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【初稿】失われた記憶、消えない愛。取り返す記憶、紡がれる愛。  作者: 言ノ悠
第五章 〜「街での地位と愛を与える君」〜
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053話 Feat.ユリ

 日が経つにつれ、レイの言葉遣いや仕草が、少しずつ柔らかなものへと変わってゆくのを感じている。

 先ほど、我が愚にもつかぬ勘違いをした際もそうであった。“にゃあ”とは何であろうか。かつての彼女なら、あのような反応を見せるなど想像もできなかった。


 恩人が幸せそうにしている姿を見るのは、実に嬉しいものだ。


 それに、シンもまた、纏う気配が僅かに変わり始めている。

 セレアス商会でのやり取りを思い返せば、あれはもはや記憶喪失の男の振る舞いではなかった。


 シンも、レイも、この短い期間で、大きく変わってきている。

 いや、元々がそうであって、今は単に”戻りつつある”だけなのかもしれぬな。そう表現した方が自然に感じられる。


 やがて、我らは宿へと戻ってきた。


 扉を開けると、そこにはひとり、ぼんやりと椅子に腰掛けているスレスの姿があった。


「ユリ、これを渡してやれ」


 シンが、紙袋を我に手渡してくる。中には、先ほど市で買い求めた食べ物が詰められていた。


「……貴様らの分は?」


 先に取らずとも良いのかと尋ねれば、彼はあっさりと首を横に振った。


「俺たちは、先にのんびりするから。後で残ったのを食べるよ」


 その言葉に続いて視線を向けると、紙袋を渡してきた彼の反対側の腕に、レイがそっと寄り添いながら、その袖を控えめに引いていた。


 のんびりする、とはすなわち彼女との時間を過ごすという意味なのだろう。

 この街に来る少し前から、レイは彼に随分と構いたがりを見せている。過去の事情を思えば、それを咎めるつもりはないが、どうにも、少々度が過ぎているようにも感じられてきた。


 かつては、ここまで執拗に彼に構う様子は見られなかったはずだが、どういった心境の変化なのだろうか。


「わかった」


 不可解に感じる点はあったが、今は問いただす時でもあるまい。ただ静かに、頷いて応じるにとどめた。


 我は彼らから視線を外し、再びスレスの方へと向き直った。

 彼女の様子も、やはりどこかおかしい。未だにぼんやりとしたまま、まるで我らの帰還にも気づいていないかのようであった。


「スレス」


「はっ……ユリ様。お戻りになられていたのですね」


 やはり、気づいていなかったようだ。


「……体調でも崩したか?」


 思わず、素直な問いを口にしてしまった。繕うよりも先に、彼女の身を案じる言葉が出ていた。

 この寝室は決して広くはない。扉が開けば気配にも音にも気づくはずだ。吸血鬼のような五感がなくとも……いや、むしろそれが普通の人間というものであろうか。我にはわからぬな、考えるだけ無駄だ。


「だ、大丈夫です!

 少し……その、ぼうっとしていただけで」


 スレスは赤毛の頭をかき、気まずそうに微笑んだ。どこか情けなさを滲ませる仕草ではあったが、それでも、彼女なりの誠意が感じられた。


「何か、考え事でもしていたのか。……どれ、話してみよ」


 我は彼女の向かい側に腰を下ろし、王族らしく静かな振る舞いで問いかけた。相手が言葉を紡ぎやすいように、威圧ではなく、導くような姿勢を心がける。


「……どうやって、生きていこうかなって」


 ぽつりと落とされた言葉には、漠然とした未来への不安が滲んでいた。

 彼女は“暗黒神の末裔”であり、その“神”とやらの本体は、冒険者ギルドのダルトンによれば、あらゆる災厄の源と見なされているという。


 生贄にされなかったとしても、この先どこかで出生が知られてしまえば、平穏な生活など望むべくもないだろう。


 親と子は、決して同一ではない。だが、それを割り切って考えるのは難しい。

 理はそうであっても、人の感情は往々にして、それに抗えぬものだからな。


「あ、ごめんなさい。こんなことを話されても困りますよね」


 スレスははっとしたように言い、視線を逸らした。

 その声音には、何を語っても結局は変わらないという諦めと、己の抱える不安を他人に預けてしまったことへの戸惑いが滲んでいた。

 誰かに迷惑をかけたくない。その思いが先に立って、彼女は言葉を引き取ろうとする。


「困ることなど、何もない。我は、問うたゆえに答えを得たに過ぎぬ」


 静かにそう返す。

 他者の負担になってしまうことを恐れて、心を閉ざすことが、果たして彼女にとっての“生”と言えるのか。

 我もそうだったから、余計に他人事には思えぬ。

 もちろん、今の彼女の現状を否定したいのではない。ただの同情だ。


「貴様も、苦労するな」


 我は、そう告げるほかになかった。今の彼女に、これ以上踏み込むことも、勝手な慰めの言葉をかけることも、我のするべきことではない。


「はは……そう、ですかね」


 わずかに笑ったその顔から、光がふっと抜け落ちた。


 スレスの瞳は、まるで何も映していないかのように濁っていた。

 先ほどまで微かに宿っていた灯火すら、今はただの影の奥に沈んでいるようだった。


「ひとまず、腹は減っておろう。

 好きなものを取って食え」


 我は、先ほどシンから受け取った紙袋を開き、彼女の前へと差し出した。


 吸血鬼である我にとって、食欲という感覚は、いささか縁遠いものではある。

 だが、身体に力が入らねば、心も沈むという理屈は理解している。

 我もまた、シンより血を分け与えられてからというもの、随分と心身に活力が戻った。ならば、人の身である彼女には、なおさら栄養が要るであろう。


「……とはいえ、さすがに全部は食うなよ。

 それとも、すべて食したいとでも言うのか?」


 スレスは、袋の中をそっと覗き込みながら、小さく息を呑んだ。

 そのまましばらく黙っていたが、やがて控えめに焼き菓子をひとつ摘み上げると、申し訳なさそうに口元を緩めた。


「……ありがとうございます。少しだけ、いただきますね」


 その声はまだ弱々しくはあったが、先ほどまでの空虚な気配に、ほんのわずかな温もりが戻っていた。

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