005話
ギランザスの牙が、空気を裂く音とともに振り下ろされた。
レイは一瞬で重心を落とし、しなやかに地を這うように身をかがめて、その一撃をするりと避けた。
そんな彼女の動きには一切の迷いはなく、骨の有無を疑うほどの柔軟さがあった。
ギランザスの巨悪な牙をかいくぐり、顎の下からレイが這い出る。
身体を反転させると同時に、手にした銀黒の槍がしなり、そのまま一気に振り抜かれた。
ためらいも抵抗もなく放たれたその力は、彼女の身体ほどもある巨体の後脚をあっさりと切り裂いていた。
苦痛に耐えかねたのか、ギランザスは悲鳴とも威嚇とも取れる咆哮を上げた。
動きは明らかに鈍り、片足を引きずったまま、尾を荒々しく振り回す。地面が抉れ、舞っていた土煙はさらに濃く、視界を悪化させた。
「レイっ!?」
勝手に声が出た。でも、それが杞憂であったことは、直後に思い知らされた。
土煙の向こう、黒く鋭い瞳が一瞬だけ光る。
まっすぐギランザスを射抜くその視線に、一切の揺れはなかった。
風に乗って、艶やかな黒髪がはためいた。
彼女は一気に、巨体の腹下へ飛び込む。槍が肉を裂く鋭い金属音が、空気を震わせた。
次の瞬間、赤い線が走ったのが見えた。
腹部に深く突き立った銀黒の槍から、粘ついた液体が地面に叩きつけられていた。
巨獣が短く、低く呻いた。
まるで最後のあがきのようだった。吹き出した深紅は彼女の黒髪を染めていく。
さらに、尾をじたばたと振り回し、牙を振り下ろすように暴れていた。俺には、それが焦っているように見えた。
腹に突き立った槍をどうにかしたいのかもしれないが、レイの立つ位置には絶対に届かない。
そしてギランザスの動きは徐々に鈍くなり、やがて地面へと崩れるように倒れ伏した。
暴れる尾も、響いていた咆哮も、ぴたりと止み、無音の空間がその場を支配していた。
俺は、返り血で赤く染まったレイに、何と声をかければいいのか分からなかった。
結局、何も言えないまま、その背を見つめていた。
すると、そんな俺に気づいたのか、顔についた返り血をそっとぬぐいながら、彼女はゆっくりと振り返った。
そして、いつものように、柔らかな笑みを浮かべた。
「旦那様も、これくらいは簡単に倒せるようになりますよ」
その言葉を、俺は不思議と、否定する気にはなれなかった。
「そうだと良いんだけどな」
でも、その言葉を素直に肯定できるほど、自信があるわけでもなかった。
それでも、これからの俺に必要なものが何かは、はっきりと理解できた。
目の前に広がっていた現実が、答えを教えてくれていた。
「こんなに危険な世界なら、俺も強くならないといけないよな」
気づけば、口をついていた。自分自身への、小さな確認のつもりだった。
レイが歩み寄ってくる。
気づけば、彼女が目の前にいた。俺より少し背の高いその姿に、自然と視線が上を向いた。
「旦那様は気にしなくていいのですよ?」
そんなふうに、不思議そうな顔で言われた。
「流石に気にするだろ」
「私がお守りしますよ?
そう簡単には、誰かに負けたりしません」
なぜか、何もしなくていいような気がしてしまった。
けど、そういうことじゃないよな。
そういうことじゃない。
守られる自分は、ひどく気色が悪い。
「ごめん。それは、受け入れられない」
俺は、彼女の申し出を断った。
少しだけ、口の中に苦い味が残った気がした。
そんな俺の言葉を聞いて、レイはわずかに笑った。
その笑みは、どこか嬉しそうにも見えた。
「……そう言うと思ってました」
いつもの柔らかな声。けれど、その奥には、かすかに熱のようなものがにじんでいた。
「そういうことなら、私が旦那様のお相手をします」
その言葉には、先ほどまでの感情を振り払うような、硬質な響きがあった。
「……いいのか?
さっきのレイの戦いぶりを見てると、俺なんかじゃ、時間の無駄になるかもしれない」
今の俺には、まともに戦った記憶がない。
あんな大物をあっさり倒すレイに、わざわざ付き合ってもらえるような腕前じゃない。
「その程度で無駄と言われてしまったら、旦那様が目覚めるまでの五十億年は……私、どう表現すればいいのでしょうか?」
「それ、卑怯だろ……」
苦笑いが漏れた。
五十億年なんて言葉を前にしたら、俺の“遠慮”なんて、ただの言い訳にしか思えなかった。
「ああいえ、旦那様を責める気は無くて……」
レイはそう言って、ひとつ息を吸い込んだ。
そして、ほんの少しだけ、視線を落とした。
「旦那様がもし、私に引け目を感じていると仰られるのであれば、私のお願いをひとつ聞いてくださいませんか?」
静かに、けれどはっきりと彼女は言った。
「旦那様と一緒に旅がしたいです。ここから遠くへ」
一瞬、言葉が出なかった。
それほどまでに、彼女の声はまっすぐで、揺らぎがなかった。
ただの願いごとじゃない。
五十億年を待ち続けた彼女が、今ようやく手に入れようとしている“日常”なんだと思った。
どうしてだろう。
その一言が、やけに胸に刺さった。
"考えさせてくれ"
本当はそう言いたかった。彼女が愛しているのは"昔の俺"であって、今の俺じゃないからだ。
そこまで理解しているのに、俺は断る気も保留する気にもなれなかった。
だって、五十億年だぞ!?
昔の俺への想いを抱いて、ただひとり存在し続けた彼女の願いを、俺が否定できるわけが無いだろ……!!
その想いに、その願いに泥を塗るような振る舞いはしてはならないと、俺はそう思った。
……だから、
「もちろん。
レイがそうしたいなら、一緒に旅に出ようよ」
彼女の想いに応えるために。
そして、自分自身と向き合うために。
俺は、その願いを受け入れることにした。
俺の言葉を聞いた瞬間、彼女の顔がぱっと明るくなった。
まるで長い冬を越えて、初めて陽の光に出会ったように。
「では、明日から旅に行きましょう!」
彼女の表情が、まるで花のように開いた。
「ですが、先にギランザスの処理をしましょう。
……少しお腹も空いてきたので」
それから、子供のように小さく舌を出して、何かを誤魔化すような表情をしていた。