056話
「ん……」
いつの間にか、眠っていたらしい。寝台の上には、意識を手放す前に確かにいたはずのレイの姿がなかった。
俺の手を握っていたはずの彼女の姿を探して、身を起こす。
視線を巡らせると、宿の部屋に置かれた丸机の周囲、二脚の椅子と、その傍らで、女子会……のようなものが、静かに開かれているのが目に入った。
そこには、ユリとスレス、そしてレイの姿もあった。三人は何やら楽しげに言葉を交わしているようだった。
その輪の中に入っていく気にはなれず、俺はそっと寝台へと身を戻した。
目を閉じても、彼女たちの笑い声がうっすらと耳に届いた。内容まではわからなかったれど、どこか安心する響きだった。
俺だけが取り残されたような気もしたけれど、それは寂しさからではない。
身近な人たちが笑っている。その空間のすぐそばにいられることが、ただ心地よかった。その輪の中に入らなくても、十分だった。
俺はそのまま、もう一度ゆっくりと意識を手放した。
「旦那様、お目覚めですか?」
再び目を開けた視界に、レイの双眸がふわりと映り込む。
その瞳は、柔らかく微笑んでいた。
あまりに優しくて、ただそのまなざしに包まれているだけで、もう一度、静かに眠りへと戻ってしまってもいいと思えた。
「旦那様、お寝坊さんはやめてください」
けれど、それは彼女にたしなめられてしまった。そのたしなめられた事実すら温かく感じられた。
「……おはよう」
俺は、そっと彼女に手を伸ばす。
すると、その手を迎えるように、彼女は自らの頬を、俺の手のひらへと柔く擦り寄せた。
「おはようございます」
俺の挨拶を聞いて、彼女はとても嬉しそうに微笑みを返してくれた。
こんな何気ない朝を、彼女がどれほど待ち望んでいたのかは、今のその表情を見れば痛いほど理解できる。
……できる限り、愛してやらなきゃな。
俺は身体を起こして、彼女の隣に座った。
「さっき、起きてましたよね?」
レイは、少しだけ可笑しそうに、面白いものでも見るような目で言った。
「……一瞬だけな」
あの短い間でも、レイはしっかり気づいていたらしい。
こっちは見てなかった気がするんだが……まあ、レイだから驚きはない。
「話しかけてくださってもよかったのに」
「さすがに無理だろ」
女同士の会話に男が首を突っ込むのは、さすがにどうかと思った。
「旦那様、別に女性が苦手というわけではないですよね?」
「……おかげさまでな」
俺は肩をすくめて見せた。
これだけレイに構われていて、今さら女性が苦手になることはない。
「俺とレイの出会いって、どんなだったんだ?」
唐突に、そんなことを口にしていた。
目覚めたばかりの頃よりも、今の俺たちのほうが、ずっと距離が近づいていたから。
気になっていたくせに聞かずにいたことを、つい、勝手に問いかけてしまった。
「旦那様が、私を助けてくださったのですよ」
「そうなんだ」
前にも、彼女は同じことを口にしていた気がする。
聞いたくせに、それ以上を深く知ろうという気には、やはりなれなかった。
だからその話を掘り下げる代わりに、俺はふと部屋の中へと視線を巡らせた。
「……あれ? ユリとスレスがいないな」
そのときになってようやく気づいた。
色を持たない吸血鬼と赤髪の女。彼女たちの姿が、部屋のどこにも見えなかった。
「外に出かけられましたよ。スレスが“強くなりたい”と仰るので、私が勉強してきた書物をお貸ししたのです。
けれど、読んでいるだけでは意味がないと……それで、ユリと実戦に出かけられました」
「追われてたんじゃないのか?」
スレスは暗黒神の復活を志す集団に追われている。外に出ることすら、危険だと思っていた。
……そういえば、その集団には名前はあるのだろうか?
「そうですね。ですから、顔は隠してあります」
「……変装って手があったか」
顔が見えなければ、基本的に身元は割れないか。
「外は、夜じゃないのか?」
部屋のカーテンは閉め切られていて、外の様子まではわからない。
けれど、カーテンの端から差し込むはずの光が見えないことを考えると、すでに日が傾いているのは確かだろう。
「夜ですね。ユリの瞳が、爛々としていました」
「まあ、吸血鬼だからなぁ」
昼間も普通に歩ける彼女だが、良くも悪くも所詮は吸血鬼だ。
種族として夜を好む傾向は、やはり変わらないらしい。
俺は再び、寝台に身を投げた。
「お寝坊さんですね」
くすくすと、レイが笑う。
「寝るのは嫌いじゃない。特に、誰かがそばにいてくれるのは好きだよ」
人のぬくもりを感じられる空間で、ただ怠惰に眠るのが好きだ。
そんな、当たり障りのない平和な時間が、俺は好きだ。
だから実のところ、旅の野宿もそれほど嫌いじゃない。
もちろん、宿のほうが心も体もずっと休まるけれど……それでも、誰かがそばにいてくれるだけで、その気配を感じるだけで、心は柔く安らぐ。
「旦那様の、そういうところが、私は好きですよ」
「……そっか」
どんな“ところ”なのか、たずねてみたくなった。
けれど、それはやめた。
静かに、ゆっくりと瞼を閉じた。




