030話 Feat.ユリ
「くっ……後悔するぞ?」
神は、苦汁を呑んだような顔でそう吐き捨てた。
「何をどう後悔するって?」
シンはまるで動じない。神の言葉すら、彼にとっては取るに足らないもののようだった。その姿が、我には妙に心地よかった。まるで、我の存在を肯定してくれているようで。
「……覚えていろ」
神々は捨て台詞を残し、そのままどこかへと姿を消した。
その直後、空が晴れ渡った。
「空が、綺麗になったな」
見上げたシンがつぶやく。広がるのは、雲ひとつない透き通る青。
元から青かったのだが、それでも、とても透き通っているように感じた。
「ええ、本当に……。ユリはいかがですか?」
「……そうだな。我も、綺麗だと思う」
吸血鬼である我にとって、異端であったとしても、青空というものは縁遠いものだった。けれど、今目にしているこの空は、ただただ美しいと思えた。その言葉に、偽りはなかった。
「そうですか。なら、それだけで……連れ出した意味があったというものです」
「そうだな。封印を壊した価値があった」
「……どういうことだ?」
彼らのやり取りが、我にはいまひとつ掴めなかった。
「そのままの意味ですよ。貴女を連れ出して、貴女が少しでも幸せに感じてくれたのなら、私たちの行動に意味があったということです」
「……意味はあった。我はそう思うし、それはそうだと言い続けるぞ」
シンとレイの行動が我を救ったのだ。その事実は、決して否定されるべきではない。だからこそ、我は声に出して、はっきりと肯定した。
救われた側が、すぐにできる恩返しは、その善を肯定することだ。
その言葉を聞いた二人は、ほとんど同時に、穏やかな笑みを浮かべた。その微笑は、長い時間を共に歩んできた者にしかできない、深い絆の証のように見えた。
「それなら、良かったです。……それより、旦那様?」
レイが、ふと彼に視線を向ける。
「ん?」
「記憶……戻ったんですか?」
その問いかけは、どこまでも穏やかで、肩の力が抜けたようなものだった。
「……いや。戻ってない。ただ、口が勝手に皮肉を言っただけだ」
「……そう、ですか。時間がかかるとは聞いてましたから、そうですよね」
レイの声が、ほんの少しだけ沈む。
彼女が正気ではないことは我も理解している。だが、だからといって、彼の記憶喪失を気にも留めていないわけではないようだ。
その表情には、期待しては落胆する……そんな想いの繰り返しが、静かに滲んでいた。
レイは優しい。それを知っているからこそ、今の彼女の表情が、どこか痛ましく見えた。
狂っていなければ、とてもやっていられなかったのかもしれない。そう思うと、我には何とも形容できなかった。
「……気にしないでくださいね」
我の視線に気づいたのだろう。レイはそう言って、微笑みを作った。
気丈に振る舞おうとしたのだと思う。ただ、その笑みはどこか無理をしているように見えた。声の調子にも、わずかな震えがあった。
本当の強さではなく、誰かのために強くあろうとする、そんな無理の仕方だった。
何かしてやれたら、良いのだが……
彼の記憶を取り戻す方法はあるのだろうか?
当然ながら、その方法に心当たりはない。
そもそも、何が起こって、何があって、彼の記憶が消えたのか、我は詳しく知らない。
方法を考える材料がない。であれば、聞くしか無いのだが、シンはあまり詳しく知らなさそうだ。
レイは……知ってそうだが、彼の前で話してはくれないだろう。
彼らが別に行動する場面は、とても短い付き合いであるが、あまり存在しない。あまり想像もできない。
「次は、どの方面に歩こうか?」
シンが、穏やかに問いかけるように言葉を落とした。
「でしたら、こちらの方角が今の進路です。そちらへ進んでみませんか?」
レイがそう答えながら、手元の地図らしきものに視線を落とす。
「……その地図はどこで?」
シンは訝しげな目を向けた。
「先程の地下都市に落ちてました」
あの地下都市に、地上を描く地図が存在しているとは思わなかったから、レイの言葉には我も内心で驚いた。
「いつの間に拾ったんだか……」
シンは一度だけ肩を落としてから、我に視線を向けてきた。
「ユリは、それで構わないか?」
「我に異論はない。周囲のことなど、ほとんどわからぬゆえ、判断できん」
土地勘もなければ、地理にも疎い。我にとっては、どの道も初めてのようなものだった。
「じゃあ、その方向に進もう」
シンは、我らの進むべき道を決めた。そして、そのまま歩き始めた。
進む先には、しばらく続く草原、更にその先には、とても薄暗い森があった。
森の手前まで来ると、足元には伸びすぎた草が絡みつき、低木や雑草が無造作に茂っていた。進むには少し骨が折れそうな道だった。
「これでは足が……」
「歩きづらいな」
「我がなんとかしよう」
我は、朱色の刃が伸びた指先で、道を塞ぐ障害物を全て切り裂いた。
「さすがですね。私たちは道具を使う必要があるので、とても助かります」
「一手間かかるからな。ありがたいよ」
二人は、こんな些細なことにも感謝の言葉をかけてくれた。
確かに我が使ったのは、吸血鬼特有の技術だ。それでも、ここまで感謝されるようなことだろうか、と少しだけ戸惑う。しかし、悪い気はしなかった。
「これくらいは任せてくれ。我にとっては、手間でも何でもない」
これほど喜んでもらえるのなら、我も嬉しい。役に立てるのなら、いくらでも手を貸したくなる。
「ありがとうございます。もしよければ……料理のお手伝いも、お願いしてもいいですか?」
その提案には、思わず目を瞬いた。
「そ、それは構わぬが……料理をした記憶が、あまり無くてな……」
自分でも驚くほど声が裏返った。助けになりたい気持ちはある。だが、できないことまで引き受けるわけにはいかない。
「細かいところは私がやるので、大丈夫ですよ。簡単なことだけお願いします」
「そ、そうか……それなら、良いのかもしれん……」
「まあまあ、そういう話は歩きながらにしよう」
シンが軽く笑ってそう言うと、立ち止まっていた我らは、再び開かれた道へと歩みを進めた。




