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失った記憶、消えない愛。  作者: 言ノ悠
第一章 〜「記憶にない世界と一途な君」〜
4/30

004話

 外への扉を開けた瞬間、肌をなぞる風が、わずかに冷たかった。

 その感触は妙に鮮明で、外の空気に触れたという事実だけが、やけに現実味を帯びていた。

 けれど、それが何かを変える兆しになるような気は、どうしても湧いてこなかった。


 外に出れば、何かが変わるかもしれない──そんな期待は、どこかにあった。

 だが、記憶のない俺にとって、それを実感として掴むことはできない。

 仮に記憶があったとしても、五十億年も経っていれば、目に映るものすべてが初めてに等しい。

 戸惑うのも、当然のことだった。


「旦那様、久方ぶりの外はいかがですか?」


 すぐ隣で、レイが顔を覗き込んでくる。

 彼女は漆黒の外套をまとい、背には槍を携えていた。

 つい先ほどまで病室のような空間にいたときとは、印象がまるで違う。

 その姿は、静かに、けれど確かに引き締まった空気をまとっている。


 けれど、問いかけにすぐ答えることはできなかった。

 空を見ても「青い」としか思えないし、この風景が懐かしいのかすらわからない。

 それでも、足元に伸びる小道や、整然と並べられた植栽、わずかに咲いた花々を見て、なんとなく察した。

 これは自然のままじゃない。誰かが、ずっと手を入れていた。


「……これも、レイが?」


「はい。施設の中だけで過ごすのも、少し息が詰まりますから」


 レイはそう言って、静かに笑った。


 五十億年。

 ただ時間が過ぎたわけじゃない。

 この景色は、その時間の中で、彼女がずっと守ってきたものなんだと思った。


 気づけば、言葉が漏れていた。


「……すごいな」


「お褒めにあずかり、光栄です」


 レイはにっこりと微笑み、静かに頭を下げた。

 そしてそのまま、視線をふと遠くの森へと向ける。


「この辺りも、昔は神々や人々で賑わっていたんです。

 ……でも、十億年も経った頃には、もう誰の姿も見えなくなっていました」


 彼女の視線を追って遠くを見やる。

 そこにあったのは、青々と茂る木々と、深く連なる森だけだった。

 俺が目覚めた施設のような人工物は、どこにも見えなかった。


「五十億年も経てば、そりゃ何も残らないか」


 その年月は、ひとつの惑星が、発生してから爆発するまでの寿命と同一だったりするわけで。


「そうですね。旦那様はほんとにお寝坊さんですね」


 レイの言葉には、ときどき冗談のような皮肉が混じる。

 けれど今の俺には、それにどう返せばいいのかもわからなかった。

 昔の俺は、もっと気の利いた返しができたんだろうか。


「神々も人々もいなくなってしまいましたが……それでも、獣の類は今も残っています」


 そのときだった。

 地の底から響くような重い振動が、微かに足元へと伝わってきた。

 最初は気のせいかと思ったが、すぐに確信へと変わる。

 遠くで、何か巨大なものが歩いている音がした。ずしん、ずしんと、規則的な重低音が大地を揺らしている。


 レイも動きを止め、視線を前方の森へと向けている。

 木々の向こう、見通しの悪い茂みの奥から、何かが確実にこちらへ向かっていた。


「な、なあ、レイ?

 ……まずいんじゃないか?」


 思わず、息を呑んだ。胸の奥が、不自然に早く脈打つのを感じる。

 自分の意思とは無関係に、手が腰の剣へと伸びそうになっていた。身体が勝手に動いていた。


「大丈夫です。慌てず、様子を見ましょう」


 レイの声は落ち着いていたが、その目は真剣だった。


 地鳴りが、徐々に大きさを増していく。

 ずしん、ずしん。大地を叩くような重い足音が、一定の間隔で響き、そのたびに足元の土がわずかに震えた。


 森の奥、木々を押しのけるようにして、“それ”が姿を現した。見上げるほどの巨体だった。


「……ギランザス」


 レイがその名を口にする。小さな声だったが、はっきりと聞こえた。


 全身は灰と黒の斑模様に覆われ、背には鋭い突起が骨格に沿って並んでいる。

 長く伸びた尾が地面を薙ぎ払い、その動きに呼応するように木々が軋む。

 二本足で大地に立ち、前手は小さく胴に備え付けられていた。


 巨体から吐き出される熱気が空気を揺らし、周囲に緊張が走る。

 頭部は岩のようにごつごつとしており、口から覗く牙は刃のように鋭い。

 鼻孔から漏れる息に含まれた熱で、足元の草がじりじりと焼けていた。


 その眼は鋭く光り、獲物を逃す気など微塵もないように、こちらを射抜いていた。

 理性などない。ただ、喰らうために迫ってくる目だった。


 その姿を見て、俺は「無理だ」と判断した。


 あの巨体、皮膚の代わりに岩を貼り付けたような鱗、鋭く湾曲した爪と牙。

 どこを見ても、まともな生き物じゃない。

 踏み込まれれば、ただの人間では一瞬で押し潰される。それだけは、考えなくてもわかる。


「……レイ、逃げなくていいのか?」


 問いかけた声が、思ったよりも落ち着いていたのは、自分でも意外だった。

 だが、恐怖ではない。ただ、目の前の“異常”を見て、淡々と確認をしている感覚だった。


 レイはすでに構えていた。

 背から抜いた銀黒の槍を、右手で軽やかに握り、左足を半歩引いた姿勢で地面を踏みしめる。

 その動きには一切の無駄がなく、先ほどまでの穏やかさは影も形もなかった。


「大丈夫です。あれくらいなら、充分に対処できます」


 静かな声だった。

 過信ではなく、確信に満ちた言い方だった。


 ギランザスの足取りが、さらに重く、大きくなる。

 距離はまだあるはずなのに、足元が震え、空気が張りつめていく。その“圧”の異常さは、感覚だけで理解できた。


 それでも、彼女は微動だにしない。

 その横顔を見ながら、俺はどこか奇妙な感覚を覚えていた。


 深く低い唸り声が、巨体の喉奥から漏れる。

 それは威嚇ではなく、確実に狙いを定めた獣の音だった。


 次の瞬間、巨体が地面を蹴る。

 重い空気を裂きながら、一直線にこちらへ向かってくる。


 大地が揺れる。

 風が巻き上がる。

 なのに、レイは動かない。

 ほんの少しも揺るがず、ただその槍を握ったまま立ち続けていた。


 その姿を見ながら、俺は──

 何もできないまま、ただその背中を見つめていた。

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