060話
森のあちこちで枝が割れ、草が裂ける音が立て続けに響いた。
無数の気配が、一斉に湧き上がる。
「囲まれてる……っ!」
カナメの声が鋭く走る。
木の幹から、草むらから、地面の影から。四方八方から緑の小柄な体躯が、獣のような速度で飛び出してきた。
俺は手にしていた剣で、迫る一体を斬り捨てる。斬撃の余韻すら残さず、次の影がすぐに襲いかかってきた。
レイとユリは冷静に回避していた。
レイは身をひねり、最小限の動きで敵の爪をいなし、即座に体勢を整える。
ユリもまた、一歩も乱さず、わずかな身の傾きで突進を無力化していく。ただ、攻めには転じず、静かに確実な回避を繰り返していた。
だが、それは他の者にとって容易なことではなかった。
カナメは別方向から迫る二体に追われ、息を荒くしている。斬撃で間合いを作ってはいるものの、その動きには疲労と焦りが滲んでいた。
大柄の男が苦悶の声を上げ、後退する。肩の傷が響いたのだろう。動きが鈍った隙を突かれ、別のゴブリンが脇から回り込み、短い刃を深々と突き立てた。男は膝をつき、その場に崩れ落ちる。
俺はすぐさま駆け出した。だが、その時にはすでに、大柄の男の頭部に刃が突き立てられていた。
眼前の人の命が消える音がする。ほんの一瞬だけ逡巡してしまった。だが、すぐに剣を振るった。
誰も、彼に手を伸ばす余裕はなかった。
「逃げられるうちに退却しろっ!」
試験官の怒鳴り声が響く。だがその声も、まるで自分を鼓舞するように聞こえた。
彼はすでに背を向け、森の外へと走り去っていた。こちらを振り返ることもなく、置いていく選択をしたのだ。
ふと横を見やると、カナメの姿もなかった。すでに逃げたのか、どこかに身を潜めたのか、それすら確認する余裕がなかった。
冒険者というのは薄情者の集まりらしい。俺たちも逃げるという選択肢はあるが……
「レイ、ユリ、力を貸してくれるか?」
ここでゴブリンたちを狩らなければ、更なる犠牲者を生むだろう。それを受け入れる気はない。
「旦那様のご意志に従います」
レイは頷き、愛用の長槍を取り出した。
「うむ、構わんぞ。ゴブリンなど、いくら束になろうと敵ではない」
ユリは指先に朱の刃を形成する。あらゆる物を切り裂く、頼もしい力だ。
俺ももう一本の剣を抜き、乱戦に備えて構えを取った。
「なら、ここで終わらせよう。誰も見てないなら、遠慮もいらないな」
残って戦うことを決断した。”究極の忘却”は森ごと消しかねないので、それは自重することにした。
飛びかかってきたゴブリンを斬り伏せ、体をひねって後ろの一体を蹴り飛ばす。
レイは俺の左側で槍を突き出す。軽やかで迷いのない一撃が、敵の咽喉を正確に貫いた。返す手で突き上げ、さらにもう一体を貫く。
機械のような正確さで、槍が次々と敵を穿ち、立ち止まることなく次の標的へと向き直る。
「数、残り十九」
落ち着いた声でレイが告げる。何体倒したか、正確に把握しているのだろう。
ユリは俺の右に位置し、片手をかざしたまま空気をなぞるように指を振る。朱の刃が空を走り、数体のゴブリンを一度に切り裂いた。
血が舞う間もなく、敵は音もなく崩れ落ちる。
「ふむ……思ったよりは、まとまっておるな」
ユリの声は静かだが、指先からは次々と刃が放たれていた。狙いは正確で、届いたものはすべて一撃で沈む。
俺は二本の剣を振るいながら、左右の視界に仲間の動きを捉える。
左右から迫る敵を彼女たちが、俺は正面を受け持っていた。
誰も叫ばず、迷わず、ただ淡々と役割を果たしていた。
その時、再び大きな咆哮が森に響いた。
木々の奥から、異様な気配をまとった影が次々に現れる。
