006話
地面には、横たわったギランザスのせいか、漏れ出た血液がぬかるみを作っていた。
レイはそれに戸惑うことなく、その巨体に寄り添うように屈む。槍の刃先を持って丁寧に切り裂いた。
「躊躇がないな」
俺は二の足を踏んでしまう。
赤く染まった大地は凄惨な光景であったし、何より、俺はギランザスの解体の仕方がわからなかったからだ。
「慣れてますからね」
レイは少しだけ微笑んでから、真剣な手つきで巨体の解体を行っていく。
まず彼女は、後脚の付け根に槍を差し込み、関節の可動部を探るように動かした。
数秒の静寂のあと、刃が腱を断ち、鈍い裂断音が周囲に響く。
驚くほど正確な動作だった。刃先を立てすぎず、力任せにもならない絶妙な加減で、巨大な肉塊が丁寧に分離されていく。
その手際に見とれていると、彼女が静かに言った。
「こちら、脚肉。保存性が高く、栄養もあります。あとで処理しましょう」
切り出された肉を運ぶための布を手渡され、俺は慌てて受け取る。
布の上にずしりと置かれたそれは、重いというより“生命の重さ”が残っているような感覚だった。
レイは次に、胴体の皮を引きはがしにかかる。
肋骨の走りを確認し、槍から小型のナイフに持ち替え、器用に切り進めていく。
「内臓に触れるときは注意が必要です。腫れた箇所や膨張している袋は破かないように」
そう言いながら、彼女は腹腔を開き、腸をそっと押しのけて、赤黒い臓器を慎重に取り出す。
体内から吹き出した温かい蒸気が一瞬視界を曇らせた。
手が止まりかけた俺に、レイは落ち着いた声で続ける。
「初めてで当然です。嫌悪する必要はありません。……これも、生活の一部ですから」
内臓を布に包み分けながら、彼女は要不要を瞬時に仕分けていく。
毒性を含んだ腺は土を掘って埋め、血管の多い部位は後で煮出し用に残すようだった。
続いて、背中から腰にかけて肉を削ぎ落とし、最後に尾の付け根に刃を入れる。
そこは筋が硬く、骨も太いため、槍の柄をてこの原理で使って切断していた。
「尾は革素材として使えます。食用には不向きですが、捨てるのはもったいないですね」
解体された部位はすべて、用途ごとに整然と並べられていく。
食材、保存用、薬用、素材、そして廃棄対象。
無駄がない。どれも丁寧で、長い時間をかけて積み重ねた動作だとわかる。
俺はその手際を見ながら、心のどこかで思っていた。
こんなふうに、生きるための技術を、俺は何ひとつ持っていない。
戦うこともできなかった。助けになることもできなかった。
でも。
それでも──
「……俺も、できるようになりたい」
思わず、そう漏らしていた。
レイは一瞬手を止めて、こちらを振り返る。
その顔には、いつもの穏やかな微笑があった。
「すぐになれますよ。旦那様なら、きっと」
短い言葉だったけれど、それだけで少しだけ、俺の足元を確かなものにした。
レイが手慣れていたおかげで、ギランザスの解体は日が暮れる寸前には終わりを迎えた。
俺たちよりも遥かに巨大な体を、ほぼ彼女ひとりで解体しきった。
殆ど戦力にならない俺を含めても、数時間で済んだのは、やはり彼女の手腕が抜きん出ていたからだろう。
「旦那様、今日はここで火を起こして食事をしませんか?」
レイが突然そんなことを言い出した。脈絡のない提案だったが、不思議と彼女らしいとも思った。
「もちろん、良いよ」
俺は二つ返事で了承した。
でも、その返事を聞いたレイは、ほんの一瞬だけ表情を曇らせたように見えた。
「……何か変なことを言ったか?」
心当たりはない。だからこそ、余計に気になってしまい、問いかけずにはいられなかった。
