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【初稿】失われた記憶、消えない愛。取り返す記憶、紡がれる愛。  作者: 言ノ悠
第五章 〜「街での地位と愛を与える君」〜
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068話 Feat.ユリ

 我は、彼らに恩を返す手段を得たと考えた。

 彼の記憶が戻らぬのは、魂の根幹に原因があるという。

 であれば──我は、吸血鬼として、吸血鬼らしく、吸血鬼たる行いをもって、彼を救えるかもしれぬ。


 そう思い至った瞬間、我は迷わず行動を始めた。


「おはよう、レイ」


 シンは、寝ぼけ眼をこするレイに向けて微笑んでいた。

 先ほど見せていた深い陰りのある表情とは異なるが、それでもそこに確かに、彼女への愛情が宿っていた。


「……おはようございます、旦那様。お早いのですね」


 ふあ、と欠伸を洩らしながら、レイは静かに身を起こす。

 寝台の上でのんびりとしていた我らとは違い、彼女は迷いなくするりと床へと降り立った。


 我もその背を追うように、寝台から身を滑らせる。


「レイ、今から少し時間をもらえるか?」


「? かまいませんよ?」


「今から、外でも構わぬか?」


「……外着に着替えてからでも?」


「あ、ああ、もちろんだ」


 冷静な口調に、我はようやく気がついた。

 どうやら思っていた以上に、我は前のめりになっていたようである。

 恐らくレイは、我の様子に何らかの違和を覚えているに違いない。何も感じぬほど、彼女は間抜けではないからな。


「良いでしょう。外に出ましょうか」


 レイは漆黒のドレスに身を包み、その上から同じく漆黒の外套を羽織った。

 その姿は見慣れたものであったが、それでもなお、美しく様になっていると感じた。

 それなりに目が肥えているはずの我ですら、そう思わされるほどである。


「というわけだ。少しの間、レイを借りる」


 我は、静かにシンへと視線を向けた。


「ああ。時には、男がいない方が話しやすいこともあるだろ。ゆっくりしてきな」


 レイが、貴様には話せず、我にだけ打ち明けることなどあるはずがなかろう。

 シンの何気ない言葉に、思わず心の内で毒づいた。


 我とレイは、部屋の外へと出た。


「……それで、何を話したいのですか?」


 シンの耳には届かなくなったのを見計らうように、レイが口を開いた。

 その声音には、静かな興味が滲んでいた。

 わずかばかりも警戒の色を見せぬことに、我は、ほんの少しだけ驚きを覚えた。


「外で、座って話さぬか?」


「ユリがその方が良いのであれば、それでも構いませんよ」


 レイは、あっさりと受け入れてくれた。

 その様子には、どこまでも揺らがぬ落ち着きがあった。

 我よりも、遥かに余裕があるように思えてならなかった。


 自分を覚えていない彼を、それでも変わらず支え続ける彼女は、たかが一千年を生きた吸血鬼では、とてもかなわぬ存在に思えた。


 我らは、宿の扉を静かに開けて、外へと出た。


 朝の空気はまだ冷たく、それでも夜ほどの厳しさはなかった。

 通りには人の気配もまばらで、東の空には淡い光が差し始めている。石畳の道は、うっすらと金に染まりつつあった。


 その光の中を、レイと並んで歩く。沈黙は、苦ではなかった。


 通りの先に、小さな建物が見えた。木枠の窓からは、温かな灯りが洩れている。

 看板に描かれた、蒸気を立てるカップの意匠が、店の趣旨を無言で伝えていた。


「昨日、前を通ったときに良い香りがしていた店ですね。もう空いているようです」


 我らは、その店で話をすることにした。


 レイが扉の取っ手に手をかける。我はひとつ頷き、彼女の後に続いて、静けさの残る朝の店内へと足を踏み入れた。


「そういえば、金銭はあるのか?」


「昨日、眠る前に旦那様からお預かりしました」


「……それ、勝手に使ってよいのか?」


「はい、問題ありません」


 店内にはまだ客の姿はなく、静けさが保たれていた。

 窓際に二人掛けの小さな卓があったので、我らはそこに腰を下ろす。

