表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
失った記憶、消えない愛。  作者: 言ノ悠
第一章 〜「記憶にない世界と一途な君」〜
5/30

005話

 ギランザスの牙が、空気を裂く音とともに振り下ろされた。

 レイは一瞬で重心を落とし、しなやかに地を這うように身をかがめて、その一撃をするりと避けた。

 そんな彼女の動きには一切の迷いはなく、骨の有無を疑うほどの柔軟さがあった。


 ギランザスの巨悪な牙をかいくぐり、顎の下からレイが這い出る。

 身体を反転させると同時に、手にした銀黒の槍がしなり、そのまま一気に振り抜かれた。

 ためらいも抵抗もなく放たれたその力は、彼女の身体ほどもある巨体の後脚をあっさりと切り裂いていた。


 苦痛に耐えかねたのか、ギランザスは悲鳴とも威嚇とも取れる咆哮を上げた。

 動きは明らかに鈍り、片足を引きずったまま、尾を荒々しく振り回す。地面が抉れ、舞っていた土煙はさらに濃く、視界を悪化させた。


「レイっ!?」


 勝手に声が出た。でも、それが杞憂であったことは、直後に思い知らされた。


 土煙の向こう、黒く鋭い瞳が一瞬だけ光る。

 まっすぐギランザスを射抜くその視線に、一切の揺れはなかった。


 風に乗って、艶やかな黒髪がはためいた。

 彼女は一気に、巨体の腹下へ飛び込む。槍が肉を裂く鋭い金属音が、空気を震わせた。


 次の瞬間、赤い線が走ったのが見えた。

 腹部に深く突き立った銀黒の槍から、粘ついた液体が地面に叩きつけられていた。


 巨獣が短く、低く呻いた。

 まるで最後のあがきのようだった。吹き出した深紅は彼女の黒髪を染めていく。

 さらに、尾をじたばたと振り回し、牙を振り下ろすように暴れていた。俺には、それが焦っているように見えた。


 腹に突き立った槍をどうにかしたいのかもしれないが、レイの立つ位置には絶対に届かない。

 そしてギランザスの動きは徐々に鈍くなり、やがて地面へと崩れるように倒れ伏した。


 暴れる尾も、響いていた咆哮も、ぴたりと止み、無音の空間がその場を支配していた。

 俺は、返り血で赤く染まったレイに、何と声をかければいいのか分からなかった。

 結局、何も言えないまま、その背を見つめていた。


 すると、そんな俺に気づいたのか、顔についた返り血をそっとぬぐいながら、彼女はゆっくりと振り返った。

 そして、いつものように、柔らかな笑みを浮かべた。


「旦那様も、これくらいは簡単に倒せるようになりますよ」


 その言葉を、俺は不思議と、否定する気にはなれなかった。


「そうだと良いんだけどな」


 でも、その言葉を素直に肯定できるほど、自信があるわけでもなかった。

 それでも、これからの俺に必要なものが何かは、はっきりと理解できた。

 目の前に広がっていた現実が、答えを教えてくれていた。


「こんなに危険な世界なら、俺も強くならないといけないよな」


 気づけば、口をついていた。自分自身への、小さな確認のつもりだった。


 レイが歩み寄ってくる。

 気づけば、彼女が目の前にいた。俺より少し背の高いその姿に、自然と視線が上を向いた。


「旦那様は気にしなくていいのですよ?」


 そんなふうに、不思議そうな顔で言われた。


「流石に気にするだろ」


「私がお守りしますよ?

 そう簡単には、誰かに負けたりしません」


 なぜか、何もしなくていいような気がしてしまった。


 けど、そういうことじゃないよな。

 そういうことじゃない。


 守られる自分は、ひどく気色が悪い。


「ごめん。それは、受け入れられない」


 俺は、彼女の申し出を断った。

 少しだけ、口の中に苦い味が残った気がした。


 そんな俺の言葉を聞いて、レイはわずかに笑った。

 その笑みは、どこか嬉しそうにも見えた。


「……そう言うと思ってました」


 いつもの柔らかな声。けれど、その奥には、かすかに熱のようなものがにじんでいた。


「そういうことなら、私が旦那様のお相手をします」


 その言葉には、先ほどまでの感情を振り払うような、硬質な響きがあった。


「……いいのか?

 さっきのレイの戦いぶりを見てると、俺なんかじゃ、時間の無駄になるかもしれない」


 今の俺には、まともに戦った記憶がない。

 あんな大物をあっさり倒すレイに、わざわざ付き合ってもらえるような腕前じゃない。


「その程度で無駄と言われてしまったら、旦那様が目覚めるまでの五十億年は……私、どう表現すればいいのでしょうか?」


「それ、卑怯だろ……」


 苦笑いが漏れた。

 五十億年なんて言葉を前にしたら、俺の“遠慮”なんて、ただの言い訳にしか思えなかった。


「ああいえ、旦那様を責める気は無くて……」


 レイはそう言って、ひとつ息を吸い込んだ。

 そして、ほんの少しだけ、視線を落とした。


「旦那様がもし、私に引け目を感じていると仰られるのであれば、私のお願いをひとつ聞いてくださいませんか?」


 静かに、けれどはっきりと彼女は言った。


「旦那様と一緒に旅がしたいです。ここから遠くへ」


 一瞬、言葉が出なかった。

 それほどまでに、彼女の声はまっすぐで、揺らぎがなかった。


 ただの願いごとじゃない。

 五十億年を待ち続けた彼女が、今ようやく手に入れようとしている“日常”なんだと思った。


 どうしてだろう。

 その一言が、やけに胸に刺さった。


 "考えさせてくれ"


 本当はそう言いたかった。彼女が愛しているのは"昔の俺"であって、今の俺じゃないからだ。

 そこまで理解しているのに、俺は断る気も保留する気にもなれなかった。


 だって、五十億年だぞ!?


 昔の俺への想いを抱いて、ただひとり存在し続けた彼女の願いを、俺が否定できるわけが無いだろ……!!


 その想いに、その願いに泥を塗るような振る舞いはしてはならないと、俺はそう思った。


 ……だから、


「もちろん。

 レイがそうしたいなら、一緒に旅に出ようよ」


 彼女の想いに応えるために。

 そして、自分自身と向き合うために。

 俺は、その願いを受け入れることにした。


 俺の言葉を聞いた瞬間、彼女の顔がぱっと明るくなった。

 まるで長い冬を越えて、初めて陽の光に出会ったように。


「では、明日から旅に行きましょう!」


 彼女の表情が、まるで花のように開いた。


「ですが、先にギランザスの処理をしましょう。

 ……少しお腹も空いてきたので」


 それから、子供のように小さく舌を出して、何かを誤魔化すような表情をしていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

小説家になろう 勝手にランキング

ブクマ・ポイント評価お願いしまします!
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