055話 Feat.ユリ
声のする方へ視線を向けると、いつの間にか、レイが我の手が届くほどの距離にまで歩み寄っていた。
「シンはどうした?」
近頃の彼女は、異様なほど彼に甘えたがっている。その彼を置いてここまで来たとは思えなかったが、彼女の周囲に視線をやっても彼の姿はない。
「眠ってしまいました」
「……そうか。それで、手持ち無沙汰になったというわけか」
「はい、そうです」
そのまま隣で眠ってしまえば良いものを。そう思わないでもなかったが、口には出さずにおいた。
「して、“ある程度なら”とは、どの程度を指しておる?」
我は意識的に話題を戻し、再びスレスの件に焦点を当てた。レイは確かに、ある程度は強くなれると語っていた。
「それは、その人次第です。ただ、人間は武器を扱うことができますし、学びを積み、訓練を重ねれば、それなりに戦えるようにはなれます」
レイの口調には、誇張も侮蔑もなかった。ただ淡々と、静かに事実を述べていた。感情を交えぬその声音には、彼女なりの誠実さが宿っている。
「訓練の方法……」
「教えて差しあげることもできますが、私の教え方は少々厳しいかもしれません。そのため、まずは書物を通じて基礎を学ばれるのが良いかと存じます」
「……そんな書物、あるのか?」
強くなるための本など本当に存在するのかと、思わず疑念が浮かぶ。もしそんなものがあるのなら、誰しもが既に手に取っているはずだと、どこかでそう思っていた。
「これと、これと、それから……これもですね」
そう言いながら、レイはどこからともなく数冊の本を取り出し、我とスレスの間に置かれた机の上へと丁寧に並べていった。
「……す、すごい……」
スレスは目を丸くしていた。その反応も無理はない。並べられた書物は、いずれも厚みがあり、重厚な装丁が施されている。革表紙には金や銀の箔押しが施され、いずれも長い年月を経てきたことが一目で分かる書物だった。
「もし、よろしければ。読んでみてください」
レイの声音は穏やかで、押しつけがましさは一切なかった。ただ相手の選択を尊重し、そっと差し出すような、静かな気遣いがあった。
「……はい。ありがとうございます」
スレスは戸惑いを滲ませながらも、小さくうなずいた。そして、まるで壊れ物に触れるかのように、そっと一冊の本へと手を伸ばした。その仕草には、ほんの僅かな期待が入り混じっていた。
そして、頁をめくった。
「……読めません」
スレスが困ったように呟いたので、我もその本へと視線を移した。
「……我も読めぬな」
そしてようやく気づいた。これは、我にとっては珍しい話ではない。だが、シンやレイと会話を交わせていたからといって、彼らが用いる言語が理解できているわけではなかったのだ。
会話には“言霊”が宿る。ゆえに、言霊を自在に操ることができる者は、文化や言語圏を越えて意思疎通が可能となる。つまり、言葉の「意味」は共有できる。
だが、書物は別だ。文字には音がない。つまり言霊が宿らない。読めぬ文字は理解できない。
もちろん、ごく稀に“言霊”を帯びた文字というものも存在する。だが、それらは特別な技法で刻まれたものであり、日常に流通するようなものではない。
「あぁ、そうですよね。……この"自動翻訳機"を使ってみてください」
さらにレイが差し出してきたのは、我には馴染みのない道具であった。
遥か昔、我の故郷を訪れた商人が身に着けていたのを、一度だけ見たことがある。
目が悪い者が視力を矯正するために使うのだと、彼は話していた。
視力を矯正したところで、読めぬ文字が読めるようになるとは思えぬが……。
我の疑念をよそに、スレスはレイに促されるまま、その"自動翻訳機"をおそるおそる身につけた。
「……い、意味がわかります……!」
スレスは、まるで魔法でも見たかのように目を見開き、驚きと戸惑いが入り混じった声を上げた。
彼女の手が、机の上に広げられた一冊の本に再び伸びる。震える指先で頁をめくり、その目は食い入るように文字を追っていた。
「……ちゃんと、読める。意味が……頭に入ってきます……」
ぽつり、ぽつりと漏れる言葉の一つひとつが、驚きと感動に満ちていた。
「不思議な道具だな。言霊の加護でも宿しているのか?」
我は、スレスの掛けている奇妙な細工を覗き込んだ。透き通る双の硝子面には、微かに魔紋が浮かび、側面を縁取る金属の装飾には、繊細な術式の線が幾重にも刻まれていた。
「いいえ。これは、人が積み重ねてきた技術の結晶です」
そう静かに答えたレイの声音には、どこか強い思い入れが滲んでいた。
「ですから、本当に強くなりたいと願うのなら、この道具をお貸しします。ただし、できる限り丁寧に扱ってくださいね」
そうして彼女の唇に浮かんだのは、仄かで控えめな微笑だった。
それはいつもの柔らかな笑顔でもなく、愛しい彼に向ける甘やかな表情でもなかった。
それでも、不自然さは一切なかった。ただ、どこかに距離を置きつつも、確かに何かを伝えようとする強い意志が、そこに宿っていた。
「は、はい……!!」
スレスは勢いよく頷いた。我と語らっていた時の、自信なさげな影は、その表情からすでに消えかけていた。




