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【初稿】失われた記憶、消えない愛。取り返す記憶、紡がれる愛。  作者: 言ノ悠
第五章 〜「街での地位と愛を与える君」〜
60/75

060話

 森のあちこちで枝が割れ、草が裂ける音が立て続けに響いた。

 無数の気配が、一斉に湧き上がる。


「囲まれてる……っ!」


 カナメの声が鋭く走る。


 木の幹から、草むらから、地面の影から。四方八方から緑の小柄な体躯が、獣のような速度で飛び出してきた。


 俺は手にしていた剣で、迫る一体を斬り捨てる。斬撃の余韻すら残さず、次の影がすぐに襲いかかってきた。


 レイとユリは冷静に回避していた。

 レイは身をひねり、最小限の動きで敵の爪をいなし、即座に体勢を整える。

 ユリもまた、一歩も乱さず、わずかな身の傾きで突進を無力化していく。ただ、攻めには転じず、静かに確実な回避を繰り返していた。


 だが、それは他の者にとって容易なことではなかった。


 カナメは別方向から迫る二体に追われ、息を荒くしている。斬撃で間合いを作ってはいるものの、その動きには疲労と焦りが滲んでいた。


 大柄の男が苦悶の声を上げ、後退する。肩の傷が響いたのだろう。動きが鈍った隙を突かれ、別のゴブリンが脇から回り込み、短い刃を深々と突き立てた。男は膝をつき、その場に崩れ落ちる。