「いえ、なんでもありません。そんなことよりも、さっさと料理を始めましょう」
彼女はすぐに顔を上げ、何事もなかったように明るい声に戻った。まるで、さっきの表情は見間違いだとでも言うように。
それから、彼女は人差し指を軽く上げると、指先に小さな炎を灯した。揺れるそれはぬくもりを帯び、暗転し始めた周囲を優しく照らし出す。
世間的には魔法と呼ばれるもので、記憶を失っている俺でも、なぜかそれは知っていた。
もしかしたら、知ってて当たり前なことなのかもしれない。
レイは手の届く範囲にあった小枝を手に取って、指先からその先っぽへと光を移した。
「旦那様、少しの間だけ、お持ちいただいてもいいですか?」
様々な世話を焼いてくれる彼女の、些細なお願いを聞かないわけもなく、俺は小枝を受け取った。
すると、彼女はその場を立ち上がり、どこかに向かって歩いたかと思えば、すぐに戻ってきた。
彼女の両手には、火種になりそうな小枝や枯れ葉がいっぱいに抱えられていた。
両手に抱えていたそれらを、レイは俺たちの前に置いた。
枝や枯れ葉がくしゃりと音を立て、夕暮れの空気にほんのりと湿った土の匂いが混ざる。
「旦那様、火を」
言われた通りに預かっていた光を差し出すと、彼女はそれをそっと受け取り、集めた木々の中心に重ねた。
ぱち、という乾いた音がはじけた。最初は少し火が弱かったが、レイが更に魔法を使ったことで、立派な炎へと育った。
火が炎へと変わる間、俺と彼女の間に会話はなかった。
オレンジ色の揺らぎを囲みながら、俺たちは腰を下ろしていた。
何故か懐かしく感じられて、あまり口を動かす気になれなかった。
風がそっと吹き抜け、育った炎はレイの真っ黒な髪を柔らかく照らした。
「旦那様、お肉を焼きましょうか」
「ん、そうだな」
何の違和感もなく、何か疑問に思うこともなかった。
彼女は先ほど解体したギランザスの肉を取ってきた。骨付き肉、薄切りになった肉、はたまた内臓の一部など、種類は様々であった。
「……あ」
レイは一度座り直し、ふと目を瞬かせた。何かを思い出したような、そんな表情だった。
「どうした?」
「えっと……お塩などの調味料を持ってくるのを忘れてしまいまして」
「このまま食べてもおいしそうだけどな」
俺は骨付き肉を一つ、彼女から受け取って炎にかざした。
「いえ、旦那様には、なるべくおいしい物を食べていただきたいので、取りに戻ってもいいですか?」
「まあいいけど。……じゃあ、レイが食べる分も俺が焼いておくよ」
恐らく、俺が永らく眠っていた施設にでも、彼女が求める調味料とやらがあるのだろう。
「ありがとうございます」
彼女はそう言って、火の番を俺に任せて、この場を後にした。
レイの姿が見えなくなってから、どれくらい経っただろうか。
お守りをしていた炎は、未だに元気よく揺れている。焼いていた肉からは、香ばしい匂いと、ほんのりとした脂の匂いが立ち上っていた。
時折、ぽたりと落ちる脂肪のしずくが、炎にごうっと元気を与えた。
一口くらい先に味見しても……
そんなことを考えていたら、すぐ近くで草を踏む音がした。
レイが戻ってきたと思い、音の方角に振り向くと、そこには誰もいなかった。
「気のせいか……?」
周囲に確認するように、そうやって口にしながらも、俺の手は肉を皿代わりの葉の上に置いて、その代わりに、勝手に手が腰の剣に触れていた。
妙な胸騒ぎがした。
今は彼女がいないから、もしかしたら、少しだけ心細くなっているのかもしれない。
次の瞬間、俺の前で揺らぐ炎の向こう側に、何かの影がちらりと動いた気がした。