 木の椅子は素朴ながら手入れが行き届いており、背を預けるとわずかなきしみが返ってきた。


 我らは、それぞれ飲み物を注文した。


「で、そろそろ話してくださいますか?」


 飲み物も届いていない段階で、彼女は切り出した。それなりには気になっていたらしい。


「うむ。我が話したいのは、昨日見に行った屋敷のことだ」


 レイはわずかに瞬きをしてから、視線を我へ向けた。

 何も言わぬまま、続きを促すような沈黙が落ち着いてそこにあった。


 あの屋敷を見たときの、静かな衝撃が思い出される。

 高い石壁と重厚な門。

 外観の堅牢さと整った庭、石畳に残るわずかな踏み跡。

 そして、空気の流れすら計算されたかのような、内装の造りと音の響き。


「我は……あの屋敷、悪くないと思っている。

 音の反響も素直で、日当たりも申し分ない。庭の土も適しておった。

 居住地として、十分に価値があると見た」


 あくまで淡々と告げたつもりであったが、我ながら、その語りにわずかな熱が帯びていたのを自覚する。

 目の前のレイが、それに気づいたかどうかはわからぬ。


「何が目的ですか?」


 レイはそう言った。

 その漆黒の瞳に見つめられると、まるで我の内側まで見透かされているような感覚に襲われる。


「……あ、ああ。今の宿のまま生活を続けるのは、現実的ではあるまい?」


「それは、そうですね」


 我は、屋敷の購入について話すなら、シンよりもレイの方が話が早いと考えていた。

 物事を判断し、整理し、前に進める力において、彼女は実に頼りになる。


「本心を話す気はありませんか?」


 さらに続いた彼女の言葉に、我は一瞬、言葉を失いかけた。……だが、


「スレスを、我の眷属にしようと考えておる。拾った責任があるゆえにな」


 それは、真実でもあり、虚実でもある。

 けれど、口にしたときの響きは、限りなく真実に近いものとなっていたはずだ。


 レイは、静かに目を細めた。

 その表情が、我の自信を揺さぶるための牽制であることは、すぐに察せられた。

 かつて王族として、幾多の視線に晒されてきたことに、思わず感謝すら覚える。


 そのとき、我らのもとに、各々の飲み物が運ばれてきた。

 我は話の間を遮るように、陶器の縁に口をつける。淡く酸味のある味わいが、静かに喉を通っていった。


「それで終わりではないでしょう? 他にも話したいことがあるのでは?」


 彼女もまた、飲み物にそっと口をつけながら、さらに問いを重ねてくる。

 その落ち着いた調子に、つい気が緩みそうになる。我は意識して背筋を正した。


「スレスに、剣を用意してやりたい。

 彼女はすでに、魔法を使えるようになっていた。剣の訓練も、続けておる」


 我は、何食わぬ顔で、もうひとつの願いを口にした。

 それもまた、先の話と同じく、彼女に関わることである。


「渡した本を、しっかり読んでいるようですね」


「うむ。自らの足で生きていけるよう、努めている」


 だからこそ、我にできるのは──吸血鬼としての力を与えることくらいであろう。


「そうですか。それなら良かったです」


 レイの声は淡々としていた。

 それなりに高価な書物を貸していたはずだが、スレスに対する関心は、意外にも薄いように見える。


「レイはどうなのだ? シンとの夜の営みは」


「……人に話すことではないでしょう?」


 レイは、目に見えて不快を示した。

 わかりやすく嫌悪を滲ませるその様子に、我は小さく肩をすくめるしかなかった。


「……その手の話を、明るく話していた時代もありましたね」


 ぼそりと、彼女はつぶやいた。

 我は思わず、その顔を見やる。

 レイの表情は、何か遠い記憶を手繰り寄せているようだった。懐かしさと、かすかな寂しさが滲んでいた。


 その表情を見るかぎり、やはり我が果たすべき恩返しは、彼らに幸福を還すことにあるのだと感じた。


 飲み物が尽きるまでのあいだ、我らは他愛もない話を続けた。

 かつての我には、こうした何気ない会話の機会すら、ほとんどなかったのだから。


 ああ……やはり、彼らには感謝してもし切れないな。


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