052話
俺たちは、ベルトンとのやり取りを終えて商会の建物を後にした。
正式な査定結果は明日以降になるとのことだったが、ひとまず前金として金貨十枚を受け取った。これで、当面の生活に不自由することはないだろう。
ベルトンの話によれば、この金貨は「セイント金貨」と呼ばれるもので、市場で流通する「セイント銅貨」の百万倍の価値を持つという。
ちなみに、セイント銅貨にはいくつかの種類があり、「セイント青銅貨」は銅貨の十倍、「セイント白銅貨」は百倍の価値があるらしい。
「今日の旦那様、昔の面影があって……とても懐かしかったです」
レイが俺のすぐ後ろを歩きながら、ふとそんなことを口にした。
「それは、褒められてるのか?」
「私は、嬉しいです」
そう言って、彼女は後ろから俺の腕にそっと手を伸ばし、軽く抱きついてきた。
「……そっか」
彼女が喜んでくれるのなら、それでいいか。
「見せつけるでないわ」
ユリが呆れたように視線を逸らす。
ふと空を見上げると、橙色に淡く染まりはじめていた。日が傾き、石畳に伸びる影がゆっくりと長くなる。人通りもまばらな裏通りを、俺たちは肩を並べて歩いていた。
風が穏やかに吹き抜ける。遠くから漂ってきたのは、焼き菓子と果実酒の甘い香り。誘われるように大通りに出ると、通り沿いの出店が軒を連ね、小さな屋台に人だかりができている。活気に満ちたざわめきが、夕暮れの街に溶け込んでいた。
「お祭り……ではないのだな?」
ユリが立ち止まり、くるりと首を傾げる。その白銀の髪が風に揺れ、光を跳ね返した。
「ああ、たぶん、これは……市だな。夕市ってやつかも」
俺にはこの街の記憶はない。けれど、こうした情景には覚えのない既視感があった。どこか別の旅先で見かけた光景と重なる。
市場ほど大きくはないが、通勤帰りの市民を相手にした、簡易な催しなのだろう。
「旦那様、あれ……見てください。可愛い」
レイが指差した先にあったのは、小さな陶器細工の露店だった。動物や小妖精を模した置物が並び、色とりどりの釉薬が夕陽にきらめいていた。
「見てるだけで楽しくなりますね」
彼女は目を輝かせながら、しゃがみ込んで一つひとつを眺めている。
その横で、ユリが小さな人形を手に取り、じっと見つめた。
「……ふむ。これは吸血種を模したのか? しかし牙が短すぎるな。頭部も、もう少し整った輪郭であるべきだ」
「いや、違うと思う。それ、たぶんそれ、ただの猫だ」
「猫、なのか?」
真面目に悩むユリの顔に、思わず笑いがこみ上げた。
「……にゃあ、って言いませんでした?」
レイの言葉に、ユリは眉をひそめた。
「我はそんな鳴き声を発した覚えはないが……」
くすくすと笑いながら、二人が言葉を交わす。夕暮れの街角で、その光景がどこまでも柔らかだった。
この穏やかな時間が、少しでも長く続いてほしいと、自然と思った。
「旦那様。あの……この猫、ひとつ買ってもいいですか?」
「いいよ。買っていこうか」
俺は懐から、今日受け取った金貨ではなく、事前にベルトンから崩してもらっていたセイント白銅貨を一枚取り出す。これなら、小物の買い物にも使えるだろう。
「おおう。どっかのお貴族様のお忍びかい?」
店番をしていた老人は、その白銅貨をまじまじと見つめ、驚き交じりの笑みを浮かべた。白銅貨すらも、あまりこの手の店では使用されないようだ。
「いや、旅の途中だ。暫くはこの街に住もうと思ってる」
少なくとも冒険者ギルドの件が上手く行くまではこの街から離れることはできない。それに、グラン率いる混合旅団にも恩を返していない。
「あいよ、これがお釣りの青銅貨と銅貨だ。そこの猫を持っていきな」
老人から細かい硬貨を受け取って、白銅貨が入っていた懐に戻した。
「ありがとうございます。……大事にしますね」
レイが猫の置物を胸に抱き、小さく頬を染めた。照れくさそうにも見えるその横顔に、俺はただ、うなずき返した。
「別嬪さんに囲まれて、羨ましい限りだぜ」
「ああ、そうだな」
通りすがりの老人が、揶揄うように笑いながら声をかけてきた。冗談めかしたその言葉に、俺は否定することもせず、静かに返した。
「シン、レイ。そろそろ戻らぬか。スレスを待たせているはずだ」
ユリがそう促すように声をかける。
確かに、日が傾き、空はすでに深い藍色に染まっていた。冒険者ギルドを訪れたのは朝だったが、もう夕暮れを過ぎている。
「宿で食べられそうなものを少し買っていこう。何も渡さないのは、さすがに忍びない」
スレスは宿で一人、じっと待っているはずだ。外出すれば追手に捕まる危険があるから、勝手に出ることはないだろうが、きっと腹を空かせている。朝から何も口にしていないはずだ。俺たちも食べるのをすっかり忘れていたが。
「そうですね。それがいいと思います」
レイがしとやかに頷き、視線を街角の出店へ向けた。
色とりどりの品々が並ぶ中から、彼女は迷うことなく干し肉、湯気の立つ焼き芋、そして甘い香りを放つ菓子をいくつか選び、ていねいに紙袋に包んでもらう。
受け取った紙袋が手のひらにじんわりと熱を伝えてきた。その温もりは、まるで遠い記憶の残滓のように、俺の心をそっと撫でた。