他のゴブリンとは比べものにならない体格。全身に骨のような防具をまとい、手には粗雑な金属の武器を構えていた。
一体、二体──その数は十を超えている。
それらの登場に呼応するように、周囲のゴブリンたちがざわつき、じりじりと後退していく。
まるで、戦場の主役が入れ替わったかのように、空気そのものが変わっていった。
無言で並ぶその姿は、群れではなかった。
統制され、選び抜かれた兵士のようだった。異様な静けさと迫力をまといながら、ただこちらを見据えている。
レイが槍をわずかに下げ、その目に冷たい光を宿す。
「警戒を。今までの個体とは、動きも質も違います」
ユリも視線を細め、軽く口元を歪めた。
「成程な。動きだけで威圧してくるとは……中々面白い」
敵はまだ動かない。ただじりじりと間合いを詰めながら、こちらの出方をうかがっている。
やがて、特殊な個体たちは手にした武器をゆっくりと振るい始めた。
「……が、我の敵ではあるまい」
「……ですね。私たちの敵ではありません」
二人は、今まで以上に速度を上げて動き出した。
先に動いたのはレイだった。
空気を断ち切るような踏み込みとともに、その姿が視界から消える。
次の瞬間、大型のゴブリンの腹部が裂けた。振り下ろそうとしていた棍棒は、届くことなく地に落ちる。
止まることなく槍を引き抜き、レイは反転。跳ね上がるように別の個体へ踏み込み、その咽喉を一突きで貫いた。
その動きに、無駄は一切なかった。
ただ冷たく、効率的に。処理するように、敵が順に倒れていく。
ユリは少し遅れて動き出す。その歩みは優雅でさえあった。
だが、指先がわずかに振るわれるたびに、朱の刃が空間を裂き、敵を断ち切っていく。
左腕を振りかぶった敵の肩口に朱の一閃。突進してきた別の個体の膝を、無音のまま断ち切る。
倒れた体を跨ぐように、再び閃きが走る。
風も、叫びも、血の匂いさえも追いつかない速さだった。
「五体目……ふふ、なかなか退屈せぬぞ」
楽しげに呟いた声が、血飛沫の中に溶けていく。
特殊個体のゴブリンたちも、彼女たちの前では為す術もなかった。
だが、それでも終わらなかった。
森が、ざわめいている。
奥深くから、際限のない気配が湧き上がってくる。
音はもはや“足音”ではない。
圧し寄せる質量そのものが、大地をゆっくりと飲み込もうとしていた。
もはや数えることなど意味をなさない。群れでも隊列でもなく、ただ「数」が迫ってくる。
膨大な足音。武器が軋む音。咆哮もなく、叫びもない。
黙々と、意志を持った濁流のように、彼らは迫ってきた。
「数が……増えています」
レイが冷静に告げ、間断なく押し寄せてきた数体を、連撃で薙ぎ倒す。
突き、捌き、跳び、貫く。
刃が通るたびに敵が一体、また一体と崩れる。だが、その隙間を縫うように、新たな群れが押し寄せてくる。
「ふむ、面白い。ならば、少し範囲を広げるか」
ユリの声が静かに響き、彼女の足元に波紋のような揺らぎが広がる。
瞬間、複数の朱の刃が空間に同時出現した。
右へ、左へ、斜め上へ。幾筋もの軌跡が交差し、放たれる。
裂かれ、削がれ、砕かれ、舞う血と骨が空に散る。
そこに足を踏み入れた敵は、何もできぬまま崩れ落ちていった。
数えきれないはずの敵が、数えるまでもなく倒れていく。
視界の端で、レイとユリの姿が残像のように交差する。
もはや、乱戦ですらなかった。
そこには“戦場”ではなく、ただ“処理場”が広がっていた。
やがて俺たちは、襲い来るすべてのゴブリンを切り伏せた。
寸断された緑の肉体と、赤黒い血に染まった地面の上に、ただ静かに立っていた。
気づけば、日がわずかに傾いていた。どれほどの時が経ったのか、正確には分からないが……少なくとも、一瞬ではなかった。




