているようだった。懐かしさと、かすかな寂しさが滲んでいた。
その表情を見るかぎり、やはり我が果たすべき恩返しは、彼らに幸福を還すことにあるのだと感じた。
飲み物が尽きるまでのあいだ、我らは他愛もない話を続けた。
かつての我には、こうした何気ない会話の機会すら、ほとんどなかったのだから。
ああ……やはり、彼らには感謝してもし切れないな。