 俺はすぐさま駆け出した。だが、その時にはすでに、大柄の男の頭部に刃が突き立てられていた。

 眼前の人の命が消える音がする。ほんの一瞬だけ逡巡してしまった。だが、すぐに剣を振るった。


 誰も、彼に手を伸ばす余裕はなかった。


「逃げられるうちに退却しろっ!」


 試験官の怒鳴り声が響く。だがその声も、まるで自分を鼓舞するように聞こえた。

 彼はすでに背を向け、森の外へと走り去っていた。こちらを振り返ることもなく、置いていく選択をしたのだ。


 ふと横を見やると、カナメの姿もなかった。すでに逃げたのか、どこかに身を潜めたのか、それすら確認する余裕がなかった。


 冒険者というのは薄情者の集まりらしい。俺たちも逃げるという選択肢はあるが……


「レイ、ユリ、力を貸してくれるか?」


 ここでゴブリンたちを狩らなければ、更なる犠牲者を生むだろう。それを受け入れる気はない。


「旦那様のご意志に従います」


 レイは頷き、愛用の長槍を取り出した。


「うむ、構わんぞ。ゴブリンなど、いくら束になろうと敵ではない」


 ユリは指先に朱の刃を形成する。あらゆる物を切り裂く、頼もしい力だ。


 俺ももう一本の剣を抜き、乱戦に備えて構えを取った。


「なら、ここで終わらせよう。誰も見てないなら、遠慮もいらないな」


 残って戦うことを決断した。”究極の忘却”は森ごと消しかねないので、それは自重することにした。


 飛びかかってきたゴブリンを斬り伏せ、体をひねって後ろの一体を蹴り飛ばす。


 レイは俺の左側で槍を突き出す。軽やかで迷いのない一撃が、敵の咽喉を正確に貫いた。返す手で突き上げ、さらにもう一体を貫く。

 機械のような正確さで、槍が次々と敵を穿ち、立ち止まることなく次の標的へと向き直る。


「数、残り十九」


 落ち着いた声でレイが告げる。何体倒したか、正確に把握しているのだろう。


 ユリは俺の右に位置し、片手をかざしたまま空気をなぞるように指を振る。朱の刃が空を走り、数体のゴブリンを一度に切り裂いた。

 血が舞う間もなく、敵は音もなく崩れ落ちる。


「ふむ……思ったよりは、まとまっておるな」


 ユリの声は静かだが、指先からは次々と刃が放たれていた。狙いは正確で、届いたものはすべて一撃で沈む。


 俺は二本の剣を振るいながら、左右の視界に仲間の動きを捉える。

 左右から迫る敵を彼女たちが、俺は正面を受け持っていた。

 誰も叫ばず、迷わず、ただ淡々と役割を果たしていた。


 その時、再び大きな咆哮が森に響いた。


 木々の奥から、異様な気配をまとった影が次々に現れる。

 他のゴブリンとは比べものにならない体格。全身に骨のような防具をまとい、手には粗雑な金属の武器を構えていた。


 一体、二体──その数は十を超えている。


 それらの登場に呼応するように、周囲のゴブリンたちがざわつき、じりじりと後退していく。

 まるで、戦場の主役が入れ替わったかのように、空気そのものが変わっていった。


 無言で並ぶその姿は、群れではなかった。

 統制され、選び抜かれた兵士のようだった。異様な静けさと迫力をまといながら、ただこちらを見据えている。


 レイが槍をわずかに下げ、その目に冷たい光を宿す。


「警戒を。今までの個体とは、動きも質も違います」


 ユリも視線を細め、軽く口元を歪めた。


「成程な。動きだけで威圧してくるとは……中々面白い」


 敵はまだ動かない。ただじりじりと間合いを詰めながら、こちらの出方をうかがっている。


 やがて、特殊な個体たちは手にした武器をゆっくりと振るい始めた。


「……が、我の敵ではあるまい」


「……ですね。私たちの敵ではありません」


 二人は、今まで以上に速度を上げて動き出した。


 先に動いたのはレイだった。

 空気を断ち切るような踏み込みとともに、その姿が視界から消える。


 次の瞬間、大型のゴブリンの腹部が裂けた。振り下ろそうとしていた棍棒は、届くことなく地に落ちる。

 止まることなく槍を引き抜き、レイは反転。跳ね上がるように別の個体へ踏み込み、その咽喉を一突きで貫いた。


 その動きに、無駄は一切なかった。

 ただ冷たく、効率的に。処理するように、敵が順に倒れていく。


 ユリは少し遅れて動き出す。その歩みは優雅でさえあった。

 だが、指先がわずかに振るわれるたびに、朱の刃が空間を裂き、敵を断ち切っていく。


 左腕を振りかぶった敵の肩口に朱の一閃。突進してきた別の個体の膝を、無音のまま断ち切る。

 倒れた体を跨ぐように、再び閃きが走る。

 風も、叫びも、血の匂いさえも追いつかない速さだった。


「五体目……ふふ、なかなか退屈せぬぞ」


 楽しげに呟いた声が、血飛沫の中に溶けていく。


 特殊個体のゴブリンたちも、彼女たちの前では為す術もなかった。


 だが、それでも終わらなかった。


 森が、ざわめいている。

 奥深くから、際限のない気配が湧き上がってくる。


 音はもはや“足音”ではない。

 圧し寄せる質量そのものが、大地をゆっくりと飲み込もうとしていた。


 もはや数えることなど意味をなさない。群れでも隊列でもなく、ただ「数」が迫ってくる。


 膨大な足音。武器が軋む音。咆哮もなく、叫びもない。

 黙々と、意志を持った濁流のように、彼らは迫ってきた。


「数が……増えています」


 レイが冷静に告げ、間断なく押し寄せてきた数体を、連撃で薙ぎ倒す。

 突き、捌き、跳び、貫く。

 刃が通るたびに敵が一体、また一体と崩れる。だが、その隙間を縫うように、新たな群れが押し寄せてくる。


「ふむ、面白い。ならば、少し範囲を広げるか」


 ユリの声が静かに響き、彼女の足元に波紋のような揺らぎが広がる。

 瞬間、複数の朱の刃が空間に同時出現した。


 右へ、左へ、斜め上へ。幾筋もの軌跡が交差し、放たれる。

 裂かれ、削がれ、砕かれ、舞う血と骨が空に散る。

 そこに足を踏み入れた敵は、何もできぬまま崩れ落ちていった。


 数えきれないはずの敵が、数えるまでもなく倒れていく。

 視界の端で、レイとユリの姿が残像のように交差する。


 もはや、乱戦ですらなかった。

 そこには“戦場”ではなく、ただ“処理場”が広がっていた。


 やがて俺たちは、襲い来るすべてのゴブリンを切り伏せた。

 寸断された緑の肉体と、赤黒い血に染まった地面の上に、ただ静かに立っていた。

 気づけば、日がわずかに傾いていた。どれほどの時が経ったのか、正確には分からないが……少なくとも、一瞬ではなかった。

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