004話
外への扉を開けた瞬間、肌をなぞる風が、わずかに冷たかった。
その感触は妙に鮮明で、外の空気に触れたという事実だけが、やけに現実味を帯びていた。
けれど、それが何かを変える兆しになるような気は、どうしても湧いてこなかった。
外に出れば、何かが変わるかもしれない──そんな期待は、どこかにあった。
だが、記憶のない俺にとって、それを実感として掴むことはできない。
仮に記憶があったとしても、五十億年も経っていれば、目に映るものすべてが初めてに等しい。
戸惑うのも、当然のことだった。
「旦那様、久方ぶりの外はいかがですか?」
すぐ隣で、レイが顔を覗き込んでくる。
彼女は漆黒の外套をまとい、背には槍を携えていた。
つい先ほどまで病室のような空間にいたときとは、印象がまるで違う。
その姿は、静かに、けれど確かに引き締まった空気をまとっている。
けれど、問いかけにすぐ答えることはできなかった。
空を見ても「青い」としか思えないし、この風景が懐かしいのかすらわからない。
それでも、足元に伸びる小道や、整然と並べられた植栽、わずかに咲いた花々を見て、なんとなく察した。
これは自然のままじゃない。誰かが、ずっと手を入れていた。
「……これも、レイが?」
「はい。施設の中だけで過ごすのも、少し息が詰まりますから」
レイはそう言って、静かに笑った。
五十億年。
ただ時間が過ぎたわけじゃない。
この景色は、その時間の中で、彼女がずっと守ってきたものなんだと思った。
気づけば、言葉が漏れていた。
「……すごいな」
「お褒めにあずかり、光栄です」
レイはにっこりと微笑み、静かに頭を下げた。
そしてそのまま、視線をふと遠くの森へと向ける。
「この辺りも、昔は神々や人々で賑わっていたんです。
……でも、十億年も経った頃には、もう誰の姿も見えなくなっていました」
彼女の視線を追って遠くを見やる。
そこにあったのは、青々と茂る木々と、深く連なる森だけだった。
俺が目覚めた施設のような人工物は、どこにも見えなかった。
「五十億年も経てば、そりゃ何も残らないか」
その年月は、ひとつの惑星が、発生してから爆発するまでの寿命と同一だったりするわけで。
「そうですね。旦那様はほんとにお寝坊さんですね」
レイの言葉には、ときどき冗談のような皮肉が混じる。
けれど今の俺には、それにどう返せばいいのかもわからなかった。
昔の俺は、もっと気の利いた返しができたんだろうか。
「神々も人々もいなくなってしまいましたが……それでも、獣の類は今も残っています」
そのときだった。
地の底から響くような重い振動が、微かに足元へと伝わってきた。
最初は気のせいかと思ったが、すぐに確信へと変わる。
遠くで、何か巨大なものが歩いている音がした。ずしん、ずしんと、規則的な重低音が大地を揺らしている。
レイも動きを止め、視線を前方の森へと向けている。
木々の向こう、見通しの悪い茂みの奥から、何かが確実にこちらへ向かっていた。
「な、なあ、レイ?
……まずいんじゃないか?」
思わず、息を呑んだ。胸の奥が、不自然に早く脈打つのを感じる。
自分の意思とは無関係に、手が腰の剣へと伸びそうになっていた。身体が勝手に動いていた。
「大丈夫です。慌てず、様子を見ましょう」
レイの声は落ち着いていたが、その目は真剣だった。
地鳴りが、徐々に大きさを増していく。
ずしん、ずしん。大地を叩くような重い足音が、一定の間隔で響き、そのたびに足元の土がわずかに震えた。
森の奥、木々を押しのけるようにして、“それ”が姿を現した。見上げるほどの巨体だった。
「……ギランザス」
レイがその名を口にする。小さな声だったが、はっきりと聞こえた。
全身は灰と黒の斑模様に覆われ、背には鋭い突起が骨格に沿って並んでいる。
長く伸びた尾が地面を薙ぎ払い、その動きに呼応するように木々が軋む。
二本足で大地に立ち、前手は小さく胴に備え付けられていた。
巨体から吐き出される熱気が空気を揺らし、周囲に緊張が走る。
頭部は岩のようにごつごつとしており、口から覗く牙は刃のように鋭い。
鼻孔から漏れる息に含まれた熱で、足元の草がじりじりと焼けていた。
その眼は鋭く光り、獲物を逃す気など微塵もないように、こちらを射抜いていた。
理性などない。ただ、喰らうために迫ってくる目だった。
その姿を見て、俺は「無理だ」と判断した。
あの巨体、皮膚の代わりに岩を貼り付けたような鱗、鋭く湾曲した爪と牙。
どこを見ても、まともな生き物じゃない。
踏み込まれれば、ただの人間では一瞬で押し潰される。それだけは、考えなくてもわかる。
「……レイ、逃げなくていいのか?」
問いかけた声が、思ったよりも落ち着いていたのは、自分でも意外だった。
だが、恐怖ではない。ただ、目の前の“異常”を見て、淡々と確認をしている感覚だった。
レイはすでに構えていた。
背から抜いた銀黒の槍を、右手で軽やかに握り、左足を半歩引いた姿勢で地面を踏みしめる。
その動きには一切の無駄がなく、先ほどまでの穏やかさは影も形もなかった。
「大丈夫です。あれくらいなら、充分に対処できます」
静かな声だった。
過信ではなく、確信に満ちた言い方だった。
ギランザスの足取りが、さらに重く、大きくなる。
距離はまだあるはずなのに、足元が震え、空気が張りつめていく。その“圧”の異常さは、感覚だけで理解できた。
それでも、彼女は微動だにしない。
その横顔を見ながら、俺はどこか奇妙な感覚を覚えていた。
深く低い唸り声が、巨体の喉奥から漏れる。
それは威嚇ではなく、確実に狙いを定めた獣の音だった。
次の瞬間、巨体が地面を蹴る。
重い空気を裂きながら、一直線にこちらへ向かってくる。
大地が揺れる。
風が巻き上がる。
なのに、レイは動かない。
ほんの少しも揺るがず、ただその槍を握ったまま立ち続けていた。
その姿を見ながら、俺は──
何もできないまま、ただその背中を見つめていた。