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【初稿】失われた記憶、消えない愛。取り返す記憶、紡がれる愛。  作者: 言ノ悠
第四章 ~「冒険者との邂逅と魅せる君」〜
35/75

035話

 森の南側は、先ほどまでの雑木林とは異なり、どこか湿った空気に包まれていた。


 太陽は頭上にあるはずなのに、枝葉が異様なほど密に重なり、光が地に届かない。そこに差し込むのは、ひんやりとした薄暗さと、やけに静かな風音だけだった。


「……なんだろう。空気が違う」


 セランが呟くように言い、剣の柄に軽く手を添える。彼女は五人組の斥候役のようだ。


「たしかに。音が、しない」


 アッシュが立ち止まり、耳を澄ませた。


 それまで森に響いていた小鳥のさえずりや虫の羽音が、ここに入った瞬間からぱたりと消えている。風が木の葉を揺らしているはずなのに、なぜか音が感じられない。


「魔物の気配も、さっきから消えている。……これは、嫌な兆候だな」


 グランの声に、隊全体がわずかに緊張を深める。リオとレイナも、武器に手を添えて歩調を整えた。


「……ユリ、大丈夫か?」


 俺はそっと声をかける。彼女は体を揺らしながらも、真っ直ぐ前を見つめていた。


「大丈夫だ。だが……まあまあな大物が居るぞ」


 ユリは周りに聞こえないように、俺の耳元でそう告げた。


「待って」


 セランのその一言に、全員の足がわずかに止まった。


「そこに“いる”ってことか……」


 俺は言葉を絞るように呟いた。ユリが大物と評するくらいだ。それなりに強力な存在なのだろう。


 その時だった。


「……これは、当たりか?」


 俺たちの視線の先、鬱蒼とした木々の隙間に、巨大な黒い“塊”が横たわっていた。

 それは巨大な牙を生やし、翼を生やし、硬そうな鱗を身にまとっていた。誰が見ても"竜"そのものだった。

 木々をなぎ倒すようにして横たわるその竜は、全身を深い闇で染め上げたような色をしており、息をしているのかどうかも分からないほど静かに眠っていた。


「……天災級じゃねぇか」


 グランが低く呟いた。その声には、これまで聞いたことのない緊張が混じっていた。


 “天災級”。

 その言葉の意味はよく分からなかったが、彼の強張った顔を見れば、どれだけの脅威なのかは容易に察せた。


「なるほど……。竜がこの森に住み着いたせいで、魔物たちが街の方へと追いやられていたんだな」


 アッシュが唸るように言った。原因と結果を即座に結びつけられるのは、経験があってこそだろう。


「この事実は、冒険者ギルドに伝えるべきだな。……撤退するぞ」


 グランが判断を下そうとしたその瞬間だった。


 重く、湿った空気が一変した。


 黒い竜の片目がゆっくりと開かれ、ぎらりとこちらを捉える。


 次の瞬間、地の底を揺るがすような、凄まじい咆哮が森中に轟いた。


 その竜の瞳には、一切の理性が感じられなかった。


 まるで飢えた獣のように、ただこちらを“獲物”と見なしているだけの、冷たく濁った光だった。


「……俺が囮になる。おまえたちは、この隙に逃げろ」


 グランは、大剣を構えたまま一歩前へ出る。その声音には、迷いがなかった。


 俺は"究極の忘却"で、その黒い竜を消してしまおうと、手のひらをむけた。すると、その腕をユリが静かに、しかし確かな力で押し下げた。


「その力は特殊過ぎる。彼らの前で使うべきではない」


 耳元で低く囁かれた言葉に、俺はわずかに逡巡し、使うのを止めた。


 確かに、今この場で“コイツ”を使えば、敵だけでなく、味方にも恐怖を与えかねない。


「……わかった」


 俺が応じるのと同時に、レイが一歩、竜の前へと進み出た。


「私が行きます」


 そう言って、迷いのない手つきで槍を握る。


 風が吹いた。


 その風を合図に、レイは迷いなく地を蹴った。


 黒竜との距離を、一気に詰めていく。その動きは滑るように速く、だが無駄は一切なかった。


 森の中、巨体を揺らす黒竜が咆哮を上げる。濁った赤の眼光が、眼前へ迫る小さな影を捉える。


 その巨顎が開いた。地鳴りのような咆哮とともに、牙が迫る。


 だが、レイの動きはそれを完全に見切っていた。


 咆哮の一瞬前に、低く、素早く身を沈め、その足元へと潜り込む。


 振り下ろされる前脚を、紙一重で躱す。


 そして、槍が閃いた。


 鋭い一撃が、黒竜の脚の鱗と鱗の隙間を正確に突き上げる。


 レイが小さく何かを呟いた。手応えを確認しているのかもしれない。


 黒竜は怒り狂ったように唸り声を上げ、尾を振り回した。


 その風圧だけでも木々が揺れ、草がなぎ倒される。


 レイは跳躍し、枝を蹴ってさらに距離をとる。 


 その動きに、グランが息を呑んだ。


「……化け物かよ、あの動き」


 アッシュたちも、ただ呆然とその光景を見ていた。


 だが、戦いはまだ始まったばかりだった。


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